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揺れる心

アンソニー様の部屋からどうやって自分の部屋まで帰ってきたかはあまり記憶が無い。


ただどうしたらいいか分からなくて逃げるように退出の言葉を残して部屋を出て来た気がする。


そして帰ってきた自室でも果てしないいたたまれなさにベッドに逃げ込んで上掛けをかぶって小さくなって動揺を鎮めようと必死に目をつぶる。

目をつぶると逆に余計な情報が無くなって、アンソニー様が私に好きだと言ったあの声が頭の中でループ再生される。

『愛してる』なんて前世が日本人の私には非日常すぎる。


前世も今世も恋愛ごとには縁がなく過ごしてきた。

前世では人並みに誰かに憧れる事は経験したけど、その人と付き合いたいと思って行動した事はなかった。

今思うと女性としての自分に自信が無かったことが大きな理由だけど、それでも動物を救う仕事にやりがいと誇りを感じていたし、興味のある事が沢山あったから自分の毎日には十分満足していた。


ただ、誰かと両想いってどんな感じなのかはすごく興味があったし、幸せなんだろうなって憧れてはいた。

すごく憧れていたけれど自分には手に入らないものだろうって諦めてもいた。

それなのに少女漫画の主人公を具現化したようなアンソニー様に告白されるなんてとにかく現実感が無い。



最初の暴力的ともいえるよく分からない感情の波が去って、ひとしきり前世の自分に想いを馳せて、自分の身の丈を自覚して少し冷静になる。


なのに、すぐにまたじわじわとなんとも言えないいたたまれなさが湧いてくる。

いい加減このいたたまれなさを横に置いておかないとこのまま一生ベッドの上で身悶え続けて終わりそうなので、全力で理性を動員して冷静に自分と向き合おうと頑張ってみる。

生まれて初めての恋愛当事者体験は、私の想像をはるかに超えていて、とても手に負えないと投げ出してしまいたくなるけれど、そういうわけにもいかない。


私はアンソニー様が好きなのだろうか。自分に問いかけてみる。


一つだけ確かなのは出会ってから今まで、絶対に手の届かない人だから、そういう対象として見ないようにしてきたと言う事だ。

どうせ手の届かない人なら盛大に片思いでもして叶わない恋を楽しめばいいと考える人もいるかもしれない。


でも私には出来ない。

だってそういう対象として見ることを自分に許してしまったら絶対に態度に出てしまう。

相手にバレないように恋心を抱くなんて高度なテクニックは恋愛初心者の私には無理だ。


そして態度に出てしまったら今の私にとって何よりも大切でやりがいを感じている主治医という立場を失ってしまう。


自分に恋している主治医なんて疎ましいだろうし、診察されたくないと思われるかもしれない。

ならたとえ恋は出来なくても主治医として、事件解決のための唯一無二の協力者としてアンソニー様の傍にいて役に立てるほうが私にとってははるかに大切だ。



もう一度私はアンソニー様が好きなのか考えてみる。

誰かが好きかどうかってどうしたら分かるのか。


アンソニー様に好きだって言われてすごく嬉しかった。

ということは私も好きなのか。


嬉しかったからって好きに直結するのか。

抱きしめられたり、近くに寄られたりしたらドキドキするなら好きなのか。姿を見かけたり声を聴けたりしたら嬉しかったら好きなのか。


『好きの定義』なんて自分でもすごく馬鹿馬鹿しいことを考えているのは分かっている。

けどそんな風に努めて冷静に考えて、自分の心を分析してみないと、この甘い感情の波に流されて、大切な事を見誤ってしまいそうな気がする。


出会ってから私がアンソニー様に抱いていた感情を言い表すとしたきっと『憧れ』が一番しっくりくる。憧れの人に会えたら嬉しい、声を聴けたら嬉しい、話が出来たら嬉しい、役に立てたら嬉しい。

じゃあ『憧れ』と『好き』の違いは?私の憧れが恋に変わった瞬間があっただろうか。


恋に変わったとしたら、今この瞬間かもしれない。

私の『憧れ』はアンソニー様に好きだと言われた瞬間に『好き』に変わった。


静かに氷点下に冷やされた水が急激な振動で一気に結晶化して氷になるように、静かに暖められた私の『憧れ』は、アンソニー様の一言で一気に結晶化して『好き』になったのだ。


考えれば、本当に当たり前の事だけれど、「恋」にも「好き」にも人それぞれ、いろいろ形があって、恋愛感情に疎い私は、自分一人の気持ちではいつまで経っても「憧れ」の域を出ず、相手の気持ちがあって初めて「恋」が出来る人間なのだろう。


やっと少し自分で納得できる答えが見つかってベッドの上でしばらく放心していると、ノックする音が聞こえた。


「はい。どなたですか?」


「私だ。エールリヒだ。少し話をさせてもらえないだろうか。」慌ててベッドから降りて身づくろいを整える。

部屋に入ってきたエールリヒ様は入口の近くで立ったまま話を切り出した。


「アンソニーに聞いた。貴方に求婚したと。」

「はい。」


「貴女は返事をせず、アンソニーも早急な返事は求めなかったと。」

「はい。」


「貴女相手にごまかしても仕方がない。単刀直入に言おう。この求婚を受け入れないでいただきたい。」

「…。」


「アンソニーは将来この国の王になる。王妃は国内、あるいは国外の有力者の子女を迎えることになるだろう。」

「…。」


「勘違いしないでいただきたい。私のこの要望は貴女の人としての資質とは全く関係ない。私個人としては貴女には本当に感謝している。アンソニーの命を救ってくれた上に事態の解決のために惜しみない尽力をしてくれた。貴女の命を危険に晒してしまったことも本当に申し訳なく思っている。」エールリヒ様は一息で畳みかけるように言うと、私に近づいてきた。


