別離
ベッドに横たわったアンソニー様をいつも通り診て、上掛けをかけてあげて私の最後の診察は終わった。
「図らずも一日早い床上げになってしまったので、少し疲れがたまりやすいかもしれません。お忙しいとは思いますが、明日以降も努めてベッドに居る時間を確保していただくようにお願いいたします。」
「ならば添い寝してくれ。そうすればもっと早く回復する。」
またもや突然の問題発言である。
「ならばの使い方が不適切です。脈絡が無いにも程があります。」
慌てふためいてチラリとエールリヒ様の顔を見ると、エールリヒ様はしかたがないなという顔で深いため息をついて、
「今夜だけだ。」そう言い残して部屋を出ていった。
「ほらパウルの許可も出た。」
「エールリヒ様の許可が出ても主治医の私の許可は出ていませんから!」と反射的に答えはするけれど、「頼むから。な?」と冗談めかして甘えるような、わずかに切なさのにじむ声で乞われると断るのは心が痛むのは間違いなく、返事に困った。
何より私もこのままでは去りがたく、自分が最後の心の触れあいを求めているのは良く分かっていた。
恋に臆病な私が、臆病さを隠すために意地を張って、ここまま別れたら一生後悔することも分っていた。
だからと言って「はい。」と返事をするのは恥ずかしくて、静かに白衣を脱いでそのままそっとベッドに近づき上掛けをめくって腰掛ける。
アンソニー様が無言のまま体を起こして横にずれて開けてくれた場所に腰掛けなおし、頭を膝枕してみた。
「おい、私は添い寝をしろと言ったはずだぞ、膝枕ではない。いや、まあ、これはこれで良いが。」
ぶつくさ言いながらもぞもぞと寝心地の良い姿勢を探すアンソニー様の体の熱を感じて、どこかで最後まで張りつめていた緊張が解けていくのを感じる。
必死に掴もうとしてもすり抜けて消えていきそうだった命の輝きが確かな質感と暖かさを持って完全に戻ってきたのを感じる。
恐怖、喜び、愛しさ、安堵。言葉では言い表せない想いが胸から溢れそうになって、涙をこらえきれなくて見つからないように姿勢を変えてアンソニー様の頭を胸に抱えてみたけれど、不自然に動く胸の動きでバレバレだったんだろう。
アンソニー様はそっと腕を私の背にまわして、無言でやさしくさすり続けてくれた。
しばらくして私の呼吸が落ち着いてきたのが分かったのか、アンソニー様がまた不満げな声を上げた。
「これはこれで気持ちが良いが、立場が逆な気がするぞ。」私は思わずくすくす笑いながら答えた。
「いいじゃないですが、私の方が実は年上なんだし。」私がそう言うと、アンソニー様はゆっくりと私の胸元から顔を上げ、目線が合うところまで体を起こしてから静かな声で尋ねた。
「お前が時にひどく大人びる理由がやっとわかった。何歳だったのだ?」
「二十八です。」
「殺されそうになったあいつを庇ったのか?」
「そう。真っ白い子供の像だったのです。本当に美しくて。こんな胸を打つほどに美しい生き物が世の中に存在するなんて奇跡だと思っていました。白く美しかったから、特別な力を身に宿していると思われていて、その牙や血肉が薬だと信じる人達に狙われていました。あの日もそんな密猟者が私達を襲って、私は夢中であの子を庇って撃たれたのが前世での最後の記憶です。」
「悲しかったろうな。」唐突な一言が何に向けられた言葉なのかぼんやりと思いを巡らせていると、重ねて問いかけられる。
「いつ気づいたのだ?」
「生まれてしばらくしてからです。」
「泣いたか?泣いただろうな。」後半はまるで自分がそこに居なかったことを悔いるような、苦渋の滲む声だった。
世の理を考えれば、生き物は自分が死んだことを自覚することはあり得ず、そのあり得ないことを体験するのが転生した者の運命だ。
最初は何が何だか分からなかった。
ただ思い通りに動かない体と良く見えない目、聞いたことの無い、言葉に聞こえなくもない音が聞こえてくる事に混乱を極め、密猟者に頭を打たれたのだろうと思った。
少しずつ少しずつ、視界がクリアになってきて、やっと持ち上げて目の前にかざした自分の手に初めて焦点が合った時の事を今も覚えている。
記憶にある日に焼けて荒れた自分の手とは似ても似つかない、傷一つない小さな、小さな真っ白い手。
まさかそれが自分の手だとは信じられず、毎日ひたすら眺めて過ごした。握ってみたり、開いてみたり。
そうして少しずつ私は事実を理解していった。
そして、自分の生が理不尽に奪われたことに気づいた私はただただ泣き続けた。
残してきた人達、叶えられなかった夢、幸せだった日々を想って泣いた。
悔しさ、悲しさ、恨み、苦しみに苛まれて泣いた。
愛しいもの、美しいもの、喜び、切なさ、楽しさを懐かしんで泣いた。
生まれたばかりの赤ん坊なので、泣き続けても訝しがられる事が無いのがせめてもの救いだった。
只々泣き続けた。
そして少しずつこの秘密を胸にしまって生きていくことの覚悟を決めていった。
それは涙に溶けた前世の自分を昇華させて空へ還す、一人ぼっちの葬礼だった。
「悲しかったろうな。」アンソニー様がもう一度言った。
目の前に迫っている別離の悲しみを呼び水に、あの頃の想いと孤独が胸に蘇ってきて溢れそうになる。
また泣きそうになるのを見られたくなくて、合わせていた視線を伏せてうつむいた私を、今度はアンソニー様が胸に抱え込んだ。
そしてまたそっと背中を撫でてくれる。
