#50 逃げ遅れ
一階までなんとか降り、水を注いだコップを片手にバッグを探り、入っていた薬を一錠、口の中へ流し込む。
だが、数分待っても頭痛は治まる気配を見せず、思うように動けないまま刻一刻と時間だけが過ぎていった。
勢いで部屋から出てきたのはいいが、その反動で頭痛はさらにひどくなり、二枚並べられた座布団に身を投げる。
――あはは……これじゃ、どうしようもないよね……。
天井を見上げる気力もなく、壁掛け時計の針が6を指すころ、インターホンが一度だけ鳴った。
誰かが来たのだろうと思いながらも、体を起こす力はもう残っていない。
そうして横になったままでいると、ふと鼻先をくすぐるような焦げ臭さが漂ってきた。
「……この匂い、どこから――」
胸の奥にざわりとした嫌な予感が走り、重い体を無理やり起こす。
その瞬間、ズキズキと痛む頭でもはっきり理解できる光景が目に飛び込んできた。
「……まさか、火事……?」
一瞬で頭は冴えたが、もう手遅れだった。
ヒオちゃんの家は古い木造で、火に弱く、防火対策もほとんど施されていない。
結果、火の回りは恐ろしく早く、玄関の小窓からも裏手の出窓からも、すでに炎が立ち上っていた。
――逃げ道が、ない。
「……完全に……逃げ遅れた……」
だが、唯一の救いはヒオちゃんが外にいたことだ。
夢で見た光景が、それを知らせてくれたのかもしれない。
「って、そんなこと考えてる場合じゃない! 出ないと……!」
――――――――――――――――――――――――――
「おいヤエ! ヒオに電話できるか?」
今、僕は棟哉の背中に揺られながら、普段ではあり得ない速度で街を駆けている。
少し恥ずかしいが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「天名さん……だよね? うん、かけてみる」
「よし、落ちないようにしっかり支えてやる」
棟哉に背中からがっちり支えられ、片手でポケットからスマホを取り出し、天名さんの番号を押す。
数秒後、すぐに声が返ってきた。
『やっほー、ヤエ。急にどうしたの?』
「天名さん! あの――」
「おいヒオ! 無事か!?」
天名さんが電話に出たことを僕の反応で確認した棟哉が、僕の言葉を遮りながらも真っ先にそう声をかける。
そして僕はスマホを棟哉の耳に押し当て、通話がしやすいようにした。
『え!? 大丈夫って……何が?』
「今どこにいる?」
『ちょっと買い物してて、今帰ってるところだけど……』
「説明してる暇はない! お前の家、燃えてるかもしれない。急げ!」
『……え……? 嘘……』
一瞬、彼女の声が固まる。
「突っ立ってる暇があるならとりあえず走れ! 俺達も向かってる!」
『う、うん! 急ぐ!』
通話が途切れると同時に、棟哉が声を張った。
「行くぞ!」
「うん!」
ポケットにスマホをしまい、改めて棟哉の背にしがみつく。
その脚力はさらに速度を増し、風圧で頬が痛い。
ヒオちゃんが外にいるなら、多分夏音も――そう思って胸をなでおろしかけた、そのとき。
棟哉は僕を背負ったまま、あっという間に現場付近へ到着した。
バリケードは無く、野次馬たちが道の両側を埋めている。
「……あそこって――」
「言わないで……認めたくない」
「……俺だって、そうだ」
かつて木造の家があった場所は真っ赤に染まり、火の粉と熱気が押し寄せる。
紛れもなく天名さんの家だ。
「なんだよ……こんなの……!」
誰も消火を試みることもなく、ただ炎を眺める人々。
中に誰かいるかもしれないのに――。
そのとき、視界の端に走ってくる人影。天名さんだった。
……だが、一人きり。
「水津木、ヤエ! どうしよう、なっちゃんが……ヒナちゃんが……!」
涙に濡れた顔で僕らの腕にしがみつく天名さん。
その一言で、疑念は確信へと変わった。
「「――ッ!!」」
僕たちが家へ駆け出そうとした瞬間、天名さんの手がそれを止める。
「待って! 二人共そんな格好でどうするの?! 私、このまま三人が――」
「決まってるでしょ! 夏音を助けなきゃ……!」
「……このまま三人が、だと? ふざけた事言ってんじゃねぇよヒオ」
「……棟哉?」「……ぇ?」
棟哉の声は静かだが、怒りが滲んでいた。
彼は天名さんの胸倉を掴み、顔を近づける。
「じゃあお前は夏音を見捨てるっていうのか? 俺には絶対できない!」
「そうだけど……!」
天名さんは目を固く閉じ、動揺を隠せない。
「ヒオ、お前が友達を大事に思うのはわかる。だから夏音がどこにいるのか教えてくれ」
棟哉が手を離し、まっすぐに彼女を見据える。
「僕だって、夏音を失うのは嫌だ。止められても行く」
僕が口を開くと、天名さんはゆっくりと僕の瞳を見つめた後、目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸をする。
「ごめん、私がどうにかしてた……私も一緒に行く」
「わかった…………ありがとうな、陽織」




