捕食者への道
カマキリは昆虫や時にはカエルなども捕らえて食べる捕食者だが、ハリガネムシに寄生されると、体を乗っ取られハリガネムシの産卵のため水辺におびき寄せられ、溺死する。
村木楓は道端で身体を売って生活していたが、妊娠に気づき病院に行った時、すでに胎児は堕胎できる時期をすぎていた。客の誰かが避妊に失敗したのだと舌打ちしたが生むしかなく、数か月後、女の子を出産した。村木の木から連想して葉と書いて「よう」と名付けた。産院では新米ママたちの子育て教室があり、楓は乳がよく出るタイプだったのですぐに胸が張って痛くなった。助産師の指導がなくても楓は乳を吸わせることは上手だった。しかも乳を飲ませている間はどんなに食べても太らず体形を維持するのがビックリするほど楽だったので、楓はおむつ替えなどは苦手だったが少なくとも赤ん坊を飢えさせることはなかった。
しかもこの時期、楓には男ができた。男は生活のため出産後三ヶ月から売春の仕事を再開した楓の客だったが、楓が仕事中に体調を崩して倒れたとき、楓を家まで送ってきて、そのまま居ついてしまったのだ。しかしこの男は赤ん坊の葉をみると意外に手慣れた様子でオムツを換えたり、あやしたりした。そして楓に赤ん坊を置いて売春するのは危ない、生活費は自分がなんとかするから仕事をやめるように諭した。そして言ったとおりに週に3万ほどを楓に手渡し、アパートの家賃を払った。思えば子供時代を含めて、このころが楓にとって一番幸せな時代だった。葉もオムツかぶれもなく、放置されることもなく無事に育っていった。2年近くがすぎ、楓が自分たちの食事と離乳食を作っているとチャイムが鳴り、ドアを開けると見知らぬ男が3人家に入ってきた。驚く楓を尻目に男たちはくつろいでいた楓の男を無理やり立たせると言った。。
「会社の金を横領をしているだろう、すぐ返せ、返せなければ警察をよぶ」
楓の男は横領した金で楓の生活費を払っていたのだ。そのうえ男には妻子がいた。独身だと思っていた楓は騙されたと思った。3人の男に囲まれ、うなだれている男にむしゃぶりついて「嘘つき」と罵ったが男の一人にすぐ抑えられ金を返すように言われた。男は会社から5千万円以上の横領をしていた。金は楓が隠しもっていると思われたのだった。楓は仰天した。生活費を貰っているとはいえつつましい生活だった。そんな大金は見たこともない。後でわかったことだが男はパチンコや競馬にほとんど費やし残金はなかった。それがわかるまで会社の男たちに家探しされた上、男の妻からは罵られ慰謝料請求するとまで言われた。もちろん払う金などない。楓は荒れた。もうどうでもよくなり前の生活に戻った。葉はオムツもとれぬまま1日中放置され食物も数日もらえないこともあった。男の方はというと老いた両親が家を売り、老後の資金を返済に充てたことで警察沙汰は免れ妻子のもとに帰って行った。もちろん会社はクビになったが楓にはもうどうでもいいことだった。
葉はオムツをされることもなく、垂れ流しで生きた。食べ物は貰える日もあれば、もらえない日もあり、いつも腹をすかしていた。そんな葉に楓は自分の機嫌によって突然切れると
「汚い、犬猫だって垂れ流しなんてしないよ、お前はバカだ。」
といって冷たいシャワーを浴びせた。トイレトレーニングをされたこともない葉が自分でトイレに行けるはずもなく、すべて楓のせいなのに葉はバカだと罵られ、殴る蹴るなどの暴行がおこなわれた。一番ひどい暴行は葉の右手の親指を折ったことである。
葉の記憶では泣いていると楓が近づいてきて葉の親指をねじって折った。葉は痛みよりビックリして泣き止むと親指の皮膚が切れて骨が飛び出していた。さすがに楓は医者に連れて行き処置してもらったが腕の悪い医者だったのだろう。葉の親指は指先の感覚はあるものの外側にねじれ動かなくなった。この出来事が葉の人生の最初の記憶となり、その後も彼女を苦しめることになる。5歳になった時、葉の体重は平均の半分程度で言葉もバカとか汚いとかの罵りのことばしか喋れなかった。楓は売春を続けていたが客の一人と温泉旅行に行く予定を立て、珍しく機嫌がよく葉に食べ物を与え、お菓子を買ってやった。男が迎えに来た時、葉は突然吐いた。
「嫌だ、汚い」
楓は言った。男は
「どうすんだよ、旅行」というと
「こういう時に限って、駄目な子だよ、あんたは」
と楓は葉に言い、吐しゃ物を片付けることもなく、言い放った。
「どうせ仮病よ。いいから行こう。どうせ置いていくんだし、自分でなんとかするわよ」
「ええ、大丈夫なのかよ」
と口だけ心配する男は楓と一緒に温泉旅行に出かけてしまった。
葉は一人残され、自分で吐しゃ物をティッシュペーパーで拭くとそのまま横になった。体が熱かった。しばらく眠っては吐き気で目が覚め、吐くことを繰り返した。そのうち吐くものもなくなり胃液しかでなくなった。もう吐しゃ物を拭く気力もなく、自分の吐いたものにまみれながら意識を失った。次に目が覚めた時、自分の腕から白い虫がわいているのが見えた。この虫は自分を食べているのかなと思いながら葉はまた意識を失った。
楓が旅行に出かけてから5日目に大家が家賃の督促に来た。楓は家賃を2か月滞納していたため3ヶ月目にこれ以上滞納するようであれば退去を告げるために足を運んだのだった。ポストからあふれるチラシを見て大家は顔をしかめた。夜逃げされたと思ったのである。鍵を開けて中に入ると仰天した。汚物と吐しゃ物のひどい匂い、部屋の隅にハエのたかった子供の死体があった。すぐに警察を呼ぶと警官は子供がまだ生きていると叫び、葉は救急搬送された。医者が救命処置を行い葉は意識を取り戻した。医者が腕を切り開き蛆を1匹づつ取り出すのを眺めていた。痛みは感じなかった。生きているという気もしなかった。楓は帰宅したところで警察に逮捕された。保護責任者遺棄罪で1年の実刑を受けた。
回復した葉は受け入れ先がなく病院にとどまっていた。5歳でオムツも取れず、罵りの言葉しか言わずコミュニケーションが取れない葉は精神遅滞とされ受け入れてくれる養護施設や里親がなかったのである。
その中で本来は乳児院である聖母の園が受け入れてくれることになり葉は聖母の園で生活することになった。施設長でもあるマザーアンナは葉にあうと目線をあわせにっこりと微笑んだ。そして色々と園についての説明を行い葉が夜眠れずにいるのを知ると子守唄を歌い寝かしつけた。驚いたことに葉はその子守唄のメロディーを何日か聞くと覚えてマザーアンナに繰り返すようになった。マザーアンナは葉のオムツをとりトイレトレーニングをした。自分がトイレをしている姿を見せ、人はトイレで排泄することを教えた。葉はすぐにトイレで排泄するようになった。葉は児童相談所が言ったような精神遅滞ではなく教えられていないからできないだけで本当は聡明な子だったのである。ただ感情は乏しく喜び、哀しみ、楽しみなどは表すことはなく怒りだけが葉の感情だった。時々、ひどく怒り罵声をあびせる少女を他の修道女は恐れていたがマザーアンナだけが葉の怒りを理解し、なだめてくれるのだった。
そうして1年が過ぎたころ葉は6歳児の平均的な身長、体重になり、片言ながら話をしトイレの失敗もなく、手づかみで食物を食べるのでなく、みなと同じ様ようにテーブルについて左手で箸を使って、右手で箸を持つのは親指が自由にならない葉には難しすぎた、食べられるようになった。葉が荒れることもなく平安にすごせるようになったころ突然、刑期をおえた楓が葉を引き取りにきた。葉は嫌がり、マザーアンナも反対したが実の母親が願い出れば抵抗はできなかった。頼りの児童相談所も親権のある楓の味方だった。児童相談所曰く子供を愛さない親はいないのだから実母のもとで暮らすのは当然のことだった。
別れの日、マザーアンナは葉と手をつないで聖母の園を歩きながら
「ここはあなたの家だから、困ったときはいつでも帰っておいで、いつでも扉は開いているよ」
と言った。
葉はまた楓と暮らすようになった。楓は刑務所暮らしで心を入れ替えたわけもなく、自分だって一人で何日も留守番させられたけど死にそうになったことなどなかった、葉が大げさなおかげで自分は前科持ちになったと思っていた。葉を引き取ったのは児童手当目当てであった。楓は生活保護を受け、売春を再開し、葉は放置される日々が帰ってきた。葉は冷蔵庫をあさり家に散らかった菓子などを食べ飢えをしのいだ。楓の客の男が家に居つくようになると二人で葉のことを嘲り、罵り、殴る、蹴るなどの暴力が始まった。葉の鳴き声や男女の怒鳴り声は近所迷惑になっていたが誰も通報するものはなかった。
