31.イベント「しゃぼん玉われた」4
ダイニングでの朝食は、スタンダードにパンとスープ、それにおしゃれな容器に入れられたゆで卵であった。
食べられない人向けに別のコースもあるようだが、木村は変更する必要がない。
おっさんや赤竜も同じコースを頼んでいる。
「素晴らしいね。後でコックに挨拶をしなければ」
赤竜はスープに舌鼓を打っている。
こういうのはコックを呼ぶパターンだと思ったが、自分で行くパターンもあるようだ。
「キィムラァ、しっかり噛むんだぞ。最低でも三十回は意識するんだ」
「わかってる」
最低限のマナーはあるようで、おっさんも赤竜も食べているときは比較的大人しい。
落ち着いた朝食も終わりかけたところで奥の車両から新たな乗客か現れた。
茶色っぽい髪にケモ耳で、眼が大きく、眉毛部分が白っぽい。
完全な獣人よりもどちらかと言えば人間に近く、モチーフは柴犬だろう。
女性のようだが、スーツのような正装をしており、フルゴウルと良く似た服装である。
見た目から判断するにソシャゲ側のキャラであることは間違いない。
お供の者も一緒だが、席に着いているのは柴犬型の彼女だけである。
本人もお供も背がピシッとまっすぐで、木村は見ていて背中が引き締まる気がした。
「おぉ、首がもどらんぞぉ」
柴犬の彼女とは対照的に、背中を丸め首も斜めに捻れたままのアコニトがやってきた。
消滅していなかったので死んではいないとは思ったが、幸か不幸か中途半端な形で意識を取り戻したようだ。
「おぉ、儂抜きで朝餉かぁ? ――あ!」
アコニトが空いた席に腰掛ける直前で、奥を見やり声を出した。
すぐさま奥の方へと歩き出す。
「おい! 光の!」
アコニトが、柴犬女のところで足を止め声を上げた。
柴犬女はアコニトをちらりと見て、すぐに視線を戻す。無視である。
「おぉ! 真面目だけが取り柄の光っ子は挨拶もできんのかぁ!」
捻れた首のままでアコニトが挑発している。
挨拶ということであれば彼女自身がすでにまともにできていない。
「おはようございます。アコニトさん、首が曲がっていますよ。捻れるのは性格だけにしてくださいね」
「あぁ?」
アコニトの安い挑発に、柴犬女は眼を尖らせ言い返した。
どちらも煽り耐性が低そうだなと木村は思う。
二人はネチネチと言い争いを始めている。
おっさんが止めに歩いて行くので、木村もついて行く。
赤竜もおもしろそうな雰囲気を感じ取ったのか、木村の隣で楽しそうな顔をしていた。
「光のわんこ――」
「いい加減にしないか」
おっさんがアコニトの首を逆方向に捻った。
ペキリという音が鳴って、首は逆方向のまま固定される。
首から下は力なく垂れているが、おっさんが首を持っているので宙づり状態だ。
「すまないな。こいつは気が狂っているんだ。野良狐に噛まれたと思って、どうか寛大な心で見逃してやってくれ」
「いえ、こちらこそ見苦しいところを見られてしまいました」
柴犬の女は赤面しつつおっさんに礼を返した。
「ここで会ったのも何かの縁だ。席を一緒にしても良いかな。レディ――」
「ケリドだ。かまわない。レディ――」
「赤だ」
「……あ、赤?」
「ブラックウルフと名乗っていたこともあったよ。好きなように呼んでくれたまえ」
赤ですらないし、竜ですらないぞと木村は心の中でツッコんだ
木村とおっさんも自己紹介を軽くおこない、流れで同じテーブルの椅子に腰掛けた。
柴犬の彼女はケリドという名で、東日向の三大光神の一柱だという。
どこかで聞いた設定だと思い起こせば、アコニトもたしか同じ系列の一柱だった。
アコニトは影の方だったので、光と影で仲が悪いのだろうと木村は推測した。よくある設定だ。
「アコニトとは同じ国の神様なんですね」
「はい。近頃、見ないと思っていましたが、こんなところをほっつき歩いていたのですか」
ピシッと発言をするあたり、言葉からも真面目な雰囲気を感じる。
アコニトが美術のちゃらんぽらんな不良教師なら、このケリドは生徒指導か、さらに上の教育委員会あたりだろうか。
木村もケリドと話していて、女性と話す以外の緊張を感じた。
叱られないかという緊張感だ。
「大変な役柄だ。心労も多いことだろうな」
おっさんや赤竜はまともに話しているので、緊張感を持っているのは木村だけだろう。
列車のことを話すと、彼女とフルゴウルが出資者らしく、賓客としてこの列車に乗っているらしい。
さらに、この世界のことについて話した。
「カゲルギ世界ではない?」
「はい。ここはカゲルギ世界じゃありません。異世界です」
過去にアコニトと交わした会話をケリドともおこなう。
彼女もこの列車が異変に巻き込まれていることは知っていたが、どこに迷い込んだのかはわかっていないようだった。
