夜空の散歩
私と自分をマントでつつんだアンソニー様を乗せた黒い竜は、そのまま静かに空に舞い上がり、王都の上空を滑らかに飛び始めた。
きっといつものアンソニー様の見回りのコースなのだろう。
街頭がわりのたいまつが灯される寝静まった夜の街の上を、音もなく飛ぶ竜。
月明りがまぶしい夜なのに星まで明るく瞬いて、思わず片手を伸ばして届かないか試してみたくなる。
月の光を受けて何もかもが夢のように美しく輝いていて、この世のすべてが愛しいような、切ないような気持ちになって思わず涙ぐんで目を閉じる。
きっとあの月へ続く光輝く道はもと居た世界につながっている。
残してきた世界に置いてきた魂のかけらが、光の道を通って遠く時空を超えて伸ばした手から伝わり、体に染み込んでくるような錯覚を覚えた。
そして今の私の魂のカケラが澄み切った大気に溶け出して、遠くの大切な人たちの心に届いて、幸せに暮らしている事を伝えられたような気がした。
この世界に生まれてきて良かったと心から思えた。自分がやっと完全に生まれ変わったような、満ち足りたような気持ちだった。
突然腰に廻された手に力が入って目を開けると、目の前に心配そうにのぞき込むアンソニー様の顔があった。
目をあけた拍子に零れ落ちた涙を、手袋を外して拭ってくれる。
「どうしたエリザベス。なぜ泣いている。」
「あまりにも、世界が美しくて。」本当の事をすべて言うことは出来ないけれど、これもまた本心だ。
毎日こんな景色を見ているなんて羨ましすぎると言うと、そうだなと素直な返事がきた。
「毎日この景色を見るたびに、この美しい国を守りたいと痛いほどに感じる。そして誇らしいと同時に自分にできるのかと恐ろしくもなる。」
「多分ひとりで見るからそんな気持ちになるのですよ。怖いくらい美しい景色は独り占めせずに誰かと一緒に見ればいいのです。この国もアンソニー様が一人で守らなきゃいけないものではないでしょう。みんなで一緒に守ればいいのです。」そういう私に、アンソニー様は納得していない顔で黙り込む。
「Go fast, go alone. Go far, go together. とある国のことわざです。いまアンソニー様が成し遂げようとしていることは、一人で立ち向かわなければいけないのかもしれませんが、こんな大きな国を守るのは一人でできるわけがないのだから、助けを借りたらいいのですよ。」
なかなかアンソニー様の立場だとそう気楽な気持ちにはなれないだろうなと思いつつ,敢えてあっけらかんと言ってみた。
「そうだな、この景色を誰かと共に見たのは初めてだがいつもより遥かに楽しい。初めての相手がお前で良かったと思う。」
そういってアンソニー様はまるで愛おしいものを見るかのような優しい眼差しで私を見た。
いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけどなと思いつつ、ドキドキしてしまって言葉が出てこない。
一気に顔が赤くなったのを感じて、慌ててアンソニー様の胸に顔を伏せると今度は広い胸を意識してしまう。優しくまわされる腕はたくましく暖かくて、このままずっと飛び続けていられたら素敵だと思った。
それでも私の言葉がアンソニー様の心に少しでも届いたらいいと願いながら。
丘の向こうに王宮の明かりが見えてきて、月夜の散歩ももう終わりかと名残惜しく感じていると、私を囲っているアンソニー様の腕にわずかに力が入り後頭部にアンソニー様の額が触れるのを感じた。
「すまないと思っている。こんなことにお前を巻き込んで。」
突然の謝罪にびっくりしていると、アンソニー様はなおも続けた。
「宰相がお前を連れてきた時点で、私は奴の魂胆に気づいていた。だからお前は役立たずだと言って、家に送り返そうとしたが、お前はいままで聞いたこともないよう高度な技術と知識を持ち、聡く状況を読んだ。仮病だと見破られた時は驚いた。他のどんな医者も見破れなかったのにな。気づいてしまったお前を野放しにはできない。いつクメール国の人間がお前に接触してくるか分からない。だから私の主治医という名目で宮廷に留めたが、そのまま安全に過ごさせ、すべてが解決したら帰すつもりだったのだ。宰相からはプレッシャーをかけられ続けたが、私はお前をこんな形で利用したくはなかった。今となっては言い訳にしかならないが。」アンソニー様はそう言って自嘲気味に笑った。