その日、楓と男は夜遅くまで酒を飲み、上機嫌で大騒ぎして明け方ねむりについた。葉は大騒ぎしている二人の姿を曲がった親指を左手でなでながら無表情に見ていた。二人が眠りにつくと台所から包丁を取り出して男の首に突き刺した。葉には天井まで血が噴き出したように見え、頭から血をあびた。男は叫ぼうとしたが噴き出る血でゴボゴボと言葉にならない。男が動けないのを見るとすぐに葉は楓の首をさした。
今度は血で手が滑り包丁をおとした、思ったより深くさせなかったようで楓は喉から血を吹き出しながらめざめると包丁をひろい葉に迫ってきた。何か言っているが葉には意味がわからない。葉は振り返ることなくアパートのドアから外へ逃げた。つかまれば殺される、それはわかっていた。どこをどう走ったか、覚えていないのだが気づけば聖母の園の前にいた。門は約束通り開いていた。ちょうど夜が明けるころ、祈りを終えるとマザーアンナは部屋から外に出た。門のそばに何かどす黒く濡れた物がいた。一瞬、邪悪な物が侵入しようとしていると総毛だった。次の瞬間、そのものが呻いた。声を聴いた途端マザーアンナには葉だと分かった。駆け寄ると頭から血を流している。小さく叫ぶとすぐに抱き上げ自室につれていきタオルで血をぬぐった。マザーアンナは葉が怪我をしておりどこからか出血していると思ったのだ。拭いていくと大きな怪我はなく手に擦過傷がいくつかあるだけだった。ホッと一安心したが、ではこの血は何なのだ?なにか大きな事故に巻き込まれたに違いないとマザーアンナは思った。楓とでかけて交通事故にでもあったか?それが最初に思ったことだった。警察にすぐ知らせるべきだったが、目の前で血にまみれ寒さで震えている幼子をそのままにはできなかった。まず風呂にいれ体を綺麗にしてやると葉の体は痣だらけだった。マザーアンナは葉が楓に虐待を受けていたのを知り胸が痛くなった。新しい服に着替えさせ、手の怪我を手当てしてやると自分のベッドに寝かせた。眠りにつくまでそばにいると、それから警察に連絡した。そのころ楓の自宅では朝の散歩に出た老人がドアが開け放たれた家の中を覗いた。部屋中、天井まで血だらけの中、男と女の死体があった。男は喉がぱっくりと開き、女は手に包丁を持ち玄関の方をむいてうつ伏せで血だまりの中に倒れていた。
警察が来て調べたが、まさか6歳の女児が自分の母親と男を刺し殺すとは、それにそれほどの力があるとは誰も思わず、近所の聞き込みから夫婦による大声が度々騒音になっていたこと、楓が包丁を持っていたことから夫婦喧嘩の果てによる無理心中という結果がでた。
マザーアンナは葉が二人の殺し合いを目撃し、心に傷を負ったと信じ、あの夜、聖母の園に還ってきたのは神のお導きと信じた。世間がよく言う、子を愛していない親はいないとように、親を愛していない子もまたいないという思い込みのため、マザーアンナも葉が母親と男を殺したとは疑わなかった。親のいなくなった葉の受け入れ先だが当然、聖母の園が受け入れた。マザーアンナは自分を頼ってきた子を見捨てることはできなかった。葉は乳児院の対象年齢をすぎても修道女見習いとして聖母の園にとどまった。
秋津太郎は日々の業務をこなしていた。大川花子の養父母の殺人事件の捜査に本当は加わりたかったが、所轄が違うため資料だけを渡すと圏外に置かれた。テレビは新しい連続バラバラ死体の事件でもちきりで、大川花子の事件は忘れてしまったようだ。SNSも同様だった。秋津にしても日々の捜査で手一杯で気にはなっていたが知り合いの刑事に探りを入れるようなことはしていなかった。
共犯の新田明と真鍋太一はともに保釈中で裁判を待っている。秋津にできることはなにもないと思われたが新田明が事故死した。保釈中にコンビニまで出歩き、明け方、大通りでトラックに轢かれたのである。トラックの車載カメラとコンビニの防犯カメラを解析した結果、新田明は黒いスウェットスーツの男に道路に突き飛ばされていた。男の顔はフードを目深にかぶっていてどの角度からもカメラには映っていなかった。男は175㎝の新田明より頭一つ大きく、がっしりとして胸板が暑く格闘家のような体つきだった。付近の住人に聞き込みしても男を知っているものはいなかった。大川花子の事件の容疑者の4人のうち3人が公判前に殺害された。新田明は秋津の所轄に住んでおり、秋津と佐藤も大川花子の養父母殺害事件の捜査に加わることになった。
大川花子の養父母の殺害事件の捜査は難航していた。多数の報道陣が家を包囲している中、犯人はどうやって逃げたのか?当時の報道陣によると家の中に入ることは、それほど気にしていなかったが出てくる場合は絶対に報道陣の目を逃れることは出来ずインタビューされたはずだという。そして誰も出てきていないという。
そんな密室殺人事件のようなこと、テレビや小説ではあるまいし、なにか見落としがあるはずだと秋津は思った。そこで佐藤とともに各テレビ局から事件関連のデータを提出してもらいすべて見直した。目のつかれる作業で二人は朝から夜まで何度も見直した。事件現場が映っているところは死体にハエがたかり蛆がわいている様子に吐き気がこみ上げたが何度も見ているうちに慣れた。何度目かの見直しで佐藤が黒いフードの男を見つけた。オンエアはされていない部分であり、報道陣が現場から引き揚げていく画面で一瞬テレビクルーが映りその中に黒いフードの男、他のクルーより頭一つ大きく、コンビニのカメラに写っているのと同じと思われる男をみつけた。すべてのテレビ局に男の写真を見せ、どこのクルーでもないことを確認した。両方の事件は同一犯の可能性が高まった。
このフードの男は二人の人間を殺した後、その死体が腐り蛆がわいてくるのを見ながら数日間過ごしていたのだ。おそらく蛆がわいている死体を見ながら飲み食いし、記者がなだれ込んでくるのをじっと待っていたのだろう。最初に入った警察官からは姿を隠し報道陣に紛れて現場から逃走した。相当に大胆だが運頼みともいえる反抗だ。食べ物のゴミは分別され、きれいに片付いていた。冷蔵庫などから犯人が何かを出したべた場合のゴミは大抵、現場に散らかっている。それがなかったために殺害後すぐ犯人は逃走したと思われたが、実際は自分が殺した男女が腐って、蛆がわいているのを見ながら、飲み食いし、ゴミを分別して捨て、報道陣が入って来るのを冷静に待ったということだ。秋津は背筋に冷水を浴びせられたようにゾッとした。犯人の神経が信じられなかった。人が腐って形を変えていく中、腐敗臭もひどい中、冷静でいられる神経、現場からも特に焦る様子がなく立ち去っていく神経が信じられなかった。しかも犯人は頭髪もDNAも残していなかった。何日もいれば髪の毛1本くらい落ちそうなものだが何の痕跡もない。新田明の事件がなければフードの男として目を付けられることもなく、密室殺人で完結していたかもしれない。秋津は第一の殺人の計画性と根気強さに舌を巻いた。この男がどういう人間なのかさっぱり理解できなかった。佐藤も同じことを考えていたようで
「秋津さん、この男は何を考えているのでしょうか?現場に留まって警官に見つかったらとか、食べ物がなくなるまで誰も踏み込んでこなかったらとか考えなかったんでしょうか?」と言った。
「俺もこいつのことはなんだか理解できない。計画性があるのか、ないのか?我慢強いのか、ゆきあたりばったりなのか?自信があるのか、捨て鉢なのか?さっぱりわからん」
佐藤がまたいう
「最初の田中夫婦の殺害はかなり計画性を感じるのですが、2番目のトラックに突き飛ばして殺したのなんて、偶然見かけたから殺したみたいですよね。なんでコンビニの前なんて防犯カメラに映りたやすい場所で殺したのかな?」
秋津が言う。
「そうだな、2件目の殺人がなければフードの男としてマークされることもないわけだし、それに1件目が拷問した後で殺してるのに、2件目はやけにあっさり殺してる。なんか変だな、もしかしたら共犯がいるのか?それにトラックに突き飛ばした後、この男は徒歩で逃走してる。住宅地で街灯の防犯カメラがない地点だったので足取りは追えなかったし、聞き込みでもわからなかった。どこに行ったんだ?消えたみたいじゃないか?消えたと言えば田中の事件の後も逃走経路がわからない。車か自転車を近くに置いてあったのか?今のところ不審な車は見つからないし、わからないことがありすぎる」
2人は頭を抱えた。