「まずいですね。食料の補給に、乗務員への連絡、他の乗客への案内――」
ぶつぶつと何か言い出して考えごとを始めた。
今後の対応を練っているようだ。
「まぁた、まじめくさって考えておるなぁ」
アコニトがいつの間にか意識を取り戻し、ケリドに向かって言い放った。
首は曲がったままだが、乗務員を呼びつけメニューを見ている。
「通常のコースはつまらんなぁ」
「あなたはもっとまじめに考えるべきでしょう」
「光のと同じコースもおもしろくないぞぉ」
「どうして異世界にやってきたというのに、暢気にしていられるのですか」
「刺激が欲しいところだぁ」
「そもそもあなたはいつもそうです」
「よし。この一番下を頼むぞぉ」
「かしこまりました」
「聞いていますか?」
間違いなく聞いてない。
アコニトが煙管を取り出したので、火を付ける直前で木村が止めた。
すでにおっさんが彼女の背後で、腕をスタンバイしていたのでギリギリだったようだ。
「いろいろ考えたところでどうしようもないぞぉ。なるようになるだろぉ」
「いい加減すぎます。あなたは神としての自覚をもっと持つべきでしょう。人々をきちんと導くことが我らの役目ですよ」
「相も変わらずつまらんことを言いおるのぉ」
アコニトが口をわずかに開けて、斜め上を見ている。
木村は知っている。彼女が心底あきれかえっているときの表情だ。
木村が酒やタバコの年齢制限の話をするときに同じような顔をするので間違いない。
すなわち、アコニトはケリドの話をその程度に受け止めている。
「ヒトがどうなろうと儂の知ったことではないなぁ。せいぜい退屈させんよう愉快に踊ってくれればそれで良いわぁ」
もしも煙管を手に持っていたら、間違いなく煙をケリドに吹きかけていただろう。
そうであったら殴り合いが始まっただろうが、なかったせいでケリドは頬を引き攣らせるだけだった。
「ヒトがどうでも良い? あなたは何を言ってるんですか?」
「儂は、ヒトの奴隷じゃないんでなぁ。ヒトのために何かをする気など微塵もないぞぉ」
「――私が、ヒトの奴隷だと?」
「違うのかぁ? ヒトを思い、ヒトのために行動し、ヒトのために自らを殺す。哀れな傀儡だぁ」
アコニトのゲラゲラという笑い声を久々に木村は聞いた。
聞くと気持ち悪いのだが、ときどき無性に聞きたくなる中毒性のある笑いだ。
「あなたは何もしないのですか?」
「いいやぁ。儂は、儂のやりたいことをするぞぉ。ヒトもヒトのやりたいことをすれば良い。強制はせんし、強制もされん。ヒトも神も自由であるべきだぁ。ヒトの責任はヒトが負う。儂の責任もヒトが負う。儂は知らん」
「あれ?」と木村は首を捻った。
なんか途中まで良いことを言ってたように聞こえたが、最後の最後でやっぱり駄目になった。
「ボクもパープル君の意見に概ね賛同するね。カレらは自分の意志をしっかり持っているよ。ボクたちがあれやこれやと言う必要なんかない」
「俺はレディ・ケリドの意見を良しとするぞ。特に若い連中は性急だからな。誰かが押さえ、導かねば誤った方向に進みかねない」
聞き役の二人も意見が割れている。
柴犬と狐が睨み合っていたのとは対照的に、赤竜とおっさんはどちらも軽く微笑んで互いを見た。
「でもね。どっちも根っこは同じなのさ」
「だがな。どちらも根本は同じだぞ」
二人の言葉が被る。
「どちらも人を思っている」
語尾は違えど二人が同じ言葉を漏らした。
ケリドは肯定も否定もせず二人を見て、意識を逸らすようにコップに手を付けた。
一方のアコニトはどこからか取り出した爪とぎで、爪をサリサリと研いでいた。二人の話なんてまるで聞いちゃいない。
「人の話はちゃんと聞くんだぞ」
「ふぁおぉお! おっ……?」
おっさんがアコニトの頭をつかみ、グギィッと曲げて元に戻した。
あれで元に戻るのかと木村は恐怖を覚える。治すときの方がずっと痛そうだ。
「おっ、きたきた」
テーブルにアコニトの頼んだ料理が運ばれてきた。
木村どころか、ケリドも置かれた料理を見てあらゆる感情が停止した。
浮かぶのはただ一つの疑問である。
「これ……、ほんとに食べるの?」
料理は真っ赤である。
カプサイシンが99.9%のような料理だ。明らかに人が口にして良い物じゃない。
多民族に対応したコース群とは聞いていたが、多民族どころか多種族にまで対応している。ヒトにとっては毒だろう。
「おぉい。儂は甘口もいけるがぁ、酒も葉巻も辛党だぞぉ」
酒と葉巻の辛口がいったいどういうものか木村にはわからない。
しかし、それらの辛口と、この毒物の辛口は次元が別のものの気がしてならない。
「おいしそうだね。ボクも昼はそれにしようかな」
「キィムラァはやめておくんだぞ」
「うん」
木村もたいへん素直に頷く。