「一か月前に父と母に毒が盛られた。幸い毒見薬がすぐに気づいて彼らに害が及ぶことは無かったが、事態は一刻の猶予も許さなくなってきている。クメール国大使が今夜あれほど露骨な態度に出たということは、こちらに不信感を持たれても事をなせるという自信の表れだろう。クメール国の企てを裏付ける証拠をいくつか手に入れてはいるがこちらには決定的な証拠が無い。表向きは硬直状態が続いているがその裏で敵は着々と準備を進めていて、こちらとしては状況を大きく動かすきっかけが必要だ。私はお前を使うことにした。私がそう決めたのだ。」
苦々しげに独白しながらアンソニー様は私を囲う腕になお一層力を込めた。
「お前に真実を告げて協力を仰ごうと思った。だがもしお前に断られた時に他を探す余裕は無い。エールリヒとも何度も話し合ったが、お前に打ち明けるという結論には至らなかった。それでも、何度も迷った。お前をバラ園に連れて行った事があったろう。あの日もエールリヒには悪いが、やはりお前に事実を告げて協力を仰ごうと思って連れ出したのだ。だが、やはり言えなかった。私はお前の意思を無視して、いや無視してではないな、聞くことすらせず、お前を意思のある人物として扱う事無く、国のための駒として使う事を決めたのだ。」そう言って苦しげに視線を逸らしながら言葉を続けた。
「お前の身の安全は何があっても守る。無事に家に帰そう。だがお前の淑女としての名誉は守れなくて本当に申し訳なく思っている。すべてに決着がついたら名誉の回復のためにできる限りのことはさせてもらう。」
びっくりした私はあわてて後ろを振り向いて言った。
「大げさですよ!私の名誉とかそんなに気になさらなくても大丈夫です。いえ、あの自分を卑下しているわけではなくて、私もともと結婚とかそういうものに興味が無くて、将来は家の近くに傷ついた動物の診療所を作ってできるだけ多くの動物を助けるのが夢なのです。だからご心配なく。」
慌てて言い募る私をアンソニー様はびっくりしたように見つめていたが、くるしげだった目元をわずかに和らげて笑った。
「そうか、ではその時が来たら私がその診療所のパトロンになろう。だが、もったいない事だな、お前はこんなに美しいのに。」
いきなりの直球の褒め言葉にまた一気に顔が赤くなる。
「な、な、なに言ってるんですか!そんなバレバレの社交辞令いりませんよ。」
「いや、本当にそう思っている。バラ園に連れて行ったのは真実を打ち明けるのが一番の目的だったが、もう一つの目的は今日のためのドレスを作るのにどの色が似合うのか知りたかったのだ。バラの花の下で佇むお前を見て、なるほどバラの精とはこんな姿をしているのかもしれないと思った。瑞々しくて、清々しく、生き生きとしていて、時々トゲが刺さる。」
微笑みながらアンソニー様が続ける。
「今日お前に持たせた緑のバラはエクレールという品種らしい。名前の由来は異国の言葉で『雷』という意味で、はじけるように花が咲く様子からつけられたと庭師に聞いた。その話を聞いたときにああ、お前にふさわしいなと思った。緑の髪を持つお前の化身のようにまっすぐでキラキラして生命力にあふれた美しい花だと。」
あまりにストレートな褒め言葉の連続にとっくに心臓は限界を超えて、脈打つ音がアンソニー様にまで聞こえそうで困るけど、出会ってから初めて思っていることを素直に語っている様子のアンソニー様に今までにない親近感を覚え、ドキドキしているのがバレてもまあいいかという心境になった。
「当然だが今日贈ったドレスとアクセサリーはお前のものだ。王宮を出るときに持って帰れ。その他にも欲しいものがあったら言ってくれ。」
これまた困ったことである。
「あんなに高価なものいただけません。第一いただいても着る機会もないですしもったいないです。」
そう言うとアンソニー様はでは何か他に欲しいものは無いのかと尋ねる。さ
っきも聞かれて困ったのに、さっきのいまで欲しいものなんて思い浮かぶわけないと思ったけど、一つ思いついた。
「じゃあ、このマントをください。」さっきからアンソニー様と一緒に包まっているマントは、しっとりと滑らかな極上の肌触りで、とても暖かいマントだった。
国王軍の指揮官用に作られたマントだと言うからきっと最高級の素材を使っているのに違いない。
ぜひくださいというと、こんなもので良いならとそのまま脱いで渡してくれる。
地上に降り立ち、黒い竜にお礼を言ってアンソニー様と別れて自分の部屋に帰った私は、そのマントを上掛けにして眠ることにした。ほのかに残っているあの干し草のような香りが、くすぐったくあたたかな気持ちにさせてくれ、アンソニー様に守られているような気持がしていつもより安心して眠った。