太田久は都内の開業医の息子だった。子供のころから将来は医者になると決められ勉強漬けの日を送って育った。幸い久は学校の勉強はよく出来、第一志望の中高一貫校に合格した。その学校ではクラスメートになじめず暗い、オタクなどと呼ばれ、友達もできず3年間をすごした。成績も高校になったころから中の下程度におち、第一志望の大学には落ちた。両親も久もやればできるのだと信じていたので1浪して再び同じ大学にチャレンジしたが不合格、久の偏差値にふさわしい3流大学の医学部に何とか滑り込んだ。
そのころから久は両親ともクラスメートとも話をせず、独り言が多くなった。学校には行っているものの成績は留年ギリギリ、家では部屋にこもりがちで母親に部屋に食事を運ばせるようになった。医学部4年になった時、久の父が急死した。医院をたたみ、久は一人っ子だったので母親とふたりの生活が始まった。次第に学校を休みがちになり2年の休学をへて中退した。父親の遺産で親子二人が生活するには十分だったので母親は働きでることもなく、久は部屋で引きこもりとなった。
その頃から太田家の周りの野良猫がいなくなり始めた。
渡辺優美は6歳の誕生日に両親と車で遊園地にでかけた。優美の祖父母は父方、母方ともに亡くなっていたが一人っ子ということもあり十分に両親からの愛情を受けて育った。優美という名に両親が込めた思い、優しく、美しい子のとおりに育っていた。遊園地の帰り道、優美は疲れたのか気分が悪く吐きそうになった。
「お母さん、なんか吐きそう」
と優美がいうと母親は助手席から後ろを振り向いて心配そうに手を伸ばした。
「あなた、どこか止められるところに車を停めて」
と言った瞬間、前のトラックがスピンした。荷台から鉄柱が優美たちの車めがけて荷崩れをおこした。よけきれる事故ではなかった。鉄柱は運転席の優美の父親の顔をつぶし肉片にした。即死だった。母親は胸部に鉄柱がささった。即死ではなかった顔は優美の方に向けて、手を伸ばして優美に触ろうとした。娘の無事を確かめたかったのだ。だが優美は差し出された手をつなぐことはできなかった。一瞬で姿を変えた両親に気持ちが追いつかなかったのだ。母親は何か言いたげに口を開け絶命した。優美の時間は止まった。優美は奇跡的に軽症で病院で検査を受けて、体の方はいつでも退院してよいほど回復した。しかし心が壊れてしまい何もしゃべらず、目は開けていても何も見ていないようだった。トイレにも行けずオムツをされ、食事もとれなかった。親戚もおらず引き取り先は見つからなかった。このまま衰弱して死ぬのも待つだけかと関係者は思ったが、メディカルソーシャルワーカーが似たような子供、しゃべることもなく、垂れ流しの精神遅滞と思われた少女に奇跡をおこした修道女がいたことを思い出した。あの修道女ならもしかして、なんとかしてくれるのではとマザーアンナに連絡を取った。そうして優美もまた葉と同じように聖母の園に引き取られることになった。
優美が聖母の園に引き取られるたとき村木葉は7歳、優美より1歳年上で母親を殺してから1年近くたっていた。マザーアンナは葉に優美のことを妹のように優しく守ってやるように教えた。そして優美もまたマザーアンナの手厚い看護のおかげで徐々に自分の身の周りのことができるようになり、話ができるようになった。そして葉と同じ様に修道女見習いとして乳児院の対象年齢が過ぎても聖母の園に留まった。
表向きは修道女見習いとして聖母の園で暮らす二人だがマザーアンナは18歳になったら修道女になるのか園を出て自立するのか選ばせようと思っていた。だから神の教えを押し付けるような教育はせず、なるべく一般家庭の子供と同じ様に育てた。修道女は質素な生活で食事なども制限されるが、園の子供達は二人に限らず育ち盛りなのだからと食べたいだけ食べさせた。葉は7歳になるころには他の7歳児の1.5倍位の身長になり、よく見ると他の子より髪は薄茶色で、瞳は青みがかった薄茶色になった。マザーアンナは葉の父親はどこか異国の人だったのかもしれないと思った。
葉は優美の面倒をよく見た。学年は違うが学校でも休み時間は二人でいることが多かった。一度こんなことがあった。優美がほとんど話さないのを見てクラスの男の子がいじめていた。その日は、優美が大切にしている掌に乗る程度の熊のマスコットの頭をいじめっ子がもってふりまわしていた。それは優美が母親から貰った数少ない宝物でとても大事にしているものだった。優美はなきながら返してくれるよう頼んでいたが、いじめっ子は優美の目の前で振り回し手の届かない高さに吊り下げ笑っていた。葉はそれを見つけると無言でいじめっ子の頭をつかむと体をもちあげた。葉は他の子より背が高いだけでなく力も強かった。
いじめっ子の頭をもちあげてクマのマスコットと同じ様に吊り下げたのである。幸い大事にはならずいじめっ子が大泣きしてマスコットは優美のもとに戻った。教師は一方的に葉の暴力を叱ったがいじめっ子は幸いだったのである。もしクマの頭をもぎ取っていれば葉はいじめっ子の頭をもぎ取っていただろう。葉は優美だけでなく弱いものを強いものがいじめることを許さなかった。厳しい暴力の制裁でいじめをやめさせた。葉のおかげで学校からいじめがなくなったくらいだったが、マザーアンナをそのたびに学校に呼び出され注意を受けた。一方いじめっ子の方は何のお咎めもなしだった。マザーアンナは葉のいじめを許さないことによる制裁を容認し、葉を叱ることはなかった。ただ暴力をふるうことはいけないことだと教えようとした。しかし葉は何事も暴力で解決した。それしか方法を知らなかった。葉は昔の母親にただ叩かれ蹴られ嘲られたとき耐えるしかしかなかった弱い自分を憎んでいた。だから母やその男のように弱い者をいじめる奴は許さなかった。葉は強くなりたいといつも思っていた。いじめられる子をみているとなぜか自分の親指を折られる場面が目の前に浮かんだ。頭は真っ白になり、きづけばいじめっ子を殴りつけていた。誰も気づかなかったが先生が葉を制ししていじめっ子から引き離すと葉はいつも右手の親指を撫でていた。
マザーアンナは学校に呼び出されるたびに葉と優美を自室に呼ぶと丁寧に理由を聞いた。理由がわかると修道女や信者であれば聖書の言葉を使って後悔をうながすのだが子供の二人には聖書を押し付けるようなことはしたくなかった。ただマザーアンナが憧れているスペインのサンチャゴへの巡礼の話をした。その道は険しく昔は途中で亡くなる人もいたぐらいだが自分と向き合うことができる巡礼の道で達成した時は本当の自分に会えるのだと話し、いつかはマザーアンナも行きたいと思っていることなどを話した。子供の二人にはマザーアンナ言おうとしていることはよくわからなかったが大好きなマザーアンナがそれほどに憧れている場所であるなら自分たちも行きたいと思い、理不尽に先生に怒られた嫌な思いや、暴力をふるった時の頭が真っ白になる気持ちが和らいでいった。
警察は聞きこみ捜査を続けていた。男の異常性から考えると普通の学生や勤め人とは思えなかったので、引きこもりや精神障碍者を中心に探し続けた。10代から40代位の独身者までは範囲を広げて捜査をしたがめぼしい容疑者はいなかった。
秋津と佐藤が聞き込みをしていると偶然、聖母の園の前を通りかかった。無性にマザーアンナに会いたくなり、前回の大川花子の事件の報告を兼ねて聖母の園を訪問することにした。園に入りマザーアンナに訪問をつげると若くて小柄なシスタールチアという修道女が代わりに会ってくれた。シスタールチアは秋津に言った。
「マザーアンナは体調を崩して寝込んでおりますので代わりに私でよろしければお話をお伺いします」
秋津は恐縮した。
「いえ、いろいろとご協力頂いたお礼かねて大川花子ちゃんの事件のご報告をしようと思っただけですので突然押しかけて申し訳ありません。マザーアンナはお加減が悪いのですか?」
「お年のせいで疲れが出たのでしょう?しばらく静養すれば大丈夫だと思います。大川花子ちゃんの事件のご担当でしたか。花子ちゃんは赤ちゃんの時、私もミルクを上げたり抱いてあやしたりしたのに、あんなに早く召されてしまって・・・」
「シスターが花子ちゃんの担当だったのですか?」
秋津が聞くとシスターは涙をこらえながら
「担当というか、こちらの園では乳児にミルクを飲ませ忘れたりすることがないように2、3人を一人の修道女が面倒を見まして記録をつけるようにしています。それが私だったのです」
秋津と佐藤はシスターの涙を見ると居心地がわるく早々に園を退去した。園をでたところで秋津が言った。
「あのシスターどこかで会ったような気がするな、佐藤、何か思いつかないか?」
佐藤は笑って言った。
