#55 兄さんも
「そういえば兄さん、ずっと邪魔するのも悪いからそろそろ部屋に戻るよ」
「あ、おい詩乃? ちょっと待っ……じゃあな、二人とも~!」
優斗が別れを告げて病室を出ると、棟哉くんは詩乃ちゃんに半ば引きずられるような形で、苦笑しながら病室へ戻っていった。
「あはは、仲良いねぇ、あの兄妹」
私がつい口にすると、ヒオちゃんは「そうだねぇ」と軽く相槌を打ち、それから思い出したように顔をこちらに向けた。
「そういえばなっちゃん、よくそんな軽傷で済んだよね?」
小首を傾げるその目は、不思議そうでいて少し安堵も混じっている。
「うん、あの時はね――」
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……まずい、このままだと……。
頭はズキズキと痛み、呼吸は喉の奥でひゅうひゅう鳴っている。
全身が重く、鉛のように動かない。
本能でわかってしまった――このままじゃ脱出は無理だ、と。
視界がかすみ始め、火の粉の赤が滲んで見える。
それでも、手探りでポケットからスマホを取り出し、ライトを点けた。
壁際まで這いずり、必死に腕を伸ばして体を起こそうとする。
――その瞬間、何かが頭上から崩れ落ち、強い衝撃が肩と背中を押し潰した。
……まずい……体が……動かな――
息を飲む間もなく、視界はすうっと暗闇に呑まれていった。
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「――って感じだったの」
話し終えると、ヒオちゃんが目を瞬かせ、まるで珍獣でも見るような視線を向けてきた。
「……それでこの怪我だけって、本当に運が良かったんだね……」
呆れ半分、感心半分といった声色。
化け物扱いはちょっと心外だけど、正直、私自身もそう思う。
あの炎の中から、この程度の怪我で生きて出られたのは――優斗が助けてくれたからだ。
……このところ、ずっと助けられてばかりだな。
だから、今度こそ私が――私たちを守る番だ。
心の中で静かに誓いを立てる。
「じゃ、そろそろ帰ろうかな……あ、やば。帰るとこ、どうしよう……」
立ち上がったヒオちゃんが頭を抱える。
「あ、そういえば……優斗の家の近くに空き部屋のあるアパートが――」
「えっ、マジ!? それお母さんたちにすぐ話す! じゃ、またね!」
私の言葉を食い気味に拾うと、彼女は足早に病室を出ていった。
看護師さんに怒られない程度の、絶妙な早歩きで。
……そういえば、棟哉くんは今頃どうしてるんだろう。
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「詩乃、俺が悪かったから、な?」
病室に戻ってしばらく経った今も、詩乃は棟哉の胸にしがみついたまま離れない。
小さな手に込められた力が、震えているのが伝わってくる。
「どうせ兄さんは、またすぐいなくなる……」
その声もまた、かすかに震えていた。
「……嫌だよ。兄さんまで帰って来なくなったら」
棟哉はその言葉に一瞬息を詰め、無意識に握っていたリストバンドを棚に置く。
そっと妹の背中を撫で、短くもはっきりと告げた。
「……悪かった」
その声に、詩乃は押し殺していた嗚咽を抑えきれなくなり、涙が病室に響いた。
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私のスマホが震える。
どうやら新しいグループチャットが作られたらしい。
作成者の名前は『Mr.ぶれいん』。
『まずは全員無事でよかった。……が、一人ずつ個人面談するからな』
短い文面が、妙に重たく感じられた。
「……個人面談、かぁ。まぁ、当然だよね」
私と優斗は親とほとんど連絡を取っていないけど……棟哉くんはどういう理由なんだろう。
考え込んでいると、コンコンとノックの音。
「篠原さん? 入りますよ。お加減はどうですか?」
「あ、はい! 私は平気です! ちょっと頭がズキズキするくらいで……って、優斗――ううん、八重桜くんは大丈夫なんですか!?」
看護師さんは私と目を合わせるようにしゃがみ、落ち着いた声で答える。
「八重桜さんは重体で、少なくとも二週間ほどは入院になります」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
優斗……やっぱり、かなり酷かったんだ。
今度こそ、私が力にならなきゃ。
「あの、看護師さんはどうして……? もしかして、もう退院準備――」
「ああ、違います。篠原さんは頭部に負傷があると聞いています。一度、脳の検査を受けませんか?」
……検査は受けた方がいい。
でも、今は優斗のお見舞いに行きたい。
「あの、それはありがたいですけど――」
言いかけた瞬間、ガラッとドアが開いた。
「よう篠原、早速来たぞ」
「せ、先生!? どうして……」
「どうしてって……個人面談に決まってるだろ」
……相変わらず、この先生はタイミングがおかしい。
ジャージ姿の、いつもの物宮先生がそこにいた。
「あぁ、そうそう。この子の検査は大丈夫そうだ、気遣い感謝する」
看護師さんは少し腑に落ちない様子で一礼し、病室を後にした。




