宙を舞う心地
次の日も朝から先生と二人でレッスンにいそしんでいると、突然前触れもなくレッスン室の扉が開いてアンソニー様とエールリヒ様が入ってきた。
「これは、これは殿下。本日はいかがなさいましたか?」先生が尋ねると、
「残り二週間だからな、様子を見に来た。どうだ、エリザベス嬢は踊れるようになったか。」先生が少し自慢げに答える。
「エリザベス様におかれましてはことのほかダンスの筋が宜しく、すでに三曲すべてのステップを覚えられ、ここ数日はより美しく踊るための高度な体の使い方のレッスンをしているところでございます。」先生の褒め言葉を聞いてすっかり気分が良くなった。
自分で言うのもなんだけれど、やっぱり私はダンスに向いているみたい。するとアンソニー様から思いがけない一言が飛びだした。
「そうか、それではさっそく一緒に踊ってみよう。」
「え!」思わず出てしまった声を無かった事にしようと口を押えると、アンソニー様が私をギロリと睨んだ。
「なんだ、私が相手では不服か。」
「滅相もございません。ただ、まだまだステップを間違えずに踏むのが精いっぱいでして、アンソニー様の貴重なお時間を頂戴するには申し訳なく存じます。」言い訳じみた言葉をへりくだって答える。
「であればなおさら当日までに共に練習を積まなければならないな。なに、一昨日先生とバルコニーで踊っていたのを見る限りでは、ステップを踏むのが精いっぱいという様子ではなかったぞ。楽しそうに笑っていたではないか。」と少し意地悪な笑顔でアンソニー様が言った。う、見られていたのね。
「エリザベス様、殿下のおっしゃる通りです。当日までに殿下のリードをフォローできるようにならなければいけないのですし、非常にお忙しい殿下がお時間を作って来てくださっているのですから、一分も無駄にはできません。さあ、ホールドを組んで。」
先生に促されればそれ以上抵抗することも難しい。
左手を差し出すアンソニー様にしぶしぶ左手を預けると、その手を右腕の上腕に導かれ右の手のひらで背中からそっと引き寄せられる。
途端にアンソニー様の体を間近で感じて、一気に緊張して顔が赤くなったのが自分でもわかった。
アンソニー様の右腕に添えている手から伝わる腕の筋肉の熱さを意識せずにはいられない。
診察する時は何も意識せずに地肌に触れられるのに、今は柔らかなシャツ一枚を隔てても触れている左手がピリピリと敏感になっている気がする。右手をすくいあげるように握られると緊張は最高潮に達し、今にも走って逃げたい衝動に駆られる。
落ち着け私。これは私の患者。
これは私の患者。恐ろしく毛並みが良くて、とっておきの血統で、だけどあくまで私の患者。私の獣医魂にかけて冷静になって見せる!
そう自分に必死に言い聞かせているとアンソニー様が私の耳元に唇を寄せ色気たっぷりの声でささやいた。
「踊っていただけて光栄ですよ。私の主治医殿」とたんに私の心臓は再び早鐘のように打ち出し、顔に一気に血が上ったのを感じた。
思わずアンソニー様の顔を恨みがましく上目遣いで見上げると、甘く微笑む顔があった。
その余裕しゃくしゃくの顔を見たとたんに私の負けず嫌いのスイッチが入ったのが分かった。絶対にノーミスで踊りきってやる!
