#25 意外な性格
「ごめんね! もう時間ないと思って、菓子パンしか買ってこなかった!」
玄関で靴を脱ぎながら、夏音は慌てたように袋から一口サイズの子切れパンをいくつも取り出す。
「いやいや、買ってきてくれるだけでも十分ありがたいよ。僕なら行く気すら起きなかったし」
袋の中を覗くと、飲み物まで用意してくれていた。
さっき僕が持たされたのはそっちだったらしい。
……2Lのペットボトルが2本に加え、500mlのペットボトルが何本か。
僕の腕力じゃ2L一本でも息が切れるのに、これを抱えて帰ってきたのかと思うと頭が下がる。
しかも、急いで戻ったせいか、中身が減っているボトルまである。
「あー、それ私の! そこ置いといて!」
「ヤエ先輩、口つけちゃダメですよ?」
「へ? ……あぁ、わかったわかった」
反射的に手に持ってしまった水のボトルを、慌ててテーブルに置く。
……って、これただの水?
夏音が水を選ぶなんて珍しい。
「お、夏音ちゃんおはよ。朝ごはん買ってきたんだな?」
そう考えているうちに棟哉が戻ってきた――と思ったら。
「あー棟哉くん、おは……って、首元びっちゃびちゃだけどどうしたの?」
「え? あぁ、気にすんな。元はと言えば俺が悪いんだし」
「ほんとだよ兄さん!」
顔を豪快に擦ったらしく、鼻と頬は真っ赤。
首元からは水滴が今にも落ちそうなほど濡れている。
でも、あの落書きはきれいに消えて、いつもの棟哉に戻っていた。
「あーもう! 床濡れるから上脱いで! 服貸すから!」
「お? 悪いなぁ、そこまでしてもらって」
「はぁ……シャツはリビングに置いとくから、その濡れたやつは洗濯機に入れて」
棟哉は「何から何まで悪いな」と言いつつ、そそくさと洗面所に引っ込んでいった。
……絶対、片付けをサボる口実にしてるな。
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「優斗ってばすごいんだよ! 『ここは任せて先に行け!』って言って、私をここに行かせたんだよ!」
「ほんとですか!?」
「マジかヤエ! お前、男前になったなぁ……」
「ちょ、夏音! そんなこと言ってないし……いや、似たようなことは言ったけどさ!」
棟哉が戻ってきてから、朝食を囲んで皆で笑い合う。
ここまで肩の力を抜いて話せたのは、たぶん棟哉の騒がしさが場を和ませたからだ。
正直、ちょっと感謝してる……が、忙しいときにかき回す罪は軽くない。
――そのとき。
家の中に、短くインターホンが響く。
胸の奥がドクンと脈打ち、会話がぴたりと止まった。
四人とも、表情から緊張が滲み出る。
僕は発信源へ向かい、応答スイッチを押す。
モニターに映ったのは、予定どおり9時きっかりに現れた物宮先生と――もう一人。
……岡崎だった。
顔に以前の覇気はない。
それでも、数日前の出来事を鮮明に思い出させるには十分だった。
しかも先生はYシャツに白衣姿。
いかにも「物理の先生」という格好が、この場が冗談抜きの“本気の話”だと物語っている。
無意識に、左腕がわずかに震えた。
深呼吸を一度挟む間もなく、二度目のチャイムが鳴り、慌てて応答ボタンに指をかける。
「すみません、お待たせしました先生!」
「……お、やっと出たか。約束通り9時ピッタリだな。篠原は居るか?」
問いかけに、いつの間にか背後に来ていた夏音が僕の両肩に手を置き、身を乗り出す。
「はい、居ますよ!」と元気に返事をする声が、やけに近く感じる。
……何がとは言わないがとても柔らかい感触の物が背中に押し付けられている、何がとは言わないが……。
そんな自分の動揺を隠しきれないまま、気づけば夏音は僕の目の前に立っていた。
「何してるの? 待たせるわけにもいかないし、行くよ!」
そう言って、震えが残る僕の左手をやさしく掴み、玄関へ引っ張っていく。
「な、夏音は大丈夫なの!? あんなことがあったのに……」
思わず問いかけると、夏音は一瞬立ち止まり、視線と眉をわずかに落とす。
「そりゃあ、怖いとは思うよ。あんな目にあったんだもん……でもね?」