ずっと一人で抱えていた想いに寄り添ってくれる人に巡り合えたことに、そしてその人が自分にとって心から大切だと思える人であることが嬉しくて胸が熱くなる。
抱きしめられたままで声もなく涙を流していると頭の上から声が降ってきた。
「家族には話したことはないのか?」
首を横にふると、少しうれしそうに笑う気配を感じて上目遣いに顔を見上げる。
「ではこれはお前と私だけの秘密ということか。」瞳をきらめかせながら言うアンソニー様を可愛く感じて、いたずら心が働いた。
「月白も知っていますよ。」
「あの竜か。」とたんにしかめっ面になる。
「なんで月白をそんなに嫌うんですか?」
「お前とあの竜が二人だけの思い出を持っているのが嫌だ。私の知らない世界のことを話すのが嫌だ。お前があいつに抱きついたのが気に食わん。あいつがお前を抱き締めたのも気に食わん。」
「でも竜ですよ。性別すらよくわからない。」
「いやあれは雄だ。人型になったときに男の姿をしていただろう。」そう言われればそうかも。象だった時もオスだった。
「でも竜ですよ。」
「お前が抱きついたときは人型だった。それに知らないのか、竜は人を娶ることがあるのだぞ。」
ここまであからさまに竜に嫉妬している姿を見ると、かわいいやら面白いやら笑えてしまう。
笑うなと言われてもなかなか笑いは収まらない。
するとアンソニー様の手が後頭部に添えられ二人の視線があった。
「笑うのをやめないとキスするぞ。」笑いを含んだ口調で、うらはら真剣なまなざしに心臓が跳ね、息をのむ。
伏せたまつげがゆっくり近づいてくるのを感じ、どうしたらいいのかわからないままにギュッと目をつぶった。
暖かな唇が優しく触れた瞬間、思いがとめどなく溢れて波のように自分の理性が押し流されていくのが分かった。
全身が浮遊感で包まれるような、自分と世界の境界線がなくなって溶けていってしまいそうな、そのまま体ごとどこかに落ちて行ってしまいそうな、体験したことのない感覚が怖くて思わずアンソニー様の服の前立てを震える手で握りしめた。
そんな私を思いやってか優しくゆっくりと確かめるようなキスが角度を変えながら重ねられる。
欲に突き動かされるような性急さは無く、子供をあやすようなゆるやかさで、それでもやさしいキスは止むことは無く、私が慣れて落ち着くのを待っているようにも思えた。
やっと震えが収まったのが伝わったのか、アンソニー様は握りしめられていた私の右手を自分の手で包み、そっと開かせてそのまま自分の首にまわす。
おずおずと私が握っていた左手もはなして首にそっとまわすと、褒めるように後頭部を撫でてくれた。
そのままゆっくりと姿勢を変え、私に覆いかぶさったアンソニー様は私を抱きしめる腕の力を強め、深くくちづけた。
情熱をぶつけられた私はその熱をどうして受け止めたら良いのかも分からず、ただ翻弄されるばかりだったけれど、重なりあった胸から唇から、直接伝わる確かな想いを感じた。
それは共に死線を潜り抜けた戦友をいたわるような、相手の存在を確かめるような、自分を刻み付けるような、この先の互いの無事を祈るようなキスだった。
情欲を呼び覚ますようなキスではなく、いたわり、慈しみ、優しさ、無償の愛、言葉に言い尽くせない互いの想いが唇を通じて伝わり、腕の中にいる愛しい人が、この先に続く日々を前を向いて歩んでいくための支えになればと願うようなキスだった。
一時の快楽に身を任せられるほど享楽的でもなく、自分の置かれた立場に無責任でもなく、求められる振る舞いに無自覚でもない私達には、キスをするにも納得できる理由が必要だったのかもしれない。
絶対に忘れないと思った。
優しい唇も、しなやかな髪も、強い意志を映す瞳も、広い胸も、たくましい腕も。
今この瞬間に体中の細胞の一つ一つにこの幸せな記憶を刻み込んで、この先も生きていこう。
夢中でキスを返しながらこれから王として生きていくこの優しい人の人生が幸多からんことを祈った。
数えきれないほどキスを繰り返しながら、私は静かに涙を流しつづけ、アンソニー様も少し泣いていたと思う。
互いの涙だけが言葉に出せない想いを伝えていた。
隠し通路を通って自室に戻るとエールリヒ様が待っていた。
「アンソニーは。」と問いかける瞳はエールリヒ様なりの罪悪感を映していた。
「魔法でお眠りいただきました。朝まで目を覚まされることはないでしょう。」
そう言うとエールリヒ様は何かを飲み込むように下を向いた。
「今宵発たれるのか。」
「はい。」
「そうか。バラ園で黒の竜が貴女を待っている。貴女が望むところまで連れて行くようにとアンソニーが竜に頼んだ。あの竜ならば故郷までもあっという間に行けよう。」
その言葉を聞いて、アンソニー様が言葉に出さなくても私の想いを分かっていてくれたのだと感じた。
別れのこの瞬間にも私たちの心が確かに通じ合っている事を感じて、暖かな思いが胸にあふれて、涙が出そうになるけど、今はもう泣かないと決めた。
エールリヒ様は部屋を出る前に私に小さな包みを差し出した。
「暖かい飲み物と菓子が入っている。道中の腹の足しに持って行かれよ。息災でな。」
エールリヒ様の思いがけない細やかな心遣いに笑顔がこぼれる。
「ありがとうございます。エールリヒ様もお体にお気をつけて。アンソニー様をよろしくお願いいたします。」そう言って私は思いがけないきかっけで数か月を過ごした王宮を後にした。




