兆し
誰かが私の名前を呼びながら髪を撫でている。
低く響く、優しい、優しい声。
その声に紛れもなく含まれる甘い響きにくすぐったいような安心するような気持になる。
呼んでいる声に応えたいけれど体がすごく重たい液体の中に閉じ込められているように動かせない。
私を呼んでいるのは誰?お父様?お兄様?いいえ、違う。
私はこの声の持ち主を助けたかった。
なぜ助けたかったのだっけ。
ああ、そうだ。毒で死んでしまいそうだったのだ。
意識の欠片がつながるごとに体が浮き上がっていく感覚を覚える。
アンソニー様、意識は戻ったかしら。
あの綺麗な紫の瞳がまた見られるといいなあ。
そんなことを想いながら目を開けると目の前にまさに見覚えのある紫の瞳があった。
白目が充血しているし、いつもは綺麗な紫の虹彩も相変わらず濁っているように見える。
でもその瞳は確かな意思を浮かべて私を見つめていた。
「アンソニー様、目が覚めたのですね。よかった。」口からでたのは、主治医というよりまるで子供のような感想だった。
嬉しくて笑顔を浮かべるとアンソニー様も笑顔で答えてくれる。
「ありがとう、エリザベス。お前は私の命の恩人だ。」私の頭を撫でながらアンソニー様は優しい笑顔で言う。
ああ、嬉しいなあ。この人を救えたんだと、ぼーっとした意識でされるがままになっていた私だけど、ふと気が付いた。
私は横になっていて、アンソニー様も横になっている。
アンソニー様は私のすぐ横に居て、私の頭を撫でている。
これは、いったい、どういった状況?
一気に目が覚めて起き上がろうとすると髪の毛がバサッと顔に掛かる。
体を起こそうとしても腕に力が入らず起き上がれない。
体中の筋肉という筋肉、関節という関節が働くことを全力で拒否している。
かろうじて動く頭だけ巡らせてみると私はアンソニー様のベッドに着の身着のままの状態で横になっていた。
「あの、アンソニー様、これはどういったことでしょうか。」
「私が目覚めたらお前がベッドに寄りかかって眠っていたので、抱きかかえてベッドの上に寝かせた。ひどく疲れた様子で全く目を覚まさなかったな。眠りにくそうだったので髪の毛は解かせてもらった。その様子だとまだ起き上がるのは無理だな。もう少し休め。」
こともなげに言うアンソニー様にいろいろツッコミたい。
「いけません、主君のベッドで家臣が寝るなんて許されません。」
「私が良いといっているのだから問題はない。」
「私を持ち上げるときに、左腕も使ったのですか?おケガしているのに。」
「お前ひとりをベッドに抱き上げるくらいケガをしていても造作もない。」
「とにかく、ここで休ませていただくわけにはいきません。執務室の長椅子をお借りします。」
「だめだ。命令だ。ここで休め。せめて自力で立ち上がれるぐらいまで回復したらベッドから出てもよい。」
なんとかベッドから脱出しようと試みる私の肩を右手で押さえつけてアンソニー様は言った。
その動きでナイトガウンの前がはだけて日に焼けた上半身が露わになってドキッとする。
治療しているときは全く気にならないのに、こういう何でもない時に目の当たりにするとその逞しい体をつい意識してしまう。
不自然に視線を逸らした私を訝し気に見ていたアンソニー様の気配にいたずらな甘やかさが混じった気がした。
「おや、私の主治医殿、顔が赤い気がするが熱でもあるのかな。であればなおさらベッドに留まっていただかなければな。」
口調にからかいと色気がこれでもかと混じる。
体調が悪くけだるげなアンソニー様はむしろ普段より色気が増していてなおさら直視できない。
「これは嬉しい誤算だ。主治医殿はこういった情緒は解さないのかと思っていたが、誤解だったようだな。」
何がどう嬉しい誤算なのか問いただしたいところだけれど、私をからかう余裕があるということは、体調は最悪ではないのだろう。
その事に安心する。
正直なところこれ以上アンソニー様とベッドの上で争う体力は無いし、艶めいたやり取りを大人な態度で受け流す気力もない。
観念してベッドに沈み込む。
アンソニー様も私の横に改めて体を横たえて、また私の頭を撫でる。
「おやすみ、エリザベス。ゆっくり休め。」そう言う声にもうからかいの気配はない。ただただ優しい労わりに満ちた声はたしかに夢の中で私の名前を呼び続けていた声で、その声がまた私を夢のなかに誘っていく。
急速に意識を手放しつつある私の額に柔らかな何かが触れた気がしたけれど、それが何か考える間もなくまた深い眠りに落ちて行った。