ケリドはハンカチで鼻を押さえ涙目で席を立った。
犬だから匂いに敏感なのだろう。つまり、やばいということだ。
猫に唐辛子は良くないときいたことはあるが、狐に唐辛子系は大丈夫なのだろうか。
酒や葉巻どころか、葉っぱまでキメてるからあるいは大丈夫かもしれない。
そもそも毒使いだから案外いけるのかと思った。
「なっさけない鼻だなぁ」
アコニトは足早に立ち去るケリドを嘲っていた。
もしかしたらこのためだけに、これを頼んだのかもしれないと木村は疑っている。
「ちょっと沁みるが良い香りだぁ」
「ちょっと? これが?」
木村はケリドと同じく、眼にチクチクきて涙が勝手に出てきている。
もはや香りじゃない。ただの刺激である。すでにまともに眼も開けられない状態だ。
「食ってみるかぁ」
アコニトが黒に近い赤を口に入れた。
木村は離れていたところから見ていたのだが、効果は抜群としか言いようがない。
一口目は普通だった。やや表情がぶれたくらいだ。
二口目でアコニトの表情が止まり、顔色が白くなった。
さらに汗が大量に噴き出し、体がガタガタと震え始めている。
木村もアコニトの反応に恐怖して、体がぶるりと震えた。
「アコニト。水」
アコニトは口をひぃひぃと開けて、言葉を発することもなく水を飲み干した。
さらにコップでは足りず、金属のウォーターピッチャーを乗務員から奪ってそのまま飲み干していく。
これでも足りなかったようで、彼女の手が飲みものを探す。
「おい女狐。これを飲むんだぞ」
おっさんがアコニトに器を渡した。
アコニトはすぐさま渡された器に口をつけて飲む。
「ぶはぁああああ! ふはぁああ、ぎぃいいいいい!」
アコニトが赤い汁を口から噴き出した。
床に落ちた器からは真っ赤な液体がこぼれだした。
テーブルを見れば、出されていた真っ赤なスープがなくなっていた。
アコニトは、自身の全身を、爪を立ててかきむしる。
その後、右に左に走り出し、とうとうダイニングから消え去ってしまった。
―― ―― ――
一方、時間は移り、最後尾の展望車である。
展望車には二人しかいない。
一人は金髪の女であり、もう一人は黒髪の男である。
身長差は頭一個分以上ほど男の方が高い。ただ金髪の女の背が低いわけではない。黒髪の男が大きいのだ。
しかし、金髪の女の方が黒髪の男を従えていた。
二人は展望車のさらに後方に進んでいく。
「ダズマ。ケリドの話を聞いていたな。――此度の計画は中止とする」
ダズマと呼ばれた男も短く頷いた。
彼もケリドの話をフルゴウルの横で静かに聞いていた。
「致し方ないでしょう。想定外のことが多すぎました。ノタの目をもってしても見ることが出来なかったのですから」
フルゴウルと呼ばれた女も同意した。
ノタというのはフルゴウルらの仲間である。彼女の力が未来視だった。
ノタの見たという未来では、すでに彼女たちは列車を降りているはずである。
彼女の力が外れたのは初めてだったので、最初は裏切りかと思ったが想定外のことが起きたと判明した。
「まさか異世界とはな」
ケリドから話を聞かされたときは、ダズマだけでなくフルゴウルですら呆気にとられた。
しかし、ラウンジで同席した三人の存在が「異世界」という言葉を事実と示している。
「計画は中止ですが、アレはどうなされますか?」
ダズマはフルゴウルから目を逸らして、展望車両のさらに後ろを見る。
そこにはどんどんと過ぎ去っていく線路と景色だけがあった。
「処分する。現状で、こちらに来られては面倒だ」
フルゴウルが腕を伸ばし、手の平を上に向けた。
手の平のやや上で、金色に輝く光が立方体の形を形成し、やがて重みを持って手の平に乗った。
「これくらいで十分だろうか?」
「はい。込めすぎたくらいかもしれません」
「そうか、難しいものだな。それではこれを――」
ダズマが金色の立方体をつかみあげ、展望車両の後ろの線路に投げ捨てた。
金色の立方体は大きく転がることもなく、線路の上で止まる。
フルゴウルも四つの瞳ではっきりと見届けた。
「線がなければ、列車などただの箱だ」
「はい。アレの処分は良いとしまして、機関部の接収はどうなされますか?」
「放置で良い。問題がすでに生じている。失敗作は不要だ。ドナーを替えて造り直す。この旅程が終わるまで保てば良いだろう」
「承知致しました」
フルゴウルとダズマは展望車両を後にした。
展望車両の横を土埃が舞ったが、彼らは気づいていない。
―― ―― ――
場所は遙か遠くに移動して、グ・ザマヒである。
グ・ザマヒはもう性根が尽き果てかけていた。
追いかけても追いかけても走っていた箱に追いつける気がまったくしない。
追いつくどころか、箱との差はどんどんと開いていっていると彼も感じ始めている。
――もう帰るか?
