#40 そういうタイミング
「自転車……今日はもういいか」
正直、全身の力が抜けていた。取りに行く気力なんて欠片もない。
それにあれ、もともと錆だらけで買い替えを考えていたくらいだ。
明日、まだ残っていれば回収しよう。
……いや待てよ?
天名さんの家は近いし、明日の朝に頼めばついでに持ってきてもらえるかもしれない。
「さすがに今日はダメだろうし……朝になったら連絡しよう」
そんなことを考えながら脱衣所へ入り、シャツを体から無理やり剥がす。
汗で背中や胸にぴったり張り付いて、思わず顔をしかめた。
「……あっつい……。いやこれ、ほとんど冷や汗だな」
脱衣所のタンスを開ける――が、すぐに固まる。
「……やば、着替え持ってきてない」
ここにあるのは下着とタオルだけ。
部屋着は全部、自室のタンスに入っている。
ズボンは後で洗濯に回せばいい。問題は上だ。
視線を横にずらすと、そこにはぐったりと床に置かれた汗まみれのシャツ。
……あれをもう一度着るのは、できれば避けたい。
まぁ夏音に見られたところで別に――
「いや、普通に恥ずかしいでしょ……」
でも背に腹は代えられない。
結局、腹を括ってシャワーの準備を始めた。
ぬるめ寄りの冷たいシャワーが頭上から落ちてくる。
「……気持ちいい」
じわじわと火照った体温が下がっていく。
だが同時に、さっきまで頭の隅に引っかかっていたことが再び浮かび上がる。
「あの夢……なんだったんだ」
夏音を探す自分、煙に咽せる息――。
さっきの火事と、あまりにも似すぎている。
「予知夢……?」
いやいやそんな訳無いか。
元中二病だしそんな物が存在しないのは僕が一番よく判ってる……けど――
「この間も似たような経験したし……あり得は、するのか?」
髪から落ちる雫をぼんやりと眺めながら、そんな非現実的なことに答えを出すのはやめた。
今は何も考えず、体を洗おう。
――――――――――――――――――――――――――
優斗に先に家へ入らせてもらい、私はソファーに腰を下ろした。
「……本当に、悪いことしちゃった」
あの子は怒っていないと言ってくれたけど、冷静に考えれば、火事があったからといってこんな時間に一人で飛び出すのは危険すぎる。
もし事故に巻き込まれでもしたら……。
「……これも、あの夢の通りなのかもしれない」
そう思いかけたとき、テーブルの上のスマホが震えた。
画面には『ヒオちゃん』の文字。
「こんな時間に……? もしもし、ヒオちゃん?」
『あ、やっと出た~! 何回も電話しても反応ないから心配したんだから!』
少し怒り混じりだけど、声色はどこか安心している。
「ごめんごめん、お風呂入ってたから気づいてなかったよ、どうしたの?」
……嘘は言ってないよね。
私は少し申し訳無さを感じながら思いつつ、通話状態をスピーカーに変える。
『なっちゃんの家の前、周囲への被害はなかったけど全焼だって。現場が気になるからって夜中に出ちゃダメだからね?』
うぐ、と心の中で思いながらその問いに答える。
「……あたしは大丈夫。ヒオちゃんは、その後お母さんたちとどう?」
『私? 全然大丈夫! おしゃべりしてたら、外で消防車の音がして――って感じ』
元気そうな声に少し安心する。私も頑張らないと――。
「ヒオちゃん、あたしさ――」
悩みを打ち明けようとした、その瞬間。
「夏音、もう一回お風呂入る? 入らないなら着替え――あ」
タオルで髪を拭きながら、上半身裸の優斗がリビングへ入ってきた。
『(お風呂……? 着替え……?) あーーーーッ!! 今そういうタイミングだったのね! ごめんね! それじゃあ学校でねまた!』
「ちょちょっとヒオちゃん!?」「そ、そういうってどういう!?」
絶対変な誤解された……!
「ご、ごめんね。あの子には私から説明するから!」
「いや、今回のは完全に僕のタイミングが悪いから、僕からも言っておくよ!」
顔を見られないまま早口で言われても、表情が分からない。
「……で、なんで上着てないの?」
「え、あ、忘れてた! 着替え部屋に取りに行こうとしてたんだよ」
「あ、そ、そういうこと……」
ちらっと彼の体を見る。
細身だけど意外に筋はある。
しかも体力が極端に無いのも……まぁ人は見かけで判断しちゃいけないって事だよね、きっと!
「とにかく! 早く着替えて来て!」
「あぁそっか! 見苦しいもの見せちゃってごめんね!」
「いや別に見苦しいなんて……! 行っちゃった」
慌てて部屋へ戻っていく背中を見送り、スマホに目を落とす。
画面にはまだ『ヒオちゃん』の名前。
変な誤解はされたけど、少し元気をもらえた気がする。
昔は私が守る側だったのに、今は助けられてばかりだ。
「……ありがとう、ヒオちゃん」