「あれ秋津さん、あのシスターがきになるんですか?きれいな人でしたよね。会ったことある気がするなんて口説き文句じゃないですか、相手はシスターですよ。叶わぬ思いですよ」
と茶化すように言った。秋津は苦笑いして話をやめ、二人は聞き込みを続けた。
シスタールチアはマザーアンナに刑事が来たことを報告しに自室を訪問した。マザーアンナはべッドから起き上がって聖書を読んでいたが刑事のことを聞くと顔色を変えて何を聞かれたのかと質問した。なにも聞かれなかったが自分が花子ちゃんの世話をしたことを話したという、と少し落ち着いてベッドに臥せった。シスタールチアは少し変に思ったが何も言わずマザーの部屋から退去した。
太田久の家には地下室があった。亡き父親がレコードを聴く趣味があり、防音設備が施されていた。そこで父親は休みの日、1日中ジャズやクラシック音楽を大音量で聞いていた。トイレも地下に作ってあった。防音設備が施されていようと1階には音が漏れて聞こえていた。かって母親は今日はクラシックの気分なのねと微笑ましく思っていたが、現在は女の悲鳴が漏れ聞こえている。母親は耳をふさいで息子が地下で何をしているのか想像しないようにしていた。
太田久は始めは猫を捕まえては地下室で生きたまま解剖していた。その時は猫の鳴き声が響いていた。解剖した肉は一緒に捕まえていた猫数匹に喰わせた。それを見て
「共食いしやがって、卑しい奴らだ」
と笑っていた。一匹解剖して肉を食わせると次の一匹、そしてまた次の一匹を解剖した。骨は燃えるゴミで出した。猫は捕まえるとき暴れて嚙みつかれたり引っ掻かれたので餌をやっている間に麻酔でねむらせ、解剖台に固定した。麻酔は開業医だった父親の薬が残っていたので使った。初めは麻酔のきいている間に腹を裂き心臓が動いているのをみるだけでゾクゾクして満足した。そして動いている心臓を自分の手で切り取り温かい心臓を手の平に乗せて興奮した。やがて寝かせた猫では興奮しなくなり麻酔が切れるのを待って腹をきりさいた。猫が上げる悲鳴を聞いて久は興奮した。だがやがてそれでは物足らなくなった。
ある日、久は防犯カメラのない住宅地で通りすがりの若い女性を拉致した。麻酔で眠らせバンに押し込めると自宅地下に監禁した。下調べも何もしていない。ただ自宅アパートに帰るため通りかかっただけの不運な女性だった。久は女のバッグから名前や年齢、身元を割り出し女の目が覚めるのを待った。女性は目が覚めた時自分の両手足が縛られ、自由を奪われているのがわかるとパニックになった。大声で叫び、泣いた。久は久しぶりに興奮した。そして女性に言った。
「僕は君を監禁した。体は二日に一回拭いてやる。暴れなければ食事は1日1回もってくる。食後に薬を飲むこと、いい子にしていれば痛いことは何もしない。」
女性は不運な事に一人暮らしだった。家族とは週に1回、何もなければ月に1回程度電話する程度だった。そのため捜索願が出たのは失踪1週間後後、それは電話にもメールにも答えない娘を心配した母親からだった。警察は特に部屋が荒らされていることもなく職場に連絡もなくやすんでいることから失踪として処理し捜査は行われなかった。
捜査が始まったのは拉致から約1か月後、女性の胴体、頭、手足のバラバラ死体が発見されてからだった。2か月後、同一犯の仕業と思われるバラバラ事件が起きた。1回目と同様に胴体、頭、手足がバラバラにされて燃えるゴミとして数か所のゴミ収集所から発見された。連続バラバラ事件として捜査本部が設立され、マスコミも騒ぎだした。
しかし、めぼしい情報もなく捜査が進まないまま、また1か月が過ぎようとしていた。
葉は18歳になった時迷わず修道女になることを選んだ。神を信じたからではない、葉には修道院が家だったからそこから出ていくことは、そして帰ってこれないことは考えられなかったからだ。
優美も18歳になると修道女になることを選んだ。優美は父母の最後のことを思い、マザーアンナに救われたことを神の思し召しと考えたからだった。シスターの1日はお祈りに始まってお祈りで終わる。大体1日5回はお祈りの時間があり、うち1回は礼拝堂で皆で祈り、残りは自室で祈る。他に掃除や食事の支度、、乳児の面倒など、また原則、時給自足な生活のため畑仕事などもあり自由時間はほとんどない。規則正しい生活であり、所作もほとんどが厳しく決められている。持ち物は少なく、自室はいつもきれいに整えられている。ゴミが落ちているようなことがあれば厳しく叱責される。生活の乱れは信仰の乱れと思われた。そんな日々に耐えられず脱落していくものもいたが葉と優美の修業は同時に終わり、葉が21歳、優美が20歳の時晴れてシスターになった。その日から葉はシスターテレサ、優美はシスタールチアと呼ばれるようになった。
秋津たちの捜査は行き詰った。目撃者もなく監視カメラにも男は映っていなかった。忽然と消えたように思えた。SNSやマスコミなども目を通したがどこも今はバラバラ事件の話ばかりだった。首都圏ではあるものの市町村が違うよその事件に秋津も他の捜査員も興味はなかった。秋津がバラバラ事件を詳しく知ったのは監察医の染谷からだった。大川花子の里親の田中夫妻の死体から何か新発見はないか期待して染谷を訪ねたのである。染谷はバラバラ事件の解剖も担当しており、秋津に愚痴をこぼした。
「田中の死体も気持ちの良いものじゃなかったが今度のバラバラ事件はさらに気分が悪くなる。死体の手足の切り口から被害者は生きているうちに手足を切断されて失血性ショック死したものと思われる。しかもさるぐつわを被害者はされていない。声帯が潰れるほど叫んでる。なあ秋津どんなサディストがこんなことするんだ?」
「悲鳴をきくのがすきなんですかね?そうなると犯罪現場は周りに人がいない山奥とかですかね?」
と秋津が答える。よその事件ではあるが同じ刑事としてはやはり気になる。
「今のところゴミ捨て場周辺に監視カメラがなく、犯人の姿が映ってないが、レイプの痕跡もあるし、犯人は男だと断定できる。」と染谷が続ける。
「レイプしてるんですか?DNAはでましたか?」
秋津がたずねると染谷は
「いや、コンドームを使ってる。精液はでないが、今、何かしら痕跡がないかしらべているところだ。被害者に抵抗の後がなく麻酔薬が身体に残っているし注射痕もある。レイプの時は眠らせて、殺す時は叫ばしたようだ。今、麻酔薬や注射の経験があるものを追ってるとことだ。まだマスコミ発表はしていないが遠からず犯人に近づくだろう。胸糞悪い事件だよ。でそっちの事件はどうだ?俺のところに来たということは手詰まりか?」
「はい、田中夫妻のサンプルをもう一度調べて頂けないかと思いまして。」
と秋津がたずねると
「遺体は焼いちまったからサンプルから、何か出ないか?何も出ないな。時間の無駄だ。捜査本部も知っている通り田中武の首は背後から右から左に真一文字に切られていたから、犯人は多分、左ききだ。それと武より身長が高い、多分185cm以上だろう。犯人につながる遺留品は鑑識からも何もなし、髪の毛1本も現場に残さず、遺体からもでなかった。DNAもなしとなると手袋をし防護服でも着て犯行を行ったか?かなり計画性を感じられる。という以外ないな。監視カメラに映った男の映像をテレビで公開してたよな?情報はなにもこなかったのか?」
と染谷が答える。秋津は答える。
「情報自体は何10件とあったのですが、冷やかしや勘違いばかりで役に立つものはないんですよ、手詰まりだな、現場に戻って考えてみます」
と言い、秋津は佐藤と田中の家にやってきた。特殊清掃が終わり、きれいになっている田中家だが犯行後のビデオを見ている2人には不気味なリビングとキッチンである。
「ひゃー秋津さん、蠅が、蠅がとんでます」
佐藤が騒ぐ
「1匹じゃないか。騒ぐな、死体から生まれた奴じゃないさ、今俺たちと一緒に入ってきたんだろう」
と秋津が言って家の中を見回す。二人はキッチンの棚を開いたり、家具のないリビングで犯行を再現してみたりしたが新たな発見はなかった。田中家から新大川近くの捜査本部のある警察署に帰ろうとしてマップで最短距離をカーナビしようとしたところ、秋津は間違って徒歩を押してしまった。徒歩2時間半それをみて秋津がひらめいた。
「佐藤、犯人は車をかくしていたのではなく徒歩で逃げたんじゃないか?」
「人を殺してから歩いてですか?犯人は報道陣がなだれ込むまで相当緊張してますよね、紛れて逃げるときも相応の興奮しているはずですよ。歩いて逃げたら2時間半の間に挙動不審でどこかで捕まってるか、見られて目撃証言がでてきてませんか?」
と佐藤が言う。
