09.音が寝ているから
衝撃の轟いた人気のない森の中。
「終わった……な」
目の前の化け物は、完全に意識を失いピクリとも動かない。
記憶喪失の男が巻き込まれた戦いは、記憶の一部を取り戻した事により勝利へと傾いたのだった。
身体的な疲れは徐々に回復するが、心理的疲労により今はもう何も考えたくなかった。
頭はクラクラとするし、何よりどうして戦っていたのかも思い出せないほどに消耗し切っていたのだ。
だがここが見知らぬ森の中なのは変わらない。記憶のない男と言葉を喋らない少女。二人が命を紡ぐには、すぐにでも人の住む場所へと移らなければならなかった。
「はぁ……全く、次から次へと嫌になるな。こんな化け物の巣食う森、さっさと抜け出すとしよう。お前、帰りの道は分かるか?」
「…………」
少女は首を横に振る。分からないのか、それとも答えられないのか。どちらにせよ、彼女の案内が無いならば、行く先は男自身で決めるしかない。
「……そうだ、お前ここへ戻る前に河原へ行っていただろう。その川を下ってみるか」
少女が河原で決勝を拾っていたのを記憶の中から思い出す。いつ出口に辿り着けるか分からない森を彷徨うぐらいなら、人の生活圏に繋がっていそうな水辺を歩く方が効率的だと判断する。
少女の顔を見てみると小さく頷き同意していた。その表情に感情はない。人形のように無機質な少女は、似つかわしくない森の中で佇み続ける。
どうして私達はこのような場所に立っているのだろうか。取り戻した記憶からは推察出来ない。彼女は、何か知っているのだろうか。
「……お前は今、どんな状況に置かれているのか理解出来ているか。私はまだ、よく分かっていない」
「…………」
「何か使命を持っていた。という事は思い出した。だがそれが何なのか。それがどう今と繋がるのか、見当も付かない」
「…………」
「お前は私の何なのだ? 私はお前の、何なのだ?」
当然、少女は答えられない。そんな事は男も、分かっているつもりであった。
「すまない。混乱しているのはお前も同じはずだ。お前お前と何度も聞いて悪かったな」
「…………」
表情一つ変わらないはずの少女が、どことなく寂しげに見えて仕方がなかった。覚えていないし、伝えられない。二人を繋いでいたはずの何かが欠落してしまっている以上、過去を取り戻す以外の選択肢は無いのだ。
「お前は私の……私の記憶が、どこにあるのか分かるのか?」
分かっている事を一つずつ。積み重ねて行けばきっといつかは、思い出せる。少女は男の問いに、小さく頷き答えを返す。
「そうか、それは助かる。お前といれば私はいずれ思い出せるのかも知れないな。お前の存在があれば……」
少女の返答を噛み締めながら、彼女の表情の変化を観察する。どこか不服で儚げなのはきっと、自分の言い方が悪いのかも知れないと、口にしていた言葉を思い返す。
「……お前。のままではこの先困るかも知れないな。かといって名前は分からないし、ここで伝える手段も無いだろう」
「…………」
「とりあえず、だ。今から仮の呼び方を決めておく。文句はないな?」
「…………」
僅かに瞳が動き、少女の表情が驚きを見せたように映る。
「うむ。では名前だが……。お前は喋らない。だから音が無い……オトナシ?」
「…………」
「……は、可愛げがないな。ああそうだ。音が無いのではなく、今はただ寝ているだけかも知れないしな。うむ、つまり音が寝ているから……寝ている音で……」
なんだか一連の出来事で一番考えている時間が長いのでは。と男はふと思う。だがそんな男の思いなど気にもせず、少女はただジッと男の言葉を待っていた。
だから男は、これから呼ぶ彼女の名前を口にする。
「ネオン」
パッと、沈んでいた少女の表情が明るくなったように見えた。
「うむ。お前は今からネオンと呼ぶ事にしよう。響きも綺麗で可憐だろう」
うんうんと男は森の中で深く頷いた。
深い深い森の中。目の前には倒れた大樹と、意識を失った化け物の姿。
二人は目覚めの地を後にし、これから待ち受ける途方もなく長い旅に出る。
男の記憶を取り戻すために。そして少女の思いを知るために。
「ネオン」
「…………」
「頼りにしているぞ」
二人は肩を並べ、彼方へと続く大地を踏み締める。
そんな二人の後方で、小さな破裂音と共に黄色い花弁が空を舞う。
居場所を知らせる記憶の花は、森へ巣食う仲間に向けて再び咲き乱れるのであった。




