#36 物凄く嫌な予感
「その子は、きっと今も元気でやってると思うよ」
独り言を零した自覚がなかったのか、夏音は小さく肩を震わせる。
振り返らず、少し戸惑った声で問う。
「……どうしてそう思うの?」
「僕さ、昔は自分が嫌いでたまらなかったんだけど……ある女の子に、本気で励まされたことがあったんだ。それがあったから、今こうして前を向いていられる」
「………………そうなんだ」
……あれ、今の間、ちょっと長かったな。
やばい、柄にもなく真面目なことを言ったせいで、逆に気まずくさせたかも……!?
「と、とにかく! 夏音みたいに人を助けられる子に出会ったら、きっと誰だって前を向けると思うんだよ! だから大丈夫、元気出して!」
そう言うと、夏音は振り返り、ふっと口元をゆるめる。
安心したような笑みに見えた。
「……ごめんね、でもありがとう。ちょっと楽になったよ」
「そっか……それならよかった」
落ち着いた空気が流れ、ふと気づけば、手を伸ばせば触れられそうなほどの距離で見つめ合っていた。
「あ……ごめん、近すぎちゃった」
「ぼ、僕こそ! 全然気づかなかった!」
夏音は頬を薄く染め、視線を前へ戻す。
その様子を数秒だけ眺めてから、僕も前を向いた。
……すっっごい心臓がうるさい!
距離もだけど、ふわっと漂った髪とシャンプーの匂いが……いや、僕は何考えてんだ!?
思わず頬を叩きそうになったが、変人扱い確定なので必死に我慢し、目を閉じて頭を冷やすことにした。
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……びっくりした……!
気づいたら優斗の顔が、あんなに近くに……!
ドキドキしてすぐ逸らしちゃったけど……。
そのあとも見られてたし、絶対挙動不審に見えたよね!?
でも、あんな距離で真っ直ぐ見られたら、そりゃ誰だって……。
他にも色々あったし、とりあえず一回、目を閉じて整理しよう……。
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「なんだあれ、修行?」
「横に並んで、仲良く目を閉じてる……」
片付けもそろそろ終わりそうだったが、その異様な光景に二人は「そっとしておこう」と暗黙で合意し、作業を続ける。
「それにしても……なんだかんだ、今日もこんな時間までお邪魔しちゃったね」
「そうだね。そろそろ帰らないと」
時刻は20時過ぎ。
夜の静けさが深まり、悪意すら紛れ込みやすくなる時間帯だった。
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「おい、何やってんだ」
「とっ……棟哉!?」
不意に声をかけられ、変な声が出てしまった。
……顔、赤くなってないよね!?
「ど、どうしたの? もしかしてご飯足りなかった?」
「いや違うって……まあいいや。時間も遅いし、俺たちはもう帰るわ」
棟哉はすでに荷物を背負い、すぐにでも出られる格好だった。
「えー……じゃあ詩乃ちゃんも帰っちゃうの?」
「はい……これ以上お世話になるわけにはいきませんし……」
詩乃ちゃんは少し寂しげに笑う。
「あはは、明日も休みだし夜遅くなっても――」
「おいやめろ! そんなことしたら父さんに怒られる!」
「あ……そうですね。そういえばお父さん……絶対怒ってますね」
えっ……まさか連絡してなかったの!?
水津木家の父さん、娘息子大好きだからなぁ……僕まで怒られそう。
「じゃ、またな。あ、見送りはいらねぇぞ」
「さよならです、先輩方!」
「「うん、また今度!」」
姿が見えなくなった後、声が重なったことに気づき、思わず顔を見合わせる――が、
「「……!」」
さっきのように、同時に視線を逸らした。
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「今日も昨日も、楽しかったね」
「だね。兄さん、いつも以上にはしゃいでた」
棟哉が「そんなことねぇよ」と返すと、二人はくすっと笑う。
「まあ……また夏音ちゃんがいるときにでも遊びに行こうか」
「うーん……でもいいのかな。ヤエ先輩と夏音先輩って、どう見ても両想いさんだよね?」
「……どうだろうな」
棟哉が視線を逸らしたとき、背の高い黒ずくめの男が視界をかすめ、棟哉の背後へと通り過ぎていく。
背筋をなぞられたような、嫌な寒気が走った。
「(詩乃、今の見たか?)」
「(何、急に小声で)」
「(……いや、なんでもない)」
詩乃は首を傾げ、棟哉はスマホを取り出す。
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「「……ごめん!」」
また声が重なってしまった。
切り出すタイミングを同時に失い、妙な空気になる。
「そ、そういえば夏音はどうするの?」
「あ、あたしもそろそろ帰ろうかな!?」
夏音が立ち上がったそのとき、僕のスマホが震えた。
画面には、棟哉からのメッセージ。
『ヤエ、物凄く嫌な予感がする。夏音ちゃん、今日は帰らせるな』