「でも俺たちが見たビデオの男は特段、興奮した様子はなかったよな。川沿いに、そうだ、ジョギングを装って走って帰れば目につかないじゃないか?犯行の時はビニール袋をかぶって手足をだせば、返り血もそんなにあびてないだろう。田中武は背後から切られてるしな、伸子は心臓一突きで包丁はささったままだった。多少の血なら黒いスポーツウェアなら目立たない。犯行時刻にあわせて土手を散歩しているものやランナー中心にもう一度聞き込みをしよ・・・」秋津が地図を見ながら言葉をとめる。
「どうしたんですか?秋津さん」
秋津が暗い声で答える
「聖母の園だよ。土手沿いに聖母の園がある。まさか犯人は?」
「嫌だな、秋津さん、シスターやマザーを疑っているんですか?そんな様子なかったじゃないですか?マザーにはこの前会えなかったけど、人を殺すような人たちじゃないでしょう」
と佐藤が言うが秋津は考えこんでしまった。田中夫妻の殺しは明らかに怨恨によるものだ、誰の?大川花子へのレイプと死亡だろう。と考えれば犯人は大川花子に特別な感情を抱くもの、親族か育ての親、実の母親は見つかっていない、8年も前に捨てた子がレイプされて死んだとなった時、自分の子だと分かるだろうか?マスコミで新大川に捨てられた子だと報道されたから多分わかるだろう。だが田中夫妻を拷問までして殺すだろうか?聖母の園ではマザーアンナは名前だけで乳児の時の大川花子を思い出し、シスタールチアは涙ぐんでいた。動機はある。だがフードの男と修道女の接点がつかめなない。これは聖母の園で聴取するしかない。
「聖母の園にむかえ。マザーアンナから聴取する」
秋津は言った。
そのころバラバラ事件の捜査本部では大騒ぎになっていた。ゴミ捨て場から足がでたのである。同日の他の燃えるゴミがすべて調べられ頭と胴体、手が発見された。3人目の被害者の発見である。
マザーアンナは憔悴していた。田中夫妻が惨殺されたとき、シスターテレサは断食の修行を行っており、自室にこもっていた。同時に沈黙の修行を行っていたため、姿も声もみたものがいない。シスターテレサは心と体を鍛えるため、たびたび修行を行っているため、その時はあまり気にしなかったが、後日、マスコミで田中武が首を切られて死んでいたと聞くと急に気になりだした。シスターテレサ、本名、村木葉は母親が男の首を刺殺したのを目撃している。首が急所だということを知っているのだ。しかも後日、田中武の共犯の男が殺され、容疑者としてフードの男が報道された時、その姿がシスターテレサに似ていたのだ。マザーはシスターテレサが毎朝、明け方から朝のお祈りの時間にジョギングしているのを知っていた。テレサは不眠症だった。子供のころからずっと不眠症だった。無理もない幼少期に親に虐待され、眠っていると親の機嫌でたたき起こされ、殴られ罵倒されたのだ。安心して眠れなかった過去がいまだにテレサを不眠症にしていた。薬を勧め医師に投薬されたこともあったが昼、朦朧とすると言ってやめてしまった。かわりにジョギングして気を紛らしていた。本来シスターは園のそとに簡単にはでないが、不眠の事情からマザーアンナは知っていて見逃していた。シスターテレサが少しでも楽になれば、心の傷を癒せればと思って見逃していたのだが、それが裏目に出たのか?まさかテレサが殺人を犯したのか?マザーは疑っていた。テレサはマザーの子供同然だった。聖母の園のシスターすべてマザーの子供同然だが、テレサとルチアは特別だった。二人は幼少の時からずっとマザーアンナが育て上げた。もう30歳になろうとしているがあの二人が聖母の園に来た時のことをまざまざと思い出せた。その子供が殺人犯かもしれない。マザーは体調を崩すほど重い悩んだ。寝込んでしまったのは長い修道院生活で初めてだった。しかも寝ているとき刑事がきたという。副院長のシスタールチアが応対し大したことは聞かれていないというが心配が募った。シスターテレサに聞けば本当のことを答えるだろう。だがマザーは聞けなかった、こわかったのだ、もし殺したと答えられたら、どうしたら良いのだ。マザーアンナが仕事も手につかず院長室で悩んでいるとき、刑事の来訪を聞かされた。秋津と佐藤が聴取に訪れたのである。
秋津はマザーアンナに会ってすぐに、マザーの様子がおかしいのに、気づいた。体調を崩していたせいだろうか目の下に隈ができ、やせていた。そのせいだろうかマザーから溌溂とした部分が消え、緊張しているようにみえた。秋津はマザーに挨拶とお見舞いの言葉を言葉をかけると早々にシスタールチアのアリバイを訪ねた。田中武が保釈された日の夜から死体が発見されるまでと共犯者の新田明がトラックに突き飛ばされて殺された朝のアリバイである。マザーアンナが答える。
「夜は皆と食堂で食事をし、後片付け、10時ごろ自室に戻り、朝6時から皆でお祈りをして、日中は乳児の世話をしております。乳児の世話は何時にミルクをやり、オムツを変えたなど詳細な記録が残っております。園の外にはでておりません。」
答えながら、マザーアンナは幾分ホッとした。シスタールチアを疑っているのか、とんだ見当ちがいだ。あの子は人を殺せるような暴力的な人間ではない。と
「確かに園から出ていないという目撃者はいますか?」
と秋津が聞く、マザーは自信をもって答える。
「乳児の世話は一緒に何人も働いていますし、お祈りや園内を歩いている姿は大勢のシスターが証言するでしょう」
「わかりました。年のためシスター2,3人から聴取させてください。それからこの聖母の園の入り口や裏口、または園内には監視カメラはついていますか?」
と秋津がたずねる。
マザーアンナは幾分、不愉快そうに答える。
「こちらは誰にでも開かれている園です。神の教えを知りたい人、神と話をしたい人は誰でも受け入れます。監視カメラなど不要です」
「するとこっそりと園の外に出ることは可能ですね」
と秋津が重ねて質問する。
「数分なら可能でしょうが1時間単位ではむりでしょう。何かしら仕事がありますので」
マザーが答えると秋津は
「でも夜は10時から翌朝6時のお祈りに間に合えば外出することは可能ですね」
と食い下がる。マザーは
「可能ですが、何をお尋ねになりたいのですか?シスタールチアがこっそり園を抜け出して人殺しをしたとでも言いたいのですか?」
秋津はそのはっきりとした物言いに少し驚いたが、安心させるように、優しく
「実は犯人の逃走経路に聖母の園が入っている可能性がありまして、カメラがあれば外部からの侵入者が映っているかと期待したのです。それにしてもお聞きした日時が大川花子ちゃんの里親の保釈日と死体発見日時、共犯者の殺害日時とよくお分かりになりましたね。」
マザーアンナは解るに決まっている、ここ数週間ずっとその日のことで悩んでいるのだからと思ったが、
「ここは俗世とは隔絶した場所だと思ってらっしゃいます?法王様もツイートする世の中ですよ。テレビもあればスマートフォンをもっている者もおりますのよ。大川花子ちゃんは私から田中夫妻に預けた子、事件のことは気になるに決まっているではありませんか?当然、殺害の日時や犯行の様子などテレビで拝見して覚えております。私が田中夫妻などに預けなければと後悔しない日はあれから1日とございません」
「そうなのですか?スマートフォンまで。ちなみにシスタールチアもお持ちですか?」
と秋津が尋ねる。マザーはまだルチアを疑うか?と思いながら
「シスターの持ち物はすべて私が把握しています。スマートフォンを持っています。法王様のツイートを見るためです。」
「買い物をするお金はどうするのですか?個人資産を許しているのですか?」
と秋津がまた尋ねる。
「私たちは聖母の園のシスターですが乳児院の職員でもありますので給料がでています。それを横取りするようなことはしません。皆に渡します。そのあとシスターが寄与するかしないかは個人に任せております。皆、最低限必要と思うものを買い、聖母の園に寄進しおります」
マザーアンナが答えると秋津は丁寧にお願いした。
「シスタールチアからもう一度お話を聞きたいと思います。こちらに呼んで頂けますか?」
「シスタールチアをですか?今の時間は乳児院にいて忙しいと思います。まだ何かききたいのですか?」
「はい、どうしてもご本人から聞きたいのです。よろしくお願いします。」
マザーアンナは気が進まなかったが電話の内線で乳児院を呼び出し、シスタールチアを園長室に来させるように話した。秋津は何気なく聞いた
「シスタールチアはあの若さで副院長兼副園長ですか?マザー引退後は乳児院と聖母の園を監理するわけですね。もっと年上のシスターもいるのに相当優秀な人なんですね。面白くないシスターもいるのではないですか?」