この問いにもグ・ザマヒは首を横に振らざるを得ない。
谷に帰るにしても、ここから手ぶらで遠路を帰るのはあまりにもしんどいというものだ。
彼がとうとう立ち止まったときにそれはやってきた。
進路方向とは逆側から、この前に見た箱と同じようなモノが二本の金属線の上を走って、彼の方へとやってきている。
ただ、以前見た箱は泡を出していたが、こちらは煙を噴き出している。
彼にとっては噴き出すモノが、泡か煙など大きな差ではなかった。
彼はようやく求めていたモノに手が届く。
これこそが重要だ。
グ・ザマヒの見つけた列車には多くの大男たちが乗っていた。
全員の目つきが鋭く、荒事に慣れた人種である。
彼らは全員雇われた身であった。
依頼内容は、前を走っている列車に追いつき、力づくで奪うこと。
機関部さえ傷つけなければ、殺そうが奪おうが好きにして良いと聞かされている。
さらに報酬は並の報酬よりもべらぼうに高いとあっては、断る理由などないというものだった。
「どこを走ってるのかさっぱりわからねぇ」
「焦んじゃねぇよ、若造」
「ああ、クソ爺が何をいってやがる」
「おい! もっと速くならねぇのか!」
荒くれ者の中に一人だけ例外がいた。
先頭車両の機関を預かる機関士ビッツである。
雇われたという意味では同じなのだが、彼は先行車両に追いつけば良いとしか聞いてない。
奪えや、殺せや、犯せやの世界とは十日ほど前まで無縁であったのに、なぜか今はそんな無法集団の最前線にいる。
ちなみに彼は今回のイベントで、話の進行のみで味方になるキャラである。
かなり重要な役目を後で担う予定だったのだが、異世界ではその役目は訪れない。
付け加えれば、ピックアップの☆5が柴犬のケリドであった。
今回のボス戦における接待キャラと言われるほどの性能を彼女は持っている。
☆4キャラは途中で乗り合わせる予定だったが、異世界のため出番がなくなった。
さて、無法者の最前線は戦う手段もないビッツだが、最上位は別にいた。
車両の最も後方部で、少人数で優雅に酒を飲んでいる。ラトローである。
ラトローは「あの方」からの信用が厚い、と彼は思っている。
なぜか? 彼には知恵があり、戦術を組める知能もあり、何より腕っ節があった。
切り札となる金の箱をあの方から手ずから渡されている。
なお、「あの方」ともったいぶってるが、すでに出てきたフルゴウルが「あの方」である。
フルゴウルからすれば、ラトローは数多くいる捨て駒の一つなのだが、彼には自らが消耗品だという自覚は無論ない。
本来のイベントストーリーであれば、彼がイベントボスの前座となっていた。
ストーリーの最後に、彼は自らが捨て駒だとようやく気づき、嘆きの中で死んでいく。
彼は異世界に来て救われたと言って良いだろう。
嘆く間もなく死ねるのだから。
彼にとっての死がやってきたのは、酒のボトルをちょうど空にしたときである。
車両がグラリと大きく揺れた。ラトローは自らがまだ酔っていないと自覚している。
今の揺れは石を踏んだようなものではなかった。
「客が来たぞ」
予定になかったことだが、ちょうど良いとラトローは考えている。
せめて本番までの時間つぶしと、腕ならしになってくれれば良いと彼は望んでいた。
先頭に戻り機関車両では、ビッツが信じられない光景を目にしている。
何かにぶつかったと思い、身を乗り出して先端を見れば、人が機関車を止めようと腕を大きく開いていた。
死んでないだけでも驚きだが、わずかに機関車の速度を落としていることがビッツの驚きを増している。
なお機関車両を力尽くで止めているグ・ザマヒは分が悪いと考えている。
どうやら彼よりも箱の方が力では上だ。
彼も力はある方だが、谷でも力だけなら上がいた。
こういう相手を戦技なしで倒すには、力をずらし横から攻めるべしとグ・ザマヒは心得ている。
グ・ザマヒは真っ向からの対決をやめて、体を横にずらした。
速度差があったため、体の横を車両が流れていき、後方の第二号車へと一気に移動する。
箱の側面に爪を突っ込み、そのまま箱を引き千切る。
中には多くの人がいた。箱は生物ではなくただの物だったとグ・ザマヒは理解した。
「何者だ!」
傭兵たちは席を立って、それぞれの武器を手にした。
グ・ザマヒも彼らの敵意を認識する。
箱の中には人がいた。
グ・ザマヒは乗り物という概念がないので、なぜ人が箱に乗っているのかわからない。
人は「移動が楽になる」と彼に説明はできるだろう。しかし、彼にはなぜ移動を楽にする必要があるのかが理解できないだろう。
彼はこれまで大きく移動することがなかった。
生まれ育ったところで育ち、そこで生きて、子をなし、死んでいくのが当然と考えている。
外の人間が町と町を移動し、交流や交易を盛んにしているということを彼はいまだ理解できないでいた。必要性が不明だ。
彼が迷っている隙をついて、傭兵の一人が彼に斬りかかった。
容赦のない一閃が彼の首を狙う。
