#110 馬鹿馬鹿しい
お風呂を出て、私は髪をタオルで拭きながら自分の部屋へと戻った。
湯冷めしないようにパジャマを羽織ったけれど、温まったはずの体の奥底に、薄い冷気がまだ残っている気がした。
「なっちゃん、髪乾かしたら、今日は早めに寝よ?」
ヒオちゃんがそう言いながら、自分の髪をタオルでわしゃわしゃと拭いている。
そのいつも通りの仕草に、胸の奥の張り詰めた糸が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「うん、そうだね」
ドライヤーの風が部屋に広がり、鏡越しに自分の顔を見る。
お風呂で血色がよくなったはずの頬なのに、映っているのはどこか冴えない、不安を引きずった表情だった。
ヒオちゃんもドライヤーを使いながら、ちらちらと私の方を見てくる。
「ねぇ、なっちゃん」
「ん?」
「さっきの先生の話……やっぱり、ちょっと怖いよね?」
ドライヤーの風が止み、部屋の空気が急に重くなる。
一瞬、答えを迷った。
私だって怖い。
でも、嘘をついてまで平気なふりをしても、きっとヒオちゃんには伝わってしまうだろう。
「……うん、正直、怖いよ」
そう口にすると、胸の奥にあった緊張が少しだけ解けた気がした。
ヒオちゃんも目を瞬かせて、こちらをじっと見てくる。
「だよね……。なんか、さっきから背中がぞわってする」
「私も。あの“怪しい人影”って話……頭から離れなくて」
二人して視線を交わし、無言になる。
その沈黙が、逆に不安を際立たせた。
「でも……二人で一緒にいれば、少しは安心できるかな」
「うん……そうだね」
お互いに小さく笑い合う。
不安は消えないけれど、共有できたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。
布団を並べて敷き、横になった瞬間、ヒオちゃんがもぞっと身を寄せてきた。
「ねぇ、なっちゃん。今日は腕貸して?」
「……はいはい」
「えへへ、やっぱり落ち着く~」
甘えるような声に、思わず笑ってしまう。
「も~、子供じゃないんだから」
「今日は特別!」
そんなやり取りをしながらも、心の奥にはずっと引っかかりが残っていた。
物宮先生が話した“怪しい人影”。
あれは本当に偶然なのか?
じゃあ、あの視線の正体は……?
考えれば考えるほど、胸の奥のざわつきは強くなる。
でも今は――眠ってしまえば、少しは忘れられるかもしれない。
ヒオちゃんの寝息を感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
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結局僕は寝付けず、身体を温める為にシャワーを浴びていた。
夜の静けさが、皮膚にまとわりつくように重く感じる。
本当に、ただの思い過ごしだったのか……?
熱い湯を頭から浴びるたび、一瞬だけ不安も流れ落ちていく気がする。
けれど、心の奥にこびりついた違和感だけは、どうしても消えてくれない。
岡崎が言った「オカルトかよ」という言葉が、やけに頭の中で反響していた。
普段なら笑って終わらせるのに、今日はそれが妙に引っかかる。
「……もし、本当にそうだったら?」
小さく呟き、自分で首を振る。
「いや、ありえない……はず」
全部が偶然だと片付けるには、どうにも出来すぎている。
――オカルトとか、幽霊とか、そんな話は信じてないけど。
でも、もし何かが本当に起きているとしたら……。
「……馬鹿馬鹿しいな」
そう自分に言い聞かせ、シャワーを止める。
鏡を見ると、自分の表情がいつもより少し険しく見えた。
気のせいだと思いたいけれど、心はごまかせない。
バスタオルを肩にかけ、部屋へ戻る。
ベッドに腰掛け、スマホでニュースを眺めるが、特に異常は報じられていない。
……明日になれば、何か分かるのかもしれない。
そんな期待と、不安と、眠気が入り混じる。
でも胸の奥のざわつきは、まだ消える気配を見せなかった。