先生の合図でピアノの伴奏が始まり、三拍子のワルツのメロディが流れ始める。
そしてアンソニー様の動き出すタイミングに乗り遅れまいと身構えたときにはもう踊りだしていた。
驚くほどスムーズに自分の足が動くのが分かる。繋いだ手と重ねた腕からアンソニー様の動きが伝わり、何の不自然さもなく体が動き、くるくると円を描きながら伸びあがり沈み込み上下に大胆に揺れてスイングし、緩急をつけて大きく一歩を踏み出す。
自分がこんなに踊れるようになっていたなんて信じられない。ずっと踊っていたいほど気持ちが良くて、最高の気分でフィニッシュのポーズを決めた。
「素晴らしい!とても初めて二週間とは思えない出来栄えでした。美しい。」先生が手放しで褒めてくれる声が聞こえて、嬉しくてにこにこしてしまった。
「殿下、相変わらず見事なリードでした。エリザベス嬢、いかがでしたか。今日はいつもより上手に踊れた感じがしませんでしたか。それがリードが上手なパートナーと踊ることによって生み出されるダンスの魔法です。」
確かに、そうだった。本当に上手になった気がした。その嬉しさを伝えようとアンソニー様の顔をみると、アンソニー様はなにやら一人で考え込んでいる。
途端に背筋に冷や水をかけられたように興奮が冷める。
駄目だったんだ、いやそうだよね、いつもより上手に踊れたような気がしてたけど、しょせん始めて二週間の素人だもんね。さっきまでの浮かれた自分が恥ずかしくて、穴があったら入りたい。
するとアンソニー様は先生のところに歩いて行って、なにやら二人で相談を始めた。
先生がそれは、とか、いやしかし、とか言っているのが聞こえる。そのうち二人の間で何らかの結論に達したのか、アンソニー様と先生が私の方に向き直った。
「エリザベスもう一度踊るぞ。」俯いていた顔をあげた私をアンソニー様は両手を広げて待っていた。
「エリザベス様、少しホールドの形を変えます。今までの姿勢で良いのですが、そのままこぶし一つ分前に進んで、このように殿下の右側の腰とエリザベス様の右側の腰を向かい合わせで足の付け根から一番下の肋骨まで密着させてください。」そう言いながら先生が私の背中を押してアンソニー様にくっつける。
先生、近いよ、近い!さっきもたいがい近いと思ったのに、アンソニー様にここまで近づくって何かの拷問ですか?
そもそも何でこんな姿勢?そんなにさっきのダンスだめだった?とりあえず間違えずに踊れたのだからあれでいいじゃん!
恨みがましい目でアンソニー様を見つめると、アンソニー様は不敵な笑みを浮かべて私をさらに引き寄せながら言った。
「いいか、お前と私の間に透明な板をイメージしろ。その板はお前の右手と左ひじと右の腰骨を通っている。その板をまっすぐなまま維持しろ。足が動いている間は絶対にその板を曲げるな。」
「えっと、足がとまったら?」
「お前が私の動きを感じとれれば分かる。」なんですかその俺様な感じ。王様?あ、王子様だった。
「踊りながらステップを考える必要はない。ただ板と私の動きを感じることだけに集中しろ。」そう言ってアンソニー様は伴奏者に顎で合図を送る。
待ってという間もなく動き出したアンソニー様の動きに全神経を集中させると、驚いたことに確かに板の存在を感じた。右半身をくっつけていることで、アンソニー様の意図が手に取るようにわかる。
アンソニー様の進みたい方向、動きたい動作を頭で理解する前にもう自分の足が動いている。体験したことのない一体感に思わず笑みがこぼれると、アンソニー様も笑った。
「ここからだ。」直後、アンソニー様が一気に加速したのが分かった。
飛ぶような歩幅で、跳びあがるようなスイングでホールを縦横無尽に駆けまわる。
部屋の景色が飛ぶように通り過ぎ、風を切る音が聞こえる。体が限界まで伸びて、心臓が激しく打つ、このまま羽根が生えて飛んでいけるんじゃないかと思う浮遊感を覚え、音楽が鳴り終わったのも気付かなかった。
「素晴らしい!素晴らしい!殿下の本気のダンスについていける女性がいるとは!」先生が盛大に拍手をしてくれるのが聞こえる。振り返ってみるとなんとエールリヒ様まで不本意な顔をしながらも拍手してくれていた。
嬉しくなってまたアンソニー様の方に振り向くとアンソニー様も笑っていた。
「面白かったか?」
「はい!すごい速さで。まるで羽根が生えて空を飛んでいるみたいで。でもちっとも怖くなくて。ドキドキして、楽しかったです。」興奮の冷めやらないまま子供みたいな感想を満面の笑みで答えるとアンソニー様も満面の笑みを返してくれた。舞踏会当日が楽しみになった。