グ・ザマヒはその斬撃を避けなかった。
避ける必要もない。
傭兵の剣は、グ・ザマヒの首に当たり、鋭く短い音を立てた。
刀身が途中でポッキリと折れ、折れた刀身が近くの壁に突き刺さる。
「此筺是何?」
自らが攻撃されたことはグ・ザマヒもわかったが、害はないので無視する。
それよりも彼らが乗るこの箱のことが気になったので、この箱は何かを尋ねた。
「どけ! 俺がやる!」
質問に対する返答は大斧による一撃である。
グ・ザマヒは腕で受けた。斧は薄い剣と違い折れることはなかった。
ただ、攻撃を仕掛けた側が反動でのけぞってしまう。皮膚以前に毛で弾かれる。
「再問。此筺是何?」
もう一度尋ねるが、やはり返ってくるのは敵意と攻撃のみだ。
外の世界は言葉で意志を交わすと聞いていたが違っていたようである。やはり最低限の力を示さないと意志の疎通はできないのだとグ・ザマヒは理解した。
彼は力を示すべく一番大きな男を叩いてみせた。
即死である。叩かれた男は壁をぶち破り、外に飛び出てしまう。
周囲の傭兵たちは、百戦錬磨と言わないまでも一度は自らの生死をかけた戦場に出たことがある。
自分にできうることを把握しているし、戦ってはいけない相手を理解することもできる。
目の前の半人半熊の男に手を出してはいけないことをようやく理解した。
数の力でどうにかなる相手ではない。
彼らの武器は通用せず、彼らの鎧は紙同然だ。
この場にいた全員が、戦わず済む方法を模索し始めた。
「此筺是何?」
グ・ザマヒも傭兵たちがようやく聞く姿勢になったとわかった。
やはり力だ。力がまずあって、言葉による意志の疎通が行えるのだ、と彼なりに理解した。
彼の理解は概ね間違っていない。
この場にいる人間は彼と戦う気などなくなっている。
彼の単語だらけの問いにようやく答えようかという雰囲気が出始めた。
誰が答えるかで静かに譲り合いの攻防戦が始まっている。
「――何事だ?」
問題はこの場にいなかった奴である。
別の車両から彼らを束ねるラトローがやってきた。
束ねると言っても、彼が雇い主に一番近かったから他は彼の指示を聞いているだけである。
力量自体はさほど自分たちと変わらないと周囲は認識している。
周囲の認識は間違っていた。
ラトローは彼らの認識よりもずっと強い。
全力のラトローは彼らが束になってようやく勝てるどうかの強さである。
「ふん。雑魚どもが」
ラトローは列車の状況を軽く見渡し状況を把握した。
どうやら侵入者は半人半熊で、力任せの攻撃が得意なようだ。
傭兵の中でラトローはいっとう強い。
彼自身も、自らが彼らよりもずっと強いことをきちんと認識している。
重要なのは傭兵の中で強いかどうかではなく、グ・ザマヒと比べて強いかどうかであった。
ラトローは彼の得意武器である大鉈を構えた。
彼はそのまま彼の得意技――鮮血の一振りをグ・ザマヒに放った。
彼が「血鉈のラトロー」と呼ばれる所以の技である。
相手がラトローの鉈を剣で受けようが、鎧で受けようが、問答無用で皮膚を切り裂いて出血させる。
出血するほどに相手は動きを鈍らせ、ますます鉈をくらい、最後は血だらけになって絶命する。
彼の身体能力と戦闘技術があれば鉈を相手のどこかに当てることはたやすい。
グ・ザマヒはラトローの攻撃を避けなかった。
当たったところでどうにもならないと考えていたからである。
実際に、鉈はグ・ザマヒの獣毛で止められ、切り傷どころか皮膚にすら届いていない。
ラトローもグ・ザマヒの毛の硬さに驚く。
しかし、彼の攻撃のメインは鉈による斬撃ではなく技によるものだ。
技は発動し、グ・ザマヒの腕の一部から出血が見られた。
「何?」
「なんだと?」
二人が同時に疑問の声を上げた。
グ・ザマヒは腕の一部がわずかに出血したことへの疑問。
ラトローは出血の量があまりにもわずかすぎることへの疑問。
「奇怪的技!」
初めて体験する類いの攻撃にグ・ザマヒも驚いた。
悪い驚きではない。奇妙という面でラトローの攻撃は、グ・ザマヒの関心を惹いた。
驚かされるばかりではいけない。
グ・ザマヒもまた彼の技によってラトローを驚かせることにした。
グ・ザマヒは両腕を大きく開いた。
同時に股も開き、腰を落とす。
「な、なんだ?」
車体が大きく揺れ始める。
ラトローの背後からミシミシと軋む音が響いてきていた。
グ・ザマヒが開いた両手をゆっくりと握った。
ラトローの背後の壁、天井、それに床がぐしゃりとひしゃげた。
まるで紙で作ってあったかのように、車体がくしゃくしゃと丸まっていく。
彼と周囲の傭兵も元凶のグ・ザマヒから目を逸らして、後部で生じる現象を眺めている。
さらにグ・ザマヒは握った左右の拳をわずかに開き、体の前へ近づけていく。
両の手の平が近づくにつれ、車体はますますひしゃげ、ついには空中で歪な球体を作ってしまった。
おにぎりを作るように手の平同士が重なると、ラトローたちの見ていた球体はさらに小さく圧縮される。
