01.物語の始まり
それは失われていた記憶。取り戻した思い出。
まだ誰でもない男と少女の物語。
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「ここは、どこだ……?」
青々とした木が生い茂る森の中。
見覚えの無い静かな自然の上で、男は一人目を覚ました。
何故このような場所に居るのだろうか。
どうして自然の中で眠っていたのだろうか。
男は必死に頭を働かせ、おぼろげな記憶の扉を何度も叩く。
「分からない……」
だが男は一向に思い出せない。森の中に居る理由も、眠っていた原因も、自分自身の名前さえも。男は、あらゆる情報が欠落していた。
男は立ち上がり、身の回りの状況を確認する。
手足の先まで布に覆われた見慣れない黒の衣服は、さながら聖職者のようであった。何故そのような衣類に身を包んでいるのか謎も解けないまま、男は次に辺りへと目を配る。
手荷物らしき物は落ちておらず、目立つ存在と言えば男が背に寝ていた灰色の葉を付けた大樹ぐらい。足元にはありふれた植物が生い茂るばかりで、手がかり足りうる違和感はどこにも無いように思えた。しかし。
「植物が少し、潰れている……?」
四方八方を囲む自然の一方に、誰かが踏み歩いたような僅かな起伏が見られた。人が均したにしては青々としており、自然と生えたにしてはげんなりとした草木の葉。自身の足元まで伸びている小さな起伏は、何者かが男の元から離れた事を意味していた。
記憶もなく覚えもない現状に、男は一筋の手がかりを手繰り寄せる。潰れた植物の先に何があるか。男は意を決し一歩一歩と植物の中に足を踏み入れた。すると、突如として異変は起こった。
「ハハッ…………、正気か?」
木々の隙間から差す陽の光が、一瞬にして影に塗り替わる。目の前には、男の背の倍はある猪を肥大化させたような化け物が、荒い息を上げ睨みを利かせていた。
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乾いた笑い声を上げている場合ではない。後ろ脚を蹴り上げ突っ込んで来る化け物を前に、男は咄嗟に茂みへ飛び込み回避する。森を囲む木々があっけなく倒れる姿を見て、男は本能のままに潰れた植物をなぞり走り出す。
唯一見つけた手がかりから離れる訳にもいかず、男は命からがら植物の上を走り現状を打破するきっかけを待つ。猪の化け物もそんな彼を見逃すはずもなく、男の身体には近づく地響きが伝わり続ける。
「クソ……ッ、クソッ!! なんだ奴は!? 私はどこまで走ればいい!?」
行き場のない怒りと困惑を口から吐き出し力へと変える。
駆け出したはいいが、森の出口など当然知る由もない。
手がかりを見つけるのが先か、化け物の手に掛かるのが先か。やりたくもない度胸試しをしていた男を待っていたのは、意外にも木々の切れ目。閉じた樹海の出口であった。
「見えたッ!」
森の中腹へ出来た人為的な道を前に、男は走る足に力が入る。思いのほか大樹から距離がなかった事に感謝しつつ、右と左、次の逃げ道を決めようとした。その時であった。
「なっ、何故このような地に……!!」
「…………!!」
出口を告げる木々の切れ目から、男の進路を塞ぐように小柄な少女が現れる。
駆けた勢いを殺す事も出来ず、男は咄嗟に身を反らし少女を避けるように自然の上を転がった。
「全く、このような地で何をしている……!」
「…………」
まとわりついた土や葉を他所に、立ち上がった男は突如として現れた少女へと声を荒げた。少女は驚いたのか、声一つ上げずに男の顔を見つめ返す。そんな彼女の表情を見て、男は焦りのあまり強く言い過ぎたと態度を改める。
「すまない怒った訳ではない。だがここは危険だ。お前のような子供が立ち入っていい場所では……!!」
立ち尽くす少女へ男は言葉をかけようとした。だがその声は、大地を裂くような轟音でかき消される。
男と少女を覆う巨大な影。猪を肥大化させたような化け物は、無防備な二人を潰すべく後ろ足へと力を入れ飛び掛かる。
いずれシキの名を得る記憶喪失の男と、後にネオンと呼ばれる寡黙な少女。
運命を共にする事となる二人の出会いは、命がけの逃走から始まるのであった。