一番言いにくい核心は至近距離では言えなかったのかもしれない。この人も意外と小心者なところがあるなんて他人事のように考えてしまう。


「今、わが国は幸いにして国内の勢力争いに目立ったことは無く、クメール国からの横やりに決着がついたので、表立った問題は無い。しかしこれだけ豊かな国だ、様々な利権と野望が常に渦巻いている。ちょっとした火種が大きな災いにつながる。王妃となる女性は誰もが認める人物でなければならない。」


自分で言いながら、自分で傷ついているような顔をしながら、それでも私の眼をまっすぐに見つめる。


この人とこんなに視線をあわせて会話をするのは初めてかもしれない。

自分の信念に従って行動している人の眼だ。

こんな場面なのにアンソニー様の傍にこの人が居てくれて良かったな、と、ふと思う。


「あなたを王妃に迎えたら、たとえ貴女がどんなに火種になろうともアンソニーはあなたを離すことはないだろう。例えば貴女との間に世継ぎが生まれなかった場合でも別の女性を娶ることはない。だが、貴女が手に入らなければ、必要とあらば二人でも三人でも娶るだろう。アンソニーにとって一番以外はみな同じなのだ。そういう気性の方だ。」


「この先、私より好きになる方に巡り合うのではないでしょうか。その時にはやはりエールリヒ様がおっしゃっている事態は避けられないと思われますが。」

自分で言っていて胸がチクリといたくなったけれど、可能性として指摘してみる。


「それはありえない。」あっさりと否定される。


「アンソニーはすでに二十七歳だ。次期王位継承者として王妃となる人物を見定めるべく少なからず女性経験があるが、誰にも求婚したことは無い。求婚めいた真似事をしたこともない。」そう言われてみると、さっき生まれて初めてだって言っていたような。


「アンソニーは貴女を本気で愛している。」


本人じゃなく、第三者から改めて事実として、しかも望ましくない事として突きつけられると事態の重大さが伝わってくる。


「今まではクメール国との問題を解決するためにアンソニーの婚姻問題は後回しにされていたが、これからはそうはいかない。数日の内に、アンソニーが王位を継承することが正式に発表されるだろう。即位までに王妃となる人物が決まっていることが望ましいと思う臣下は多い。これから王妃の選定が本格化することは間違いない。」


たしかにそれはそうかもしれない。あまりに私に関係のない世界の話に感じるけれど。


「今ならまだ間に合うかもしれない。貴女がアンソニーに明確な言葉で応じていない今なら。」


エールリヒ様がおっしゃる理屈は十分理解できる。

きっとエールリヒ様も私が理解するだろうと思ったから率直に話したのだろう。

意地悪い捉え方をすれば、私が物事の理を大切にし、納得したら感情より理性を優先させる性格なのを利用したともいえる。


理解できてしまう。

理解できてしまうから、胸が苦しい。


そのまま物わかり良く、引き下がって押し殺してしまうには生まれたばかりの恋心があまりにあわれなので、ささやかな意趣返しを試みる。


「エールリヒ様がおっしゃる通りですと、アンソニー様は真心の愛を与えることの出来ない相手と一生を過ごされることを周囲から強制されるということですが、アンソニー様の無二の親友としてそのような人生を大切な友人に強制することに良心の呵責は覚えないのですか?」


私があからさまに言葉にのせた嫌味はやはりエールリヒ様の痛いところを突いたらしく、顔を歪ませて下を向いた。


「覚えないと言えば嘘になる。だが私が良心の呵責を覚えたとことでアンソニーの苦しみが減るわけではない。それでも私はこれが我が国にとって最善だと信じている。」

そう言い切って顔を上げたエールリヒ様の眼に迷いはなかった。


ああ、私達は別の出会い方をしたらいい友達になれたかもしれないなと思った。


「おっしゃりたい事は良く分かりました。私のような立場の者にも率直に誠意を持ってお話下さってありがとうございます。」


「では、受け入れてくれるということだろうか。」そう言われて、強い違和感と軽い怒りを覚えた。


「今ここでエールリヒ様が私に答えを求められるのは、あまりにアンソニー様の感情を蔑ろにしているのではないでしょうか。」恋情に疎い私でもそれはひどく不誠実な気がした。


「アンソニー様のお気持ちを受け取り、自分の気持ちに向き合い、出した答えはアンソニー様にお伝えします。自分の親友が自分の告白の答えを自分より先に知ろうとしていたらどう思われますか。ましてや自分の恋が成就しないことを親友に望まれているのが明らかな状況で。」


必要以上に厳しい言葉を選んだのは自分のためというよりもアンソニー様のためだったかもしれない。


エールリヒ様を大切にしているアンソニー様は、後で知っても、きっとこの方を責めることは無い気がしたから。


「そのとおりだな。失礼した。」私の鋭い語気にたじろいだ様子のエールリヒ様は、肩をおとしてうなだれる。


「アンソニー様の心を一番に守れるのはこれからもお傍におられるエールリヒ様なのですから。努々あの方の感情を軽んじることが無いよう心からお願い申し上げます。」


一転して落ち着いた声でそう言って微笑んだ私を見て、エールリヒ様は感じ取られたのだろう。

何か言いたげに口を開いたが、何も言わず一礼して部屋を出て行った。


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