その後、グ・ザマヒが手を離せば、球体は線路へドゴッと重い音をたてて落ちる。
ラトローより背後の車両は消えてなくなった。
突如、現車両は展望車になり、空と線路がよく見え、風も遠慮なく入り込んでくる。
この列車は全体が五両編成であり、彼らがいる車両は二両目だ。後ろの三両がどこかに消えた。
この急造展望車も、後ろだけでなく壁にところどころ穴が空いている。
――壊滅であった。
ラトローも後部の三両があの小さな球体になったと想像できるのだが、どうやってああなるのかは理解したくない。
ましてや目の前に立っている半人半熊があれをしでかしたとは考えたくなかった。
もしも先ほどの力が自らに降りかかれば死は免れない。
それでもラトローは立ち続けているという点で勇敢だ。
他の傭兵はあまりの光景に、腰を抜かし武器も手放し震えている。
彼らの力はあくまで人に向けられるものである。車両すら破壊する存在などとの相手は想定されてない。
攻城兵器を狭い室内で使うとこうなりますというデモンストレーションを見させられた。
狭い車内で振るって良い力では到底ない。パワーもスケールも間違っている。
ラトローが立ち続けられているのは、彼にはまだ切り札があったからである。
無意識に伸びた手は、フルゴウルから頂戴した金の筺を掴んでいた。
彼は筺を取り出し、その目映いほどの輝きを見つめる。
グ・ザマヒも、ラトローと彼が取り出した金の筺を見ている。
彼が力を見せつけても会話をせず、キラキラした小さな筺を取り出した。
どうやらまだ何かおもしろい力を見せてくれるのだと、グ・ザマヒもラトローの行動を期待して見守る。
ラトローは筺を握りつぶす。
本来、この筺はここで使って良いものではない。
しかし、ここで使わなければ使う機会自体が間違いなく消え去る。
死あるのみだ。
金色の光が指の間をすり抜けて、周囲に金の光が射した。
ラトローが手を開くと、彼の力を吸いあげて空を飛ぶ鳥が顕現した。
鷲のようだが、その体躯は動物の鷲よりも遙かに大きい。
ラトローがフルゴウルから聞いて予想していたよりもずっと大きく強そうであった。
「これが大鷲アッきゅん! 勝てる! こいつならこの化物に」
名前はふざけているが、見た目と性能はふざけていない。
本来のイベントのボスがこの空を飛ぶ“大鷲アッきゅん”であった。
ユーザーから付いたあだ名が“害鳥AQN”。
列車の上からの戦闘ということで、害鳥が飛んでいるため近距離キャラの攻撃が通らない。
それならと遠距離キャラで戦うのだが、弓はともかく、命中率100%のはずの魔法すら確率で回避するというパッシブスキルをもっている。
必殺技の一つに吹き飛ばしがあり、味方の戦闘メンバーがランダムに強制離脱させられる。しかも一人ではなく一戦闘で最大三人消える。
HPや防御力は低いのでほぼ紙なのだが、食らわなければ何ともないという能力を体現している。
さらにHPが半減すると攻撃パターンが変わり、攻撃が全体攻撃でいっそう激しくなる。
20%を切ったところで二回の全体攻撃+吹き飛ばしというクソ仕様であった。
耐久が紙と言ってもボスなのでそこそこの体力はあり、初心者は半減させたところで全滅することが多い。
上級者でも回避確率と拭き飛ばしがあるため安定はしない。
周回ボスとしては最悪であった。
アクティブユーザーが半減したとも言われている。
あまりにもひどい性能のためか救済策も用意されている。
食堂室でのイベントステージで「ぴちぴちサーモン」を手に入れ使用することで、相手の能力を一定時間封じることができる。
ぴちぴちサーモンを十個ほど集めておくと安定して倒せるので、倒すだけならこれでいける。
ただ、わざわざギミックアイテムを周回して集めなければならないことと、ボス戦を手動でひたすら操作しなければならないことでやはり害鳥というあだ名は避けられない。
グ・ザマヒは現れた大鷲を見て、生まれ育った谷を思い出した。
ダ・グマガ渓谷の近隣でも、昔は同じような鳥がいたのだ。
渓谷側に空への対抗手段が乏しかったことで、大昔はかなりやられていたと聞いている。
しかし、空への対抗策を持つグ・ザマヒが現れてからは、やられるのは鳥側になった。
今では渓谷の近くに飛んでこず、彼自身もつまらないと感じていたところだ。
「已経久了」
彼は腕を大きく振るう。
久々に飛ぶ相手と戦えるので、やる気に満ちあふれていた。
相手が数体なら、家族たちとの連携が必要だが一体なら一人で十分である。
むしろ一人の方が楽しめるというものだ。
彼は手に、彼の力を集中させる。周囲の地面をえぐり取るイメージだ。
社長が走行する傍らの地面が見えないシャベルで掬い取られるように空へ浮いた。
抉られた土は圧縮され塊となって、グ・ザマヒの横を浮き従っている。両手分で二つほど左右に浮いている。
飛んでいようと攻撃してくるときは接近するものだ。
