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季節の夢にみせられて  作者: ほたちまる
108/111

#108 不安

 物宮先生が去ったあと、玄関に落ちた静寂がやけに重く感じられた。

 私とヒオちゃんは顔を見合わせ、どちらからともなくため息をつく。


「……ねぇ、やっぱり気のせいだったのかな?」

「んー……分かんない。でもさ、先生がわざわざ来るくらいだし、何かあるんじゃないかな」


 私は唇を噛み、先生の言葉を思い返す。


 ――念のため注意しておいてほしい。


 そう言われても、どう注意すればいいのか見当がつかない。

 本当に「怪しい人影」がいたとして、私たちにできることなんてあるのだろうか。


「……なっちゃん、とりあえずご飯作らない?」


 ヒオちゃんがいつもの調子で提案してくれる。

 気を紛らわせるためにも、それは悪くない。


「そうだね。何作る?」

「んー、簡単にオムライスとか?」


「いいね!」と言いながら冷蔵庫を開ける。

 卵、冷凍ご飯、鶏肉、玉ねぎ――材料は揃っている。

 ケチャップソースを作ればすぐにできそうだ。


 コンロの火をつける瞬間、少しだけ胸がざわついた。

 いつもは何も思わず火を使っていたのに、今夜はなぜか警戒心が抜けない。

 でも、ヒオちゃんを不安にさせたくなくて、いつも通りの笑顔を作った。


「よーし! 手早く作っちゃおう!」


 明るく声を出してみるけれど、その奥底で小さなざわめきは消えてくれなかった。


 ――――――――――――――――――――――――――


 棟哉に背中を押され、僕は自宅への道を歩く。

 さっきまであったはずの不気味な視線は、いつの間にか消えていた。


 ……ただ、消えただけ?


 本当に何もなかったのか、それとも“何か”が僕たちを見ていたのか。

 考えれば考えるほど、答えの出ない疑問が頭にこびりつく。


「ヤエ、さっきからずっと考え込んでるな」

「……だって、引っかかるんだよ」

「ま、考えすぎて疲れるよりは、とりあえず飯食って寝たほうがいいって」


 棟哉の言葉はもっともだ。

 疲れている時にあれこれ考えても、まともな判断はできない。


「……そうだね」


 ひとまず深呼吸して、少しでも気持ちを落ち着けようとした。


 家に帰ると、リビングでは詩乃ちゃんがテレビをつけたまま、ソファでスマホをいじっていた。

 画面にはバラエティ番組の派手なテロップが流れているが、彼女はほとんど見ていない様子だ。


「……ただいま」


 声をかけると、詩乃ちゃんは顔を上げ、ふわりと笑って軽く手を振る。


「あ、お二人共おかえりです~」


 柔らかな声色も、のんびりとした仕草も、特に変わったところはない。

 その“いつも通り”が、少しだけほっとさせる。


「遅かったですね? 何かありました?」

「……まぁ、ちょっとね」

「ふふ、何かあったら私にも相談してくださいね」


 そう言って、また視線をスマホへ戻す。

 そのやり取りがあまりに普段通りで、僕は心の奥に溜まっていた緊張がわずかにほどけるのを感じた。


 食卓に向かうと、カレーの香りが鼻をくすぐった。

 水津木家ならではのスパイスの配合――甘さの中に、ほんの少し辛みが潜んでいる。

 湯気が立ち上る鍋の中で、とろりと煮えたルーが小さく波打ち、部屋の空気まで温めていた。


「お、今日はカレーかぁ……ガッツリ食えていいな!」

「そうだね! 僕も楽しみ!」


 そう口にしたのに、胸の奥ではまだ落ち着かないざわめきが残っている。


 ――何もないのが、一番いいんだけどな。


「……いただきます」


 スプーンを手に取り、一口すくって口に運ぶ。

 温かさと香辛料の刺激が広がり、張り詰めていた気持ちがじんわりと緩む。

 けれど、その安堵はあまりにも儚い。


 頭の片隅に、どうしても消えない疑問がこびりついている。

 夏音たちはちゃんと家に着いただろうか。

 あの二人も、僕と同じ視線を感じていたのだろうか――それとも、本当にただの偶然だったのか。


 スプーンを置き、窓の外に目をやる。

 夜の闇は静かで、何事もないように見えるのに……どこか不気味だった。

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