「シスタールチアは若くても園には長くおりますし人格者です。どのシスターもこの人事に反対しておりません」
マザーアンナが答える。秋津がまた聞く
「修道院のことを私も少し調べたのですが18歳になってから修道女見習いとして園に住み込むそうですね。しかしルチアは長くいられるということは例外的に幼少期からずっといるのですか?」
マザーアンナは何かをしゃべり過ぎたと感じた。秋津という男はこちらの言葉を聞き逃さず痛いところをついてくる。答えずに内線電話をもう一度取り上げ、乳児院にかける。その時、シスターが園長室にやってきた。マザーアンナは電話を置く。シスターが慌てた様子で話す。
「シスタールチアがいません。誰もここ1時間ほど見ていない様子です。」
マザーアンナが驚いて言う。
「シスタールチアがいない。そんなはずありません。皆で探すのです。」
手の空いているシスターたちと秋津、佐藤、マザーアンナが総出で探したが園内のどこにもシスタールチアはいなかった。
秋津は佐藤にいった。
「逃げられた。この前俺たちが来たのを勘ぐって先手をうたれた。俺たちが疑ってると思ったんだろう。」
佐藤が答える
「シスタールチアが犯人ですか?あのきれいな人が?この前話を聞いた時も全然、動揺してなかったじゃないですか?しかもあの小柄な人にできる犯行ですか?」
「俺も本人が手を下したとは思わない。スマートフォンがあるなら外部の男に頼むこともできるだろう?もしかしたらプロを雇うとか」
秋津が言う。それを聞いていた一人のシスターがものすごい勢いで近づくと秋津の胸ぐらをつかんで言った。
「シスタールチアが人殺しだと。絶対違う。」
シスターテレサだった。シスターテレサは185㎝はある秋津とほぼ同じ背丈、秋津と対峙した。秋津は
シスターテレサの手を振りほどくと身なりを整え、相手をじっと睨んだ。相手も秋津を睨んでいる。
「失礼、あなたは誰ですか?なぜ絶対違うといいきれるんですか?」
相手は答える。
「私はシスターテレサ。シスタールチアとは同期生で親友だ。シスタールチアは人を殺せる人間じゃない。本当に優しくて、神を信じている天使のような人だ」
「なるほどシスターテレサですか?あなたはカッとなるタイプのようだ。」
そこへマザーアンナが割ってはいる。
「申し訳ありません。シスターテレサあなたは仕事にもどりなさい。皆も仕事に戻ってください。」
マザーアンナが秋津にすがりつくように言う。
「シスタールチアは黙って園外に出るようなことはしません。何か理由があるはずです。調べて下さい。」
秋津と佐藤はマザーアンナとともにシスタールチアの自室を調べた。私物は少なく、スマートフォンも置いてあり、私服に着替えた様子も物を持ち出した様子もない。シスタールチアの人柄もしめす整頓された部屋だった。慌てて逃げだした様子はまるでなかった。秋津と佐藤はスマートフォンを預かると園を後にした。捜査本部に戻ると今日の出来事を報告し、スマートフォンの解析をたのんだ。結果、外部と連絡を取った様子はなくスマートフォンはニュースや法王のツイートを見てるだけだった。シスタールチアは消えてしまったのである。
太田久は苛立っていた。今までは前の女をゴミに捨てたらすぐに次の女を拉致した。下見もなく監視カメラのないところに白いバンをとめ夜11時ごろ歩いている女を捕まえていたのだ。相手を選ばなければ11時過ぎに歩いている女は一人や二人必ずいた。久は知らなかったが誰でも働いていれば残業でそのぐらい遅くなることはよくあることだった。
だが今度は相手を選んだ。誰でも良いことに飽きたのである。相手を選んで拉致することを考えただけで興奮した。相手はテレビでみた修道女にした。女児殺害事件で疑われている修道院がマスコミで報道され、執拗なカメラに切れた大柄な修道女を宥めている小柄な美しい修道女を見た時、これだと思った。なぜか顔にモザイクがされていなかった。まだ3人目の被害者が生きているうちから修道女をさらうこと、そのあとのことを想像して久は興奮した。三人目の女は早々にゴミにして、すぐに修道院にかけつけた。門の外で待ったが修道女は園の外に出てこなかった。2日たち、3日たつと久は飢えた。食物にではない女に飢えたのである。そこで久はミスを犯した。学校から乳児院に帰ってくる子の一人に声をかけ修道女を呼び出したのである。そこで狙いの女がでてこなければ何か他の手を考えるつもりだった。ところが運悪く子供は一番、話しやすい、いつもそばにいるシスタールチアに男の人が会いたがっていると言ってしまった。シスタールチアは何の疑いもなく男に歩みよった。久は悩んで神に救いを求める人間のふりをしてルチアの隙を狙った。女子修道院では男性は入れないので教会のパンフレットを取って来るからと後ろを向いたルチアの後ろから麻酔をかがせた。ルチアがぐったりすると抱えてバンに押し込み自宅地下室に拉致することに成功した。久は最初に猫を殺したときのように興奮した。ぐったりしたりチアを手術台に寝かせ、手足を拘束した。そこまですると落ち着きを取り戻し、いつもの手順を思い出した。手術台に拘束した被害者の服をハサミで切って下着だけにするのある。久はまず修道女のベールを切り始めた。修道女のベールの下はスキンヘッドだろうと思っていた久は少し失望した。ショートカットだったのである。続いて僧衣にはさみをいれるとブラジャーとパンツだけの姿になった。初めは髪の毛があることに失望した久だが、こうしてみると悪くない、きれいな顔の普通の女と変わりない。これなら罪悪感なしに楽しめそうだと久は思った。
捜査本部で秋津は思い出した。どこかで見たことがあると思ったシスタールチアは、大きな修道女がホースで報道陣のカメラに水をかけたのを止めた修道女だ、大きな修道女はシスターテレサだ。そしてテレサが自分を掴んだ時の力と振り払ったときに触った腕の堅さを思い出した。あれは相当に鍛えている、修道女は鍛える必要があるのだろうかと疑問を抱いた。瞬間、頭の中で何かが弾けた。フードの男、犯行と背格好から男だとばかり思っていたいたが女なのでは?秋津は佐藤を目で探した。佐藤と話しあって頭を整理したい。秋津は佐藤を見つけると自分の推理を話した。
「フードの男が女?相当でかくてガタイのいい女ですね。シスターテレサがその男でシスタールチアと共犯?テレサが実行犯ですか?だとしたらテレサを置いて一人で逃げますかね?」
と佐藤が答えた。
「そこなんだよな。シスターテレサを取り調べしたいが、引っ張れるだけの証拠がない」
秋津が言う。佐藤はそれから不思議そうに
「それに動機が弱くないですか?大川花子ちゃんを世話したと言っても乳児の時だけで7年もあってないですよね。ミルクとオムツを替えていた子が殺されれば、涙は流すとは思いますが、敵を討ちますか?しかも拷問までして、シスターの殺し方ですかね?シスタールチアの逃亡もまるで痕跡がない。素人が駅やバス、タクシー乗り場のカメラに映らないで逃走するなんてできますか?一体どうやって逃げたんだろう」
「もう一度、聖母の園に行く必要があるな」
秋津は答えた。
そのころ太田久はシスタールチアの目が覚めるのを待っていた。そろそろ薬がきれるはずだ。また悲鳴が聞ける、待っているとルチアが目を覚ました。自分の手足が拘束されていること、下着だけにされていることに気づいた。久は他の被害者に言ったのと同じセリフを言った。
「僕は君を監禁した。体は二日に一回拭いてやる。暴れなければ食事は1日1回もってくる。食後に薬を飲むこと、いい子にしていれば痛いことは何もしない。」
そしてルチアのさるぐつわを外した。女たちはここで悲鳴をあげた。それが久には楽しかった。ところがルチアは叫ばなかった。大きな目をさらにひらいて久をみつめるだけだった。久は拍子抜けして同じことをまた言った。
「僕は君を監禁した。体は二日に一回拭いてやる。暴れなければ食事は1日1回もってくる。食後に薬を飲むこと、いい子にしていれば痛いことは何もしない。」
聞こえているのだろうか?ルチアは何も言わない。仕方なく久は部屋の隅で母親が作った食事を食べ始めた。
秋津と佐藤が翌日聖母の園に行くとマザーアンナが駆け寄ってきて言った。
「ちょうど良いところにお出でになりました。連絡するところだったのです。園児の男の子がシスタールチアを呼んでくれ男にたのまれたそうです。」
秋津はマザーアンナを落ち着かせると聞き直した。
「昨日、シスタールチアを呼んでくれという男がきたということですか?何時に?どこで?」
