#102 元通り
「……ほんと、棟哉くんって余計なこと言うよね」
「それは言えてる……」
その瞬間、ようやく肩の力が少し抜けた。
こんな軽口を交わせる時間が戻ってきただけで、胸の奥のもやもやが少しずつ薄れていくのを感じる。
昼休み、さっきの棟哉の大声と茶化しのおかげで、なんとなく空気が柔らかくなっていた。
軽く笑い合ったあと、夏音と目が合う。
どちらからともなく、口を開くタイミングを探している――そんな沈黙が、なぜか少し心地いい。
「……そういえばさ、昨日の唐揚げの話の続きだけど、あれってほんとに水津木家のお母さんの?」
「あ、うん。棟哉の家に泊まったときにさ、翌日の分まで作ってくれて……」
話題が弁当に戻ると、自然と会話のリズムが生まれた。
夏音が「それならまた作ってほしいな~」と、目を細めて笑う。
その笑顔に、僕もつられて笑みがこぼれる。
やっぱり――夏音が笑ってると、僕は安心する。
「あ、それでさ、今日の体育って結局何やるんだっけ?」
ふと夏音が話題を変える。
声にはまだ少し硬さが残っていたけど、以前の夏音に近い響きだった。
「えっと……確かバスケじゃなかったかな? 体育館の予定表に書いてあったよ」
「バスケかぁ。楽しみ! 優斗は?」
「僕にそれ聞く……? 球技は全般ダメだよ……。まぁ今日は棟哉が目立つだろ」
そんなやり取りの間に、昨日までの妙な距離感は少しずつ薄まっていく。
棟哉がわざと大げさに反応してくれるのも助かった。
「なんだよ! 俺が目立つってどういう意味だ!」
「だって、棟哉ってさ、無駄に張り切るじゃん」
「無駄ってなんだよ! 俺はチームのために全力出してんの!」
ムキになる棟哉の様子に、僕も夏音も笑ってしまう。
天名まで加わって、さらに笑いが広がった。
ほんの少しのぎこちなさは残っているけど、もうほとんど日常だ。
この調子なら、夢のことなんて忘れて普通に過ごせそうだ――そんな予感がした。
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唐揚げの話をしている優斗の笑顔が、いつもより少し柔らかく見えた。
昨日は夢のせいで変に意識してしまったけど、こうやって話していると「いつも通り」がちゃんと戻ってきているような気がする。
……あたしも、もっと普通にすればいいだけなのに。
ふと、一昨日にアロマキャンドルを渡したときの優斗の顔を思い出す。
そのときの彼の表情が気になって、つい口にしてしまった。
「そういえばさ、一昨日渡したアロマキャンドル、どうだった?」
弁当箱を閉じながら軽く尋ねると、優斗は箸を止めて少し考え込む。
「んー、正直、火があるってだけでちょっと怖かったかも。でも、香りはすごく良かったよ」
その言葉に、私は小さく眉を寄せる。
やっぱり……火はまだ、彼にとって特別なんだ。
「そっか……じゃあ、もっと違う方法も考えないとね」
「ごめんね。でも、少しずつ慣れていきたいから……次は何か簡単な方法、ないかな」
「うーん……じゃあ、マッチとかライターじゃなくて、電気のやつから始めるのはどう?」
私がそう提案すると、優斗は少し首をかしげた。
「電気のやつ?」
「ほら、アロマランプとか。火じゃなくて電球の熱で香りを出すやつ。あれなら安全だし、火を見るよりは気持ちが楽なんじゃない?」
「ああ……なるほど。それなら試せそうかも」
優斗の声がほんの少し明るくなった気がして、私もつられて口元が緩む。
「それで慣れてきたら、次はキャンドルの火をちょっとだけ……とかね」
「段階的に、か。……うん、その方が自分でも安心できそう」
優斗は箸を置き、少し真面目な表情になった。
「夏音、ありがと。なんか……一人で考えてると、どうしても不安の方ばっかり大きくなってさ……」
「そんなの当然だよ! だから、一緒に考えよ?」
自然と笑い合ったその瞬間、さっきまで胸の奥にあった重たい感覚が、少しだけ軽くなった気がした。
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昼休みが終わると、午後の授業はあっという間に過ぎた。
帰りのHRで先生が不在だったせいで、クラスはざわつき気味。
委員長が「今日はもう解散!」と手を振り、僕たち4人は自然に一緒に下校することになった。
帰り道、電気のアロマランプに挑戦する話を思い出し、少しだけ不安がよぎる。
でも、隣を歩く夏音がこちらを見て言った。
「優斗、無理しないでね。怖かったらすぐやめてもいいんだから!」
「ありがとう。でも……少しずつでも慣れていきたいんだ」
自分でも驚くくらい真剣な声が出た。
それは決意というより、願いに近かった。
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優斗の横顔には、まだわずかに緊張の色が残っていた。
火の代わりに電気だとしても、彼にとって「灯り」を使うことがどんな意味を持つのか、私にはすべてを理解できない。
それでも――その一歩を支えたいと思う。
そんな空気を、まるで割るように棟哉と陽織がいつもの調子で言い合いを始めた。
「おい陽織ちゃん! そんなにケラケラ笑ってっと、道の真ん中でつまずくぞ!」
「水津木! また変なこと言ってるでしょ! ……なっちゃんも何とか言ってよ~」
「え、えーっと……ヒオちゃん、落ち着こう?」
やり取りが可笑しくて、つい吹き出してしまう。
横を見ると、優斗も口元をほころばせていて、その笑顔がほんの少しだけ彼の硬さを和らげているように見えた。
昨日までのぎこちなさは、ほとんど消えていた。
胸の奥にまだ小さな影は残っているけれど、私はその影ごと抱えながら、優斗と並んで歩き続けた。




