#108 不安
物宮先生が去ったあと、玄関に落ちた静寂がやけに重く感じられた。
私とヒオちゃんは顔を見合わせ、どちらからともなくため息をつく。
「……ねぇ、やっぱり気のせいだったのかな?」
「んー……分かんない。でもさ、先生がわざわざ来るくらいだし、何かあるんじゃないかな」
私は唇を噛み、先生の言葉を思い返す。
――念のため注意しておいてほしい。
そう言われても、どう注意すればいいのか見当がつかない。
本当に「怪しい人影」がいたとして、私たちにできることなんてあるのだろうか。
「……なっちゃん、とりあえずご飯作らない?」
ヒオちゃんがいつもの調子で提案してくれる。
気を紛らわせるためにも、それは悪くない。
「そうだね。何作る?」
「んー、簡単にオムライスとか?」
「いいね!」と言いながら冷蔵庫を開ける。
卵、冷凍ご飯、鶏肉、玉ねぎ――材料は揃っている。
ケチャップソースを作ればすぐにできそうだ。
コンロの火をつける瞬間、少しだけ胸がざわついた。
いつもは何も思わず火を使っていたのに、今夜はなぜか警戒心が抜けない。
でも、ヒオちゃんを不安にさせたくなくて、いつも通りの笑顔を作った。
「よーし! 手早く作っちゃおう!」
明るく声を出してみるけれど、その奥底で小さなざわめきは消えてくれなかった。
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棟哉に背中を押され、僕は自宅への道を歩く。
さっきまであったはずの不気味な視線は、いつの間にか消えていた。
……ただ、消えただけ?
本当に何もなかったのか、それとも“何か”が僕たちを見ていたのか。
考えれば考えるほど、答えの出ない疑問が頭にこびりつく。
「ヤエ、さっきからずっと考え込んでるな」
「……だって、引っかかるんだよ」
「ま、考えすぎて疲れるよりは、とりあえず飯食って寝たほうがいいって」
棟哉の言葉はもっともだ。
疲れている時にあれこれ考えても、まともな判断はできない。
「……そうだね」
ひとまず深呼吸して、少しでも気持ちを落ち着けようとした。
家に帰ると、リビングでは詩乃ちゃんがテレビをつけたまま、ソファでスマホをいじっていた。
画面にはバラエティ番組の派手なテロップが流れているが、彼女はほとんど見ていない様子だ。
「……ただいま」
声をかけると、詩乃ちゃんは顔を上げ、ふわりと笑って軽く手を振る。
「あ、お二人共おかえりです~」
柔らかな声色も、のんびりとした仕草も、特に変わったところはない。
その“いつも通り”が、少しだけほっとさせる。
「遅かったですね? 何かありました?」
「……まぁ、ちょっとね」
「ふふ、何かあったら私にも相談してくださいね」
そう言って、また視線をスマホへ戻す。
そのやり取りがあまりに普段通りで、僕は心の奥に溜まっていた緊張がわずかにほどけるのを感じた。
食卓に向かうと、カレーの香りが鼻をくすぐった。
水津木家ならではのスパイスの配合――甘さの中に、ほんの少し辛みが潜んでいる。
湯気が立ち上る鍋の中で、とろりと煮えたルーが小さく波打ち、部屋の空気まで温めていた。
「お、今日はカレーかぁ……ガッツリ食えていいな!」
「そうだね! 僕も楽しみ!」
そう口にしたのに、胸の奥ではまだ落ち着かないざわめきが残っている。
――何もないのが、一番いいんだけどな。
「……いただきます」
スプーンを手に取り、一口すくって口に運ぶ。
温かさと香辛料の刺激が広がり、張り詰めていた気持ちがじんわりと緩む。
けれど、その安堵はあまりにも儚い。
頭の片隅に、どうしても消えない疑問がこびりついている。
夏音たちはちゃんと家に着いただろうか。
あの二人も、僕と同じ視線を感じていたのだろうか――それとも、本当にただの偶然だったのか。
スプーンを置き、窓の外に目をやる。
夜の闇は静かで、何事もないように見えるのに……どこか不気味だった。