「シスタールチアがいなくなった頃、園の入り口に男がいてシスターを呼んできてくれと頼まれたそうです。その子はルチアに声をかけて、ルチアは門の外側で待っていた男と話し始めたそうです。そしてシスタールチアが急に倒れこんで男に抱きかかえられ、車に乗せられたそうです。」
マザーアンナが興奮気味に言う。そして言葉をつなぐ
「男の子は自分のせいでなんだか大変なことが起きたと思ってすぐに言えずにいたのです。私が様子がおかしいので怒らないから、何かあったの?と聞いたらシスタールチアのことでした。」
秋津が尋ねる。
「その男はシスタールチアを名指ししたのではなく、シスターを呼んでくれと言ったのですね。車はどこに止まっていたのですか?」
車は2.3軒先の民家の前に止まっていた。秋津と佐藤が聞き込みをすると民家の主が見慣れない車が3日前から朝来て、深夜去ることを繰り返し、迷惑していたという。そして自分が運転手に注意するのは怖いので、また来るようだったら警察を呼ぶつもりだったと言い、控えていた車のナンバーを教えた。
秋津は聖母の園にもどると待っていたマザーアンナに言った。
「シスタールチアは逃げたのでなく、拉致された可能性が出てきました。至急署に戻って車を調べます。詳しいことが分かり次第連絡します。」というと車に飛び乗り捜査本部に戻った。
佐藤と秋津が聖母の園に来た時、シスターテレサはシスタールチアが逃げるわけがない、何故なら犯人は自分でルチアは関係ないのだからと言おうと近づいた。ところが先にマザーアンナがシスタールチアが拉致されたらしいことをはなしだした。物陰に隠れて聞いていると車で連れ去られたらしい。頭が真っ白になり、またあの指を折られた時のことを思い出した。泣いている自分、近づいてきた母が指をひねり上げ骨が折れた音、優しく抱き上げてくれると信じていた愚かな自分、愚かだ恥ずかしい恥ずかしい。気が付くとシスターテレサは秋津の車のトランクに隠れて右手の親指をなでていた。あの時もそうだった、大川花子がレイプされて殺されたと聞いて怒りで頭の中が真っ白になった。保釈のニュースをスマホで知ったとき、指を折られたことを思い出して、気づいたら田中夫妻の家に侵入していた。ちょうどランニングに行く支度をしていたので上下黒のスウェットスーツに手袋をしていた。家に侵入すると田中武がリビングテーブルに突っ伏してだらしなく泥酔していた。その手足をナイロンコードで椅子に縛り付けた。ナイロンコードは田中の家の段ボール箱を束ねていたものを使った。マスコミがいて捨てることができなかったのだろう。田中の玄関には資源ごみがたまっていた。伸子が早朝に起きてきた時、叫び声をあげる前に殴って気絶させ、同じように椅子に縛り付けた。二人ともさるぐつわをした。シスターテレサ、つまりは葉は冷静だった。もう頭を何かに取りつかれているような感じはなく、自分の意思で二人を縛った。意識のない二人を見下ろした時、弱いものを虐める奴は許せない、制裁が必要だと思った。この男は報道では花子だけでなく何人もの少女をレイプしている。中にはショックで話せないものもいるという。深い傷を負わせて、自分は酒を飲んで寝ている。こんな奴は死んで当然だと思った。子供たちと同じように傷を負わせてから殺してやる、と思い寝たままの武の右の太ももに、台所からもって来た包丁を突き立てた。痛みで武が目を覚まし、叫ぼうとしてさるぐつわに気づいてパニックになった。最初に刺した傷で血が飛ぶのに気づいた葉は台所からゴミ袋を持ってくると1枚をかぶり頭と手を出し、もう1枚をエプロンにした。そして左脚もさし、両手も切り裂いた。急所は外し死なないようにした。武は最初は喚いていたが葉が無言で次々と刺していくと流れる血で弱り、泣き出した。息ができなくなって窒息するのでは?と思ったが別に死んでもかまわない胴体を差し脚元に血だまりができた。武の汚い血でランニングシューズが汚れるのは嫌だったので台所にあるスーパーの手提げ袋で靴を覆った。そのうち伸子が目を覚まし、武の様をみて叫ぼうとしていたが無視した。どうせ声は出ない自分が苦しくなるなけだ。この女は少女たちがレイプされ続けるのを何年も見て見ぬふりをし協力していたのだ。武の苦しむ様をみるがいい。武は弱っていた。出血量からしても大声はだせないだろう。最後の言葉をきいてやろうと葉は武のさるぐつわを外してやった。
「あの子 たちは 蝉 だから、死んで しまわ ないよう 」
と武は途切れ途切れに言った。蝉?何を言ってるのだ。錯乱しているのか?この期に及んでまだ自分の罪を認めず言い訳している、と葉は激昂した。少女たちが蝉なら私はカマキリだ。お前を捕食してやる。武の後ろにまわり喉を切り裂いた。まだ血が残っていたと見えて部屋中に血が飛び散った。武は絶命した。
武が死ぬと伸子の椅子を正面に向かい合わせに置いて死に顔がよくみえるようにした。伸子は目を閉じていたが葉は無理に開けることも開けるように言うこともなかった。どうせずっと目を閉じてはいられない。葉がいなくなったか確認しようと目を開けるだろう。開ければまず飛び込んくるのは喉を裂かれた夫の姿だ。葉は何も言わず二人もみつめて2日を過ごした。武を殺してから1日マスコミが何か騒いだ。乱入されることでもあれば伸子を殺せなくなる。葉は水も飲ませてもらえず弱っている伸子の手足のコードを解いた。驚くほど敏捷に伸子が玄関に突進した。上がり框を降りる前に後ろから心臓を一突きにした。伸子は苦しまずに死んだはずだ。
しばらくすると腹が減っていることに気づき冷蔵庫からハムやソーセジを出して食べた。出たごみはいつもの習慣どおりにきれいに洗って分別して捨てた。伸子は台所を神経質な程に整頓してあったので分別のゴミ箱はすぐに見つけた。それから数日後、警官が踏み込んできて入り口で死体を見つけると怖じ気づいたのか立ち止まった。葉は冷蔵庫の陰に隠れていたが、報道陣がなだれ込んできたときに上手く紛れ込んで逃げたのだった。
葉は人体のどこが急所か、どうすれば相手を制圧できるか研究していた。常に相手より強く、力をもっているためには絶対に必要な知識だった。葉は強くあらねばならなかった。そのために他のシスターがお祈りをしている時間、すべてトレーニングに使っていた。筋肉を鍛え、相手の急所を打つ練習を行っていた。筋力をつけるために他のシスターが嫌がる畑の力仕事を率先してこなした。葉は神を信じていなかったのでお祈りをする必要はなかった。
秋津の車が止まった。警察署についたのだろう。
秋津と佐藤は本部に戻ると車のナンバーから所有者を確認した。太田久45歳都内在住。調べたところで
連続バラバラ事件の担当から連絡がきた。そちらで照会した車はバラバラ事件の容疑者の一人として浮上している。まだ決定的証拠がつかめていない、なんでそちらの本部は照会したのかという内容だった。秋津は大川花子養父母殺害事件の関係者が拉致された可能性があり踏み込みたい旨を言うと、少し待つようにという話だった。秋津は憤った。
「待つ?なんでだ?今、この瞬間新しい被害が起ころうとしているのに待つのか?」
捜査部長は
「子供の証言ではあてにならない、それに拉致されたのは容疑者だろう、早めに飛び込んでバラバラ事件の証拠を失ったら、ということだ」
と言う。秋津は今、つかまっているのはシスターで容疑者と言っても確かではないし、自分の間違いだったかもしれない。バラバラ事件の犯人だったら余計に危険な状況にいることを部長に説明したが、待て、ということだった。秋津は佐藤を伴って捜査本部を飛び出した。
「なぜ待たなくてはいけないんだ?」
秋津はハンドルに突っ伏して呻いた。佐藤が言う。
「まだ拉致されて1日ですよ。バラバラ事件の犯人は殺すまでに1カ月かけるでしょう?待つしかないですよ」
「犯人は繰り返しレイプして、生きたまま手足を1本1本時間をかけて切り落とし、被害者を絶望させて喜ぶ変態だぞ。レイプするまで拉致から何時間かけるかわからない。最初の手足を切るのに何日かけるのかもわからない。もうレイプされてるかもしれない。切られてるかもしれないんだ。」
秋津が佐藤の方を向いて叫ぶ。佐藤に叫んでも仕方ない。と秋津は思った。俺のせいで、俺がシスタールチアを田中夫妻殺害の容疑者として報告していたからいけないんだ。容疑者だからなんだって言うんだ、殺されていいわけない、俺は田中夫妻の容疑者を本当に逮捕したかったのか?あいつらは殺されて当然のやつらだと死んだとき思ったじゃないか?犯人の代わりに俺が殺したかったと思ったじゃないか?
