獣医の本領
「それで、黒の竜はどこをケガしたのですか?」
「分からない。乗っていると明らかに普段と揺れ方が違うからどこか怪我をしているか、痛めていると思う。だが本人に聞いても痛いような気がするが痛みは些細だし、どこが痛いかなど気にしたことも無い、放っておけば治るとしか言わないのだ。」
なるほど。これは獣医の本領発揮といったところだ。
「分かりました。」まずは歩様の観察から始めよう。
「アンソニー様、中庭のあちらの端からこちらの端まで黒の竜に歩いてくれるように言ってもらえますか?」昨日まで降り続いた雨でぬかるんだ中庭は歩様検査にはぴったりの状況になっている。足跡がしっかり残るからだ。動物の状態を知るのに足跡はとても大切な情報源だ。
「お前が言ってみよ。黒の竜はお前の言っている言葉を理解しているし、お前の言うことなら従うだろう。」
「え!良いのですか?分かってもらえますかね?」
「大丈夫だ。」そう言われて、不謹慎にもワクワクしながら黒の竜に向き直り、近づいて眼をみて落ち着いたトーンの声で話しかけてみる。
「あのね、黒の竜、どこを痛めているのか調べるために、あっちからこっちまで普通に歩いて欲しいの。出来る?」私がそう言うと黒の竜は分かったというように頷いて、私が言った通りに中庭を端から端まで歩いてくれた。
しゃべる言葉が普通に通じるファンタジーな状況に感激!とか言っている場合じゃない。さっそく足跡を観察してみる。歩幅を測ってみると右側の後脚の歩幅が左側に比べて短い支柱跛行だ。
足跡をよくよく見ると右側の外側への過重があきらかに弱い。恐らく右脚の外側の指の爪あたりに痛みがあるのだろう。
そう当たりをつけて中庭の向こうで座っている黒の竜に近づく。
「黒の竜。右側の後ろ脚の足の裏を見せてくれない?」そういうと黒の竜はまたもや素直にその場に横になって足の裏がみえるようにしてくれた。
竜の足の裏なんてどうなっているのか想像すらできなかったけど、同じくらいの長さの指が三本あって、それぞれの先に鋭い爪がついている。その爪の付け根から人間でいう第一関節が始まっていてこれがかなりしっかり太くて厚くて硬い。主にこの部分を地面につけて歩いているらしいことはさっきの足跡からも分かった。
よくよく観察してみると、右後脚の外側の指の爪にひびが入っている。剥がれかけているわけではないので意識して観察してみないと気付かないけれど、たぶんこれが痛みの原因だろう。爪の根本もよくよく観察すると少し血豆のような血腫ができている。
「黒の竜、これ痛い?」そう言いながら爪を押すと黒の竜が少し鳴いた。なんと言ったのか知りたくてアンソニー様を振り返る。
「そこを押されると痛いと言っている。」よしよし。患部が特定出来たらあとは処置だけだ。
今のところ剥がれていないから化膿しているところを綺麗にして、爪が剥がれないように膠でコーティングしておけばすぐに治るだろう。終始協力的な黒の竜のお蔭で処置はすぐに終わった。何も言わずに見守っていてくれたアンソニー様を振り返る。
「終わりました。爪にひびが入って根本が出血していたみたいですが、そんなにひどいケガではないのですぐに良くなると思います。膠で爪をコーティングしてあるので、もし膠が取れてしまって、痛みが続いているようならまた連れて来てください。」久しぶりの診療に達成感いっぱいで笑顔で報告する私に、アンソニー様はどこか納得したような顔をしていた。
「お前が動物の医者をしていたというのは本当だったのだな。」
「え、お疑いだったのですか?」
「いや、疑っていたわけではないのだが、動物を専門に治療する医者というのがあまり想像できなかったのと、お前が動物を治療している姿が思い浮かばなかった。だが今見て納得したというか、実感したというか、すごいものだな。」簡単な外傷とはいえ久しぶりの治療で手ごたえはあったけど、手放しで褒めてもらえるとは思っていなかったので照れてしまう。それと獣医という仕事を認めてもらえた気がして嬉しい。
「ありがとうございます。」
アンソニー様は私の返事に頷いたあと、優しい眼差しを黒の竜に向け、治療された爪の辺りを撫でながら話しかけていた。