仮に空から魔法を使ってくるとしても、使う瞬間は動きが単調になる。そこを狙う。
斯くして大鷲アッきゅんは特に考えもなく突撃してきた。
いちおうゲーム内と違って知能はあるのだが、グ・ザマヒの脅威を低く見積もっている。
突撃してきた大鷲にグ・ザマヒは土塊をまずは一つ投げつける。
大鷲アッきゅんは、害鳥自慢の回避ムーブで土塊をひらりと避けた。
鳥があの程度なら避けることはグ・ザマヒも予想している。
大切なのは一つ目の土塊で視界を奪うことと、どちらに避けるか見極めることだ。
鳥が避けた方向を見極め、そちらに彼の全力で岩を投げつけた。
岩が彼の力に耐えきれず、途中でボロボロと崩れてしまったが一部が回避後の大鷲にぶつかった。
大鷲は土塊の直撃ダメージに加え、地面に落ちてからの墜落ダメージを受ける。
これで倒しきれれば問題なかったのだが、大鷲もボスである。
HPがじゃっかん残り、行動パターンが変化した。
大鷲は地面を残りの力で飛び上がり、魔法を行使する。
グ・ザマヒの車両に二本の竜巻が襲いかかった。
「うわあああああぁああ!」
乗っていた傭兵たちが叫び声とともに、暴風によって空にへ飛び上がっていく。
グ・ザマヒは彼の力を用いて、自らと足場の車両を押さえつけた。
二本の竜巻が去った後は、息つく間もなく吹き飛ばしがおこなわれた。
これもグ・ザマヒと車両は無事だが、他の者は全て飛ばされ、そのまま地面に叩きつけられて死んだ。
攻撃が落ち着いたところで、グ・ザマヒは土塊を作り上げるのだが、大鷲も彼の脅威を学習した。
車両には近寄らず、遠距離から隙の小さい魔法でチクチクと攻撃する方向に移った。
これなら土塊を飛ばしてきても距離があるため回避が間に合う。
さらに土塊がグ・ザマヒの力についてこれず空中で分解する点もあり、まともな攻撃にならない。
状況は彼が不利であった。
近づいてくれば、土塊を使わずともグ・ザマヒは力により地面に叩きつけられる。
しかし力の作用が、距離が開くほど大きく弱まってしまうので距離を保たれると落とすことも難しい。
やはり物をぶつけるしかない。
そうすると土塊では駄目だ。崩れるため大きくえぐり取ることも難しく、彼の力に耐えきれない。
彼は自らの足下を見た。
一つ頷いて、天井をなくした車両から一足飛びで先頭の機関車両の屋根に移る。
「ひぃ!」
今も相変わらず最先端にいた機関士のビッツが天井に乗り移ってきた何かに悲鳴を上げた。
先ほどから轟音が鳴り響いたり、凄まじい揺れが起きたり、後部車両への動力供給ができなくなったりで生きた心地がしなかった。
必死に制御盤と戦って後部車両を見ていないのだが、まさかほぼ全ての車両がなくなっているとは思っていない。
そして、唯一動力の供給ができていた二号車も今まさに反応が消えてしまう。
「何が起きてるんだよぉ……」
現状を知りたい思いと、知っては生きていられなくなるという思いが争っている。
どちらかと言えば、このまま後部車両のことを考えず、関係も断ち切り、線路に沿ってまっすぐ進んで、無事におうちに帰りたいというのが本音である。
グ・ザマヒは第二号車を彼の戦技により潰していく。
球体ではなく、鏃のように先端は尖らせ、尻の部分は平坦にした。
限りなく圧縮した第二号車は、奇しくもこの世界には存在しない弾丸のようになっている。
大鷲はグ・ザマヒが何かをやっていると思ったが、行動パターンは変えず遠距離から攻撃することにした。
何かが飛んできたとしても、この距離であれば回避が間に合う。
「ひぃ! ひっ! ふぃぃ!」
大鷲は竜巻をまたしても二本発生させ、彼の立つ車両を襲わせる。
ビッツはすぐ横に現れた竜巻に声をあげ、身を縮こまらせた。
グ・ザマヒはまさにこの瞬間を待っていた。
大鷲が魔法の発動により、その体の動きは単調になっている。
弾丸は投げ飛ばさない。
彼は戦技の力を二つの方向に分けた。
一つは弾丸の位置を支え、飛ぶ方向を固定する筒状の力。
もう一つは、弾丸を全力で大鷲へと撃ち放つための力である。
「撃発!」
彼は弾丸の尻を、戦技を込めた全力の拳で殴り飛ばした。
大鷲はグ・ザマヒが力を使った瞬間を目撃し、回避に移るべく弾丸を睨んだ。
睨んだはずの弾丸は消え去り、大鷲の視界が大きくぶれた。
大鷲の認識できる速さを上回る速度で、弾丸は大鷲の首を撃ち貫いていた。
大鷲は何が起きたかもわからないまま、飛ぶ力も制御できず地面に近づいていく。
そのまま全身を地面に擦らせて、光となって消滅した。
大鷲の消滅を確認したグ・ザマヒは勝利の咆哮を上げた。
機関車両を大きく震わせ、本来ならその雄叫びは誰が何に勝ったのかを広く知らしめることとなる。
ただ、それを目撃している存在はいないし、聞いている者も何が起きているのかさっぱりだった。
「……もう、やだ。おうちに帰りたい。ママの作ったあったかいスープが飲みたいよ」
ビッツは心からの声を漏らした。