秋津は大きく深呼吸すると車を出した。
「どこに行くんですか?」
佐藤が聞くと秋津は答えた。
「太田久の家の前で張り込みする」
秋津の言ったことはトランクの中の葉にも聞こえた。葉はまた指を折られたときのことを思い出した。新田明を殺した時もそうだった。ジョギングの途中で新田明がコンビニから出てくるのを見かけて、発作的にトラックに突き飛ばしてしてしまった。おかげで姿を見られて聖母の園が疑われた。そしてシスタールチアが疑われたのだ。葉は指を撫でるのをやめた。落ち着かなくてはならない。太田久の家についたらどうするのか計画を立てて行動しなければならないと葉は思った。自分は捕食者として冷静にふるまうのだ。
車が止まった。太田久の家に着いたのだ。太田家は都内の高級住宅街の豪邸だった。敷地の真ん中に家があり手入れされた庭が周りを取り囲んでいる。両隣の家も敷地の真ん中に家が建っている豪邸で、これなら防音設備をすれば隣の家に悲鳴は届かないだろう。聖母の園がある下町の家がくっついて建っているところとは大違いだ。見慣れぬ車がいるからとナンバーをメモされるとは太田久は思わなかったのがわかる。下町はよく言えば人情が残っているがよそ者には厳しい。道もせまいから見知らぬ車が数時間止まっているだけで迷惑だ。一方、このお屋敷町では宅配のトラックが止まっていても悠々車がすれ違える。叫び声で通報されないのは人里離れた山の中かと思っていたが、このお屋敷街を見て秋津は納得した。防音設備でもしていれば隣家まで声は届かないだろう。秋津と佐藤は車を停めて張り込みを始めた。
そのころ太田家では母親が久が新しい女性を地下室に入れたのを知って動揺していた。もう見過ごしてはいられない。震える手で110番通報をして言った。
「息子が何か悪いことをしているようで・・・」
電話の相手は冷たい声で言う
「まずお名前と、ご住所を教えて下さい」
それを聞いて母親は電話を切ってしまった。
葉は車が止まると秋津と佐藤に気づかれないようにトランクから出て屋敷の裏側に回った。ベールと修道服を脱いだ。黒いTシャツと短パンの姿になった。頭はスキンヘッド、胸は晒で巻いていた。頭髪は剃髪する義務はないのが葉は髪は邪魔なので毎日剃っていた。胸は教会支給のブラジャーではトレーニングの邪魔になるので晒で巻いていた。そのため胸板の厚い男のようにみえたのだ。
ガラス戸を肘で割ると割れたガラス片を握って屋敷の中を探った。ちょうど久の母が110番しているところを物陰で聞いていた。
母親が電話を切り、振り向くとガラス片を持った葉が目の前に立っていた。悲鳴をあげようとするところを口を押さえ一言
「どこだ?」
と尋ねた。母親はスキンヘッドの男か女かわからない人間を目の前にして、抵抗する気が失せた。何も言わず地下室を指さした。
地下室では悲鳴をあげず食べ物も口にせず、水も飲まないシスタールチアを目の前にして太田久は途方に暮れた。意識をなくさないとレイプができない。最初の被害者がレイプ中に意識を取り戻しひどく局部をけられてからレイプは一番深く眠っているときに行うのが久の手順だった。そして、目を覚ましてレイプされたことを被害者がわかって罵ったり、泣いたり、叫んだとあと約束を破ったと言って腕から切り落とす。被害者は自分の腕が切られれるの見て絶望する。その瞬間が久は好きだった。最初の被害者は麻酔なしで腕を切り落としたらショック死してしまったので2番目からは局部麻酔を行うようにした。懇願する被害者を前に久は
「大丈夫、僕は医学部を出ているからちゃんと死なないように止血するよ」
というのだった。しかしシスタールチアは声も出さず、太田久をみつめるだけだった。
シスタールチアは思い出していた。自分がまだ優美だったころ瀕死の母親がさしだした手を握ることができなかった。母親はどんなに絶望しただろう。なぜあの時、母の手を握れなかったのか?その罰を自分は今、受けているのだと思った。久を見つめているようでルチアにみえているのは母の顔だった。
久は焦れた。この女を叫ばしたいと悲鳴を聞きたいと願った。そこで局所麻酔をすると言った。
「今から君の足首を切断する。言うことをきかないからだよ。大丈夫僕は医学部を出てるから死なないよ。」
久がルチアの左足首から下を切断した。さすがにルチアは叫び声をあげた。久が喜びに浸る間もなくスキンヘッドの人物が室内に乱入してきた。久は手にしていた手術用具で襲いかかった。しかし葉は冷静だった。近づいてくる久に足払いをかけると手術台に置いてあるノミのようなものを選んで、久に覆いかぶさった。
秋津はガラスの割れる音を聞き、佐藤が止めるのも聞かず車から飛び出した。玄関チャイムを鳴らす、応答がない。屋敷の裏側に回ると掃き出し窓のガラスがわられ開いている。そこから室内に入り、ルチアを探す、母親はまだ地下室のドアを指さしたまま固まっていた。秋津が地下室に降りると手術台の上で下着姿で左足を切断されているシスタールチアと男の上に覆いかぶさり左手を振りかぶっているスキンヘッドの男が見えた。どちらが久なのかわからないまま秋津はピストルを構え大声で制した。
「武器を捨てて腹ばいになれ」
その声でスキンヘッドの男が振り向いた。男ではないシスターテレサだった。二人の視線がぶつかった。テレサの瞳は薄茶色で澄んでいた。何の表情も浮かべないままテレサはノミを久の眉間めがけて振り下ろした。そして秋津めがけて体当たりをした。秋津は、続いて地下室に降りてきた佐藤を巻き込み壁まで吹っ飛んだ。その隙に階段を駆け上がるとテレサは逃亡した。久は眉間にノミを刺されて絶命していた。佐藤にルチアを頼むと秋津はテレサを追った。しかしお屋敷街のどこにも、シスターテレサの姿は見えなかった。
そのあとはまず救急車が来てシスタールチアを搬送し、警察車両が何台もきてあたりは騒然とした。太田久は前の3人の被害者のDNAを手術用具から消すことせず、服やアクセサリーを戦利品として取っておいたため連続バラバラ殺人犯として被疑者死亡で送検された。秋津と佐藤は本部の命令を無視して突入した責任を取らされ、コンビは解消された。秋津は自分の突入は後悔してなかったが、結果として若い佐藤のキャリアに傷をつけてしまったことには申し訳なく思った。もちろん佐藤は気にしてない、被害者が殺されなくて良かった、と言ってくれたが。
シスターテレサの足取りは途絶えた。お屋敷街は1軒1軒防犯カメラを設置していたので途中までは追えたのだがお屋敷街を超えて繁華街に入ってからすぐ人波に紛れて姿を消してしまったのである。警察は指名手配をかけるべくシスターテレサの本名をマザーアンナに問い合わせたがマザーアンナは頑なにシスターテレサはシスターテレサだと言って本名を明かさなかった。捜査令状を取り、シスターテレサの本名が 村木葉だとわかった時、村木葉は国外に脱出していた。ドイツ経由でフランスに入り、その後の足取りはつかめなかった。警察はシスターがパスポートを持ち、旅行券を買えるだけの現金を持っているとは考えなかったが葉はシスターテレサでなく本名の村木葉と書かれているパスポートを毎日晒に巻いて肌身離さず持っていた。また同様にクレジットカードも持ち歩いていた。金は全額フランスでユーロでひきだされていた。葉の部屋の捜索も行われたが質素で私物はほとんどなく整頓されていた。田中夫妻殺害に対する物証は見つからず、証拠不十分で不起訴となった。村木葉は太田久の殺害だけで国際指名手配された。
1年後
秋津は聖母の園を訪問していた。相手をしているのは新しい園長となった。シスタールチアである。ルチアは足の接着手術が出来ず義足となっていた。杖をつきながら歩くのが痛々しかった。
秋津は言った。
「シスターテレサの酷い幼少時代は我々も同情しますが、だからと言って人を殺していいことにはなりません。今、どこにいるか心当たりはありませんか?」
「さあ、わかりません。シスターテレサには連絡を取りたい親戚もいません。彼女を縛るものはこの日本には残っていないのでしょう」
マザールチアが答える。
「あなたがいるでしょう。あなたには会いたいはずだ。連絡はないのですか?」
秋津が尋ねる。マザールチアは答える。
「ありません。それはそちらでもお調べでしょう。」
「もしかしたらもう亡くなっているのかもしれませんね」秋津が続けて言う。
「こういう事件が起きると神はいるのか?疑問におもいますね。村木葉はなぜあれほどの虐待を受けなければならなかったのか?あなたは足を切られたのか?マザーアンナはなぜ引退されたのか?」
マザーールチアは薄い笑みを浮かべて答える。秋津が初めてマザーアンナに会った時と同じ笑みだった。
「神はその人が乗り越えられるだけの試練を与える。と言いますから。なぜというなら、なぜあの時あなたは発砲してシスターテレサを止めなかったのですか?シスターテレサは強い人です。きっと生きているでしょう。いつか聖母の園に還ってきてくれると私は信じて待っております。」
「マザールチア、あなたの方が強い人ですよ。私ならきっと立ち直れません。」
マザールチアはそれには答えず窓の外を見ながら思い出していた。足を切落とされた時、麻酔で朦朧としていたのか母の姿が見えた。死にかけの母、優美に手を差し伸べる母、優美はその手をしっかりと握ったのだった。
エピローグ
マザーアンナが憧れていたサンチャゴ巡礼の道。その中でも特に険しいピレネー山脈越え、その登頂にはかってその険しさ故、命を落とした者達を弔っている大きな十字架がたっている。十字架の下にはかっては巡礼者の遺体を埋め、今は登頂のあかしとして石がつまれている。そこにいつからか、若者の巡礼者が住み着き、ピレネー越えで力尽きた者を看病し、その者に看病された巡礼者は元気を取り戻し、巡礼の旅に出るという都市伝説が生まれた。見渡す限り石ころだらけの荒野で小屋もない。今日も年老いた巡礼者がその場所で転びそうになった時、一人の若者が支えた。若者の顔は逆光でよく見えず薄茶色の髪が陽の光をうけて金色に輝いている。
「グラシアス」
と老人が言うと若者は水を差しだした。水を飲み若者に手足をさすられると不思議と力が湧いてくる。もう一口水を飲み、老人が顔を上げると若者はどこにもいなかった。周りを見わたしても隠れる場所などない。老人は十字をきると立ち上がって歩き始めた。不思議と足取りは軽くなっていた。十字架が見守るようにそびえていた。