黒の竜が喉の奥で小さな唸り声をあげているのは、アンソニー様にしか分からない言葉で答えているのだろう。その仲睦まじい姿に羨ましさが募る。
昔、一度だけあんな風に動物と心を繋いだ事がある。転生する前に働いていたNPOで保護していたアルビノの小象は、保護した時からなぜか私によくなつき、ケガから回復した後はどこに行くにもずっとついて歩いて来た。
眠る時でも私の部屋の傍で、時には部屋の中まで入ってきて寝ようとするので、私の部屋を象舎の中の一室に移さなければいけなかった。
「アンソニー様、アンソニー様は黒の竜をなんと呼んでいるのですか?」
「名前か?名前は『クロ』だ。」あまりに身も蓋もない名前にずっこけそうになる。犬や猫じゃないのだからもう少しかっこいい名前を付けても良いのに。
とはいえ、私があの小象につけていた名前も『月白』だったからあまり人の事はいえない。
そんなこんなで、懐かしい思い出に浸っていると、いつの間にか傍に寄ってきたアンソニー様に話しかけられた。
「褒美としてこれをやろう。」そういってアンソニー様は懐からなにやらピンク色の塊を取り出した。そして私の汚れた手を取って掌にそれを載せる。それはバラの香りのする綺麗な石鹸だった。
「その泥だらけの顔と手足を洗うのにちょうど良い。図らずも最適な贈り物になったな。」そういってアンソニー様は私の頬についた泥を親指で擦って笑った。
そういわれると全く気にしていなかったけれど、泥だらけの黒の竜の脚を治療したのでそこら中に泥がついている。動物を診療する時にはいつもの事なので、あまり気にしていなかったけど年頃の女性としてはちょっと問題ありかもしれない。
まあアンソニー様の前ではいろいろやらかしてしまっているので、この程度はいまさらという感じだ。
「ありがとうございます!バラの石鹸なんてあるのですね。素敵、大切に使わせていただきます。」この世界にこんな洒落た石鹸があるなんて知らなった。なんだか前世から届いた贈り物みたいで嬉しくなる。素直にお礼を言うとアンソニー様も嬉しそうにしてくれた。そんな私の後ろから黒の竜がやさしく鳴く声が聞こえた。
「黒の竜も何かお前にお礼をしたいそうだ。」
「え、大丈夫だよ。これは私のお仕事なんだから。」そう言うと黒の竜はまた何やら鳴き声を立てる。
「仕事ならなおさら報酬が必要だと言っている。」そう言われるとそうかもしれない。
けど竜からお礼をもらうのも想像がつかない。契約相手であるアンソニー様から報酬は受け取っているし。でもきっと黒の竜が自分で何かお礼をしたいと思ってくれているんだろう。その気持ちを無下にはしたくない。
「そうしたら、もしよければ何か小さな魔法を見せてくれない?私、自分以外で魔法を使っている人を見たことがないの。」竜は魔法が使えると聞いたことがある。でも実際に使っているところを見たことはないので興味があった。
そう言う私に黒の竜は心得たとばかりに頷いた。そして唐突にその場で大きく羽ばたき始めた。すると昨日までの雨であたりの木々に残っていた水滴が空中に舞い上がる。その水滴めがけて黒の竜は息を吹きかけると水滴が空気中で細かく霧状になりそのまま凍って日の光を受けてキラキラと美しく輝く。酷寒の地で見ることが出来るというダイアモンドダストが目の前で展開されていた。
「すごい!綺麗!」思わず息を飲む私にアンソニー様は苦笑して教えてくれた。
「黒の竜がこれほど気軽に魔力を見せるのは初めて見た。お前のことは最初に会った時から気に入っているのだ。」
「黒の竜は氷の魔法を操れるのですか?」
「そうだ。幸いなことに戦などでこの力を発揮してもらったことは無いし、これからもそのような事態にならないようにしたい。この竜は強大な魔力を有していて、その力は氷の魔法に特化していると伝えられている。私も黒の竜が本気で魔法を使うとどれほどの事態が起こるのかは知らない。」そう言われると竜の持つ計り知れない力に少し畏怖の念を覚えるけど、目の前にいるのは優しげな眼をした美しい生き物で、思いがけずにこの美しい存在に巡り合えたことに感謝をした。




