#32 謎の外出
僕の非力さもあって、ゆっくりとしか歩けずにリビングへ入り、夏音をソファへそっと横たえた。
「夏音、僕にできることがあったら、何でも言って。遠慮しなくていいから」
「……うん……ありがと……ゆー……」
言葉を最後まで言い切る前に、夏音は瞼を閉じてしまった。
寝かせて数秒で眠る――いや、これは眠ったというより気絶に近いのかもしれない。
「五分以内に眠ったら危ない」――そんな話をどこかで聞いたことがあった僕は、途端に焦りを覚えた。
「ど、どうしよう! 夏音が……夏音が!」
「ヤエ先輩、一体どうしたんですか!」
作業の途中だったのだろう、詩乃ちゃんが慌てて駆け寄ってくる。
「な、夏音が! き、きぜ――」
「落ち着いてください! そのままじゃ助けられるものも助けられません!」
その一言で、我に返る。
僕は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
「……もう大丈夫?」
「うん、落ち着いた。それで……夏音が気絶しちゃったみたいなんだ」
詩乃ちゃんは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷静な目に戻る。
「作業は一旦中止します。……夏音先輩は――」
視線を向けると、夏音は微かにうなされてはいるが、呼吸は整っていた。
「私は医者じゃないですけど……呼吸に異常はありません。大丈夫そうですよ」
「ほんと!? よかった……」
「ただ、脱水症状の時は発汗で体温調整がしづらくなります。極端に冷えない限り、毛布はかけないでくださいね」
そう言って、詩乃ちゃんは「では戻ります」と軽く会釈し、奥へと戻っていった。
……何もかけないのは、どうにも落ち着かない。
タオルケットなんて無いし――。
「そうだ、これなら」
僕はワイシャツを脱ぎ、そっと夏音の上にかけた。
すると、苦しそうだった表情が少しずつ和らいでいく。
……安心できたのかな。
そう感じた僕は、ソファの前に腰を下ろし、ふぅと一息ついた。
「ヤエ先輩ー! 暇なら手伝ってくださーい!」
「あ、ごめん! すぐ行く!」
年下の、しかも親友の妹に一人で冷蔵庫整理をさせるのは気が引ける。
僕は静かに立ち上がり、夏音を起こさないよう足音を忍ばせて冷蔵庫へ向かった。
――――――――――――――――――――――――――
「たす……け……な……ちゃ……!」
――また、この夢。
白いもやの中、悲痛な女の子の声が響く。
どこかで聞いたことのある声……ヒオちゃんに似ている気がする。
以前の夢では、口が勝手に動き、言葉が出た。
けれど今回は、体も声も動かない。
――つまり、私が干渉できない場面なのかもしれない。
視界を巡らせると、目線の位置が低い。
テーブルよりも低く、まるで床に近い位置から見上げているようだ。
……あれ、この家具の配置……見覚えがある。
そう思った瞬間、視界がまた黒く染まり、声も遠のいていく。
この瞬間が、私は苦手だ。
闇に飲まれてしまいそうな、底知れない恐怖を感じるから。
けれど、不意に体がほんのり温かくなる。
何の温もりかはわからないが、懐かしい匂いを伴った、安心できる暖かさだった。
そして籠ったような世界に、一言だけはっきりと響く声。
ヒオちゃんではない、けれど確かに知っている声。
「夏音っ!」
――――――――――――――――――――――――――
夏音が眠ったまま、数時間。
日が傾きはじめ、僕たちは回復を待ちながらリビングで時間を過ごしていた。
そんな時――
「は、はいっ!?」
謎の大きな返事と共に、夏音が勢いよく飛び起きた。
肩で息をし、額には汗がにじんでいる。
「あれ……優斗、呼んだ?」
「いや、呼んでないよ」
夏音は「そっか」と小さく呟き、考え込むように表情を曇らせた。
「悪夢でも見たんだね。汗もすごいし、お風呂入ってきたら?」
「そーそ、心のケアも大事ってやつだ。……ってことで、まったりしてこい!」
「……兄さん、また覗くつもりで――って、汗?」
詩乃ちゃんがその言葉に反応し、数秒の沈黙。
次の瞬間、僕たち三人は同時に大きく息を吐いた。
「そうだ……汗だ! 夏音ちゃん、脱水じゃなかったんだ!」
「じゃあ……何ともなかったってこと?」
「多分、心の問題ですね。例の事件、私たちが思ってる以上に夏音先輩に負荷がかかってるのかも」
「そうか……ストレスか。俺も落ち込んでた時期があるし……わかる気が――って、今何時だ!?」
急に時計を見た棟哉。午後四時。
「……もう時間か。悪い、俺ちょっと出てくる」
「……そっか。気を付けてね」
さっきまでの明るさが消え、暗い表情で立ち上がる棟哉。
それを止めるように、夏音が手を伸ばす。
「待って! 棟哉くん、どこ――」
「夏音、止めないであげて」
「え? ……うん」
これは、棟哉自身の問題だ。
「ヤエ、ありがとな……じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい、兄さん」
棟哉はそう言って去っていった。
納得できないように、夏音が僕らを見る。
「ねえ、棟哉くんって……?」
「兄さんは毎週この時間に出掛けてます。……理由は、私でも話せません」
詩乃ちゃんが視線を逸らす。
夏音は僕を見つめ、答えを求める。
「ごめん、こればかりは僕も言えない」
「……そっか。……あ、優斗。頭痛薬ある?」
「え、もしかして……頭痛いの?」
「う、うん……結構」
――やっぱり、お風呂より休ませた方がいいかもしれない。




