#57 謝罪
「……ヒマだ」
両腕がほぼ使えないせいで、テレビのリモコンすらまともに押せないし、本のページもめくれない。
病室の天井を見上げては、窓の外の雲の流れをぼんやり追うだけの、なんとも言えない時間を過ごしていた。
「よお、黄昏てるな」
「うわっ先生!? どうして……」
不意に聞こえた声に振り向くと、物宮先生が片手をポケットに突っ込み、軽く口角を上げて立っていた。
「……確かに、その身体じゃスマホも触れねぇな。まあいい、とりあえず本題に入ろう」
そう言って先生は近くの椅子を引き、真っ直ぐ僕の目を見る。
そして――
「まず最初に謝らせてくれ……本当にすまなかった」
静かに、しかしはっきりとした声。
次の瞬間、先生は深々と頭を下げた。
「え、え? 先生、なんで謝って……?」
「実はな、昨日の深夜にはもう犯人の目途が立ってたんだ。だが、時間が時間だったから連絡を後回しにしてしまった……それが気になってな」
多分、それは先生なりの配慮だったんだろう。
岡崎の件もあったし、お互い疲弊していたのは事実だ。
むしろ僕の方こそ、あの警戒すべきタイミングで体調を崩し、夏音を一人にさせてしまった落ち度がある。
「先生、頭を上げてください。僕は怒ってなんかいませんし、責めるつもりも毛頭ありません」
「八重桜……ありがとう。それで、身体の方はどうだ? 一番の重体って聞いたが……」
そう言って先生の視線が、包帯で覆われた僕の腕に移る。
「……今まで通りの生活はできそうなのか?」
「ええ、どうやら完治とはいかずとも、日常生活にはそこまで支障は出ないらしいです。まあ、今は何もできなさそうですけど」
自虐気味に笑い、軽く腕を持ち上げて見せる。
「その状態なら、二週間の入院は妥当なこったな。素直に休め」
「……そういえば、この入院手続き、先生がやってくださったんですよね。じゃあ今はありがたく、お休みさせてもらいます」
そんな僕に対して、先生はいたずらっぽく口元を緩める。
「ああ、ゆっくり休め……それにしても、あの八重桜が篠原を担いで――」
「ぶはッ! いやいやいや! 担げるわけないじゃないですか! 背負って出てきたんです!」
何の噂が出回ってるの僕!?
「それでも、一つの大切な命が助かったことに変わりはない。……どちらにせよ、背負えたのは意外だったがな」
「あ、ありがとうございます……? まあ、自分でもなんで背負えたのか覚えてないんですよね」
あの時は意識も朦朧としていたし……。
本当に、なんでだったんだろう。
先生は空気を戻すように軽く咳払いした。
「話を戻そう。これは水津木にも聞いたが、何か犯人に繋がりそうな情報はないか? 簡単でいい」
少し記憶を探る。
思い出せるのは――昨晩の黒い服の人物くらい。
「先生が言っていた深夜の件と同じかもしれませんが、火事の現場で全身黒い格好の男を見ました」
「黒い服の……なるほど、俺が追っていた人物と一致するかもしれんな。体格や顔は覚えてるか?」
「……すみません、覚えてないです」
辛うじて男だとは思うが、顔も体格もぼやけていてはっきりしない。
「いや、いい。覚えてないなら無理に思い出さなくていい」
――待てよ。
なんでそんなに印象が薄い?
そうだ、あの時――
「……そうだ! 夏音です! その男、夏音の背後にこっそり近づいてました!」
思い出すままに話すと、先生は一瞬だけ目を見開き、すぐ顎に手を添えて考え込む。
「……なるほど。篠原にも関係がある可能性が高そうだな」
何かが繋がったのか、短く頷く先生。
「情報助かった。お前や水津木から貰った話を元に調べてみる」
「あ、いえ。全然気にしないでください」
本当にこの人、教師なのか探偵なのか分からなくなってきた。
「よし、俺の用は終わりだ。色々言いたいことはあるが、とりあえず休め。じゃあな」
軽く手を振って、先生は足早に病室を後にした。
「……あ、テレビくらい付けてもらえばよかった……」
静まり返った病室に、僕の声だけが落ちた。
窓の外では、薄曇りの空の向こうを、ゆっくりと影が流れていく。
――夏音の背後に近づいていた、黒い服の男。
あの一瞬の光景が、頭から離れない。
もしあの時、僕が間に合わなかったら。
もし、もっと早くに先生へ連絡していたら。
考えたところで答えは出ないのに、思考はどうしてもその「もし」に絡め取られてしまう。
今は、腕の痛みと、全身のだるさを言い訳にして眠ってしまおう。
……けれど、夢の中でさえ、あの黒い影が現れる気がしてならなかった。