視界が涙で潤んできている。
彼は、ここが異世界だともわかっていない。
彼が家に帰ることはもうないのだ。
―― ―― ――
場所はまたしても泡の列車に戻って木村である。
木村は自分の部屋でアコニトを介抱していた。
「うぅ、ぐるじぃ。いだいぃ」
アコニトは料理の毒で完全にやられてしまった。
ひととおり食べたものを吐いて、下痢をして尻からも出せるものを出し切った。
それでも嘔吐は残り、胃腸炎か何かが残っている。
さらには全身に何らかの痛みが残っているようでベッドでぐったりとしていた。
ハッパをキメてから精神が悪い方にぶれることはたまにある。
しかし、今回のように素の状態で弱っているのを見るのは初めてだった。
いつもの余裕な態度がぼろぼろに崩れ、「ぼうやぁ」と弱々しい声で木村を呼んでいる。
木村は新たな感情に目覚めてしまった。今のアコニトが可愛らしくて、胸がドキドキしている。
普段は気持ち悪く笑う邪神とか、余裕ぶった老害、リアクション芸人と考えているが、今のアコニトはまるで女の子のようだ。
「アコニト。ここにいるからね」
「うぅ」
彼女の喉から出てくるか細い声が木村をさらに刺激する。
普段とのギャップが、木村の新たに発見された癖をグイグイと攻め立てる。
木村も自らがいけない気持ちになっていく自覚があった。あのアコニトが可愛くみえて仕方がない。
木村の膝を枕にして、うんうんと弱々しく唸っている。
そんな彼の目の前にポンと音を立てて箱が現れた。
前にも同じ箱を見たことがある。
宝箱であった。
「なんで宝箱が?」
本当になぜ急に宝箱が出てきたのかわからない。
膝に頭を乗せさせていたアコニトをゆっくりと、普通の枕に移し、宝箱を開ける。
中には、前回と同様に10連チケットやその他のアイテムが大量に入っていた。
「キィムラァ、良いか?」
おっさんの声が聞こえた。
扉の前にいるようだ。
「どうぞ」
邪魔するぞと入ってきたおっさんが、開いている宝箱を見て一つ頷いた。
木村はおっさんの言葉を待つ。
「ボスがやられたようだ。報酬はすでに受け取っているな」
「何が起きたの?」
「わからない。何か、声が聞こえた気がしたぞ」
木村にはまったく聞こえなかった。
彼が聞こえていたのはアコニトの弱り切った可愛い声だけである。
「とりあえず、今できることもないからもうちょっと待とうか」
「そうだな。準備は万全にしておくんだぞ」
「うん」
相づちは打ったものの、アコニトがご覧の有様である。
「おい、女狐。早く体調を戻すんだぞ」
そんな無茶な、と木村は思う。
欲を言えばしばらくこのままにしておいて欲しい。
もうちょっとだけこの状態のアコニトを堪能したい気持ちが木村にはあった。
しかし、ボスがやられたことは事実なので、このままにしておくわけにもいかない。
何が起こるのかは木村にもわからなかった。
「薬がないか聞いてくる」
木村がおっさんの横を通る。
「ぎもぢわるぃ。風にあだりたぃ」
アコニトの囁きが聞こえた。
この声を近くで聞くと耳がぞわぞわする。
側で聴きたい気持ちはあるが、やはり体調は治してあげるべきだろう。
「おっさん、アコニトをちょっと任せる」
「ああ、任せておけ」
「うぐぅ……、楽になりたいぞぉ」
木村が薬をもらいに行くべく、体を扉にむけた。
扉が開くと同時に彼の背後から風を感じる。
列車の走行音も大きく聞こえた。
「ぅ? なぁ。やめぇぁっ……」
声が聞こえたが、すぐに小さくなって消える。
何だろうと木村がおっさんたちを振り返ると窓が大きく開いていた。
ベッドにアコニトの姿はない。
カーテンが風にパタパタと大きく揺られている。
「――え?」
木村も唖然とその光景を見た。
おっさんだけがいる。アコニトはどこにもいない。
「え?」
二回目の「え?」が出た。
説明を求めておっさんを見る。
「風に当たりたいというからな。望みどおり楽にしてやったぞ。薬はもう必要ないな」
おっさんは親指をあげて、良しと示した。
何も良くない。木村は窓に駆け寄り、頭を出して後ろを見る。
アコニト巻き上げたであろう土煙が空を舞っていた。
やはり彼女の姿はもうない。
「キィムラァ、あまり体を乗り出すと危ないぞ」
おっさんに体を引っ張られ、木村は窓から離れた。
すぐにおっさんが窓を閉めて部屋は静かになる。
「儂ィ! 復活ッ! やはり健康が第一よのぉ!」
少ししてから元気な声が聞こえてきた。
「坊やぁ、快気祝いだぁ! 茶を飲みに行くぞぉ!」
「はぁ……」
喉元過ぎればなんとやらだ。
いつもの阿呆なアコニトに戻り、木村は思わずため息を吐いた。
仕方なく席を立ち、アコニトと一緒に先頭車両側のラウンジに移動していく。
「坊やは良い子だのぉ」
弱っていたときの記憶は残っているようで、アコニトはお返しのようにやたらと木村の頭を撫でてくる。
まぁ、これはこれで悪くないなと木村は今の状況を楽しむことにした。