小さく怯んだ声色が、次の瞬間、強さを帯びる。
ぐっと顔を上げ、真っ直ぐ僕を見た。
「その時は、また優斗が守ってくれるって信じてるから!」
そう言って笑う彼女に、胸の奥が熱くなる。
……そうだ、彼女の方が怖いはずなのに、僕が怯えてどうする。
「……ありがとう、夏音」
静かにそう返すと、彼女もまたやわらかく笑い、力強く頷いた。
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「すー……はー……」
玄関前まで来た優斗が、緊張をほぐすみたいに深く息を吸って吐いた。
――やっぱり、怖いのかな。
さっき左手を握ったとき、少し震えてたし……。
私なんかより、ずっと痛い思いも怖い思いもしてきたんだし、無理もない。
そんなことを考えていたら、優斗はもう玄関を開けてしまっていた。
「おう、おはよう。八重桜に篠原」
「…………」
そこに立っていたのは、白衣を着た物宮先生と、うつむいたままの岡崎くん。
いつものジャージ姿じゃなく白衣――先生なりの“仕事モード”ってことなのかな。
優斗は岡崎くんを一瞥し、一瞬だけ険しい表情を見せた。
……たぶん、挨拶もしない態度にカチンときたんだと思う。
「おはようございます……とりあえず、中へどうぞ」
「邪魔するぞ。……しかし前から思ってたが、立派な家だな。どうして公務員の俺より、十六歳の子供のほうが良い暮らししてるんだ?」
優斗の家は三階建てのかなり大きな家だ。
一階はアイランドキッチン付きの広いリビングとお風呂・トイレ。
二階は優斗の部屋を含め三部屋、三階には両親の部屋――まるでモデルハウスみたい。
両親の仕事は……優斗本人もよく知らないらしい。
まあ、私も自分の両親の仕事は詳しくは聞いたことないけど。
「あはは……僕より夏音のほうが良い暮らししてますよ? 大きなテレビありましたし」
「いやいや、優斗の家のほうが広いし……どっちがいいんだろうな」
「うーん、俺は広い家のほうが夢があるな……って、お前ら以外に誰かいるのか?」
先生の視線が玄関の靴に向く。
二足分、多い。
不安と困惑を混ぜたような顔で、私たちを見た。
「あ、えっと、それは……」
「優斗、テンパりすぎ。昨日あたしたち休んだじゃないですか、そのお見舞いに水津木くんと妹ちゃんが来てくれて……」
「なんだと……水津木がいるのか……」
その苗字を聞いた途端、岡崎くんが不安げな声を漏らした。
……え、どうしたんだろう。
棟哉くんと何かあった?
「……そっか。夏音、ちょっと来て」
「ちょ、押さないで!」
「いいから」
優斗は私を玄関からリビングの手前まで押しやり、先生たちを軽く振り返ってから小声で言った。
「(棟哉は前から岡崎を危険視してたみたいで……結構あからさまに避けてたらしい)」
「あー……(ちょっと棟哉くんがそんな事するなんて意外)」
「(気に入った相手以外には、表面上は普通でも距離置くタイプなんだよ。夏音にはそんな事されてないと思うよ)」
「(えへへ、それならよかった)」
ちょっと照れくさくなって視線を外すと、気づけば先生がすぐ近くにいた。
「(水津木はあのクラスのムードメーカーだからな……あいつを敵に回すと、グループ全体が敵になる)」
「(……そこまで考えてなかった。すみません)」
「(いや、逆に言えば今ここでうまく話を通せば後々の面倒もない。あいつ、勘が鋭いからな)」
――二人、なんだか難しい話してるけど……正直、ついていけない。
「ほら! 水津木くんたち待たせるのも悪いし、早く終わらせよ!」
そう大きめの声を出すと、優斗と先生が顔を見合わせ、ほぼ同時にこちらを見た。
「そうだね、くだらないことはさっさと終わらせよう」
「ああ、俺も休暇だし、早く片付けてゲーセン行きてぇよ」
二人はそのままリビングへと歩いていく。
……え、私が岡崎くんを案内する流れ?
「岡崎くんも、こっち」
「あ、ああ……」
やっぱり、あのときの勢いも気迫も消えている。
「好き」って言ってくれるのは嬉しいし――今なら、話し合えば分かってもらえる気がする。
今日……頑張らなきゃ。




