02.魔力〈エーテル〉
とある宿屋の一室にて。シキは長身の女からの質問に答えていた。
「どうして君は、気を失って倒れていたんだい?」
「何の事だ? そもそもここはどこだ。なぜ私はこのような場所にいる」
見知らぬ部屋で目覚めたシキは、どうして眠っていたのかも覚えていなかった。質問を質問で返され長身の女が戸惑っていると、側で話を聞いていた従業員らしき小柄な少女が割って入る。
「ここは私、ミコが経営する宿屋『ミコノスの宿』ですよ。あなたは気を失ったまま、そこにいるネオンさんに運ばれて来たのです」
ミコの指差す先には、白黒の衣服が特徴的な銀髪の少女が立っていた。
「こいつが?」
シキは顔を曇らせる。なぜならネオンは、シキより二回りほど背が小さかったからだ。
それからもサラはしばらく問答を繰り返したが、シキの答えは何一つ要領を得ない。シキの様子をおかしく思った医者のサラは小首を傾げ、綺麗な白髪を揺らすと確信に迫る。
「君、ちょっといいかい? 変な事を聞いて悪いんだけどさ。自分の名前や出身を答えてくれるかな」
シキはサラに問われ、ぽつりと一言だけ口にする。
「分からん」
思わず驚いて口を押えるミコ。やはり……と隣でサラは頭を抱える。
「記憶喪失ってやつだね」
あっさりと答えるサラに、ミコはええっ!? と再び驚く。
「き、記憶喪失ですか……!? シキさん、覚えている事は本当に何もないのですか?」
「シキ? シキとは誰だ、私の事を言っているのか?」
追い打ちをかけるようなシキの言動に、ミコはついに力が抜け、ぺたりと座り込んでしまった。
不穏な空気が宿屋の一室を包み込む。
記憶喪失の男に、言葉を口にしない少女。そして驚いて立ち上がれない宿の主。
「……まいったね」
サラは思わずため息を漏らす。
このままでは面倒な事になりそうだ。
おかしな流れを感じ取ったサラは、会話の軌道を修正すべく無理やり話を進める事にした。
「とりあえずシキ、君の治療に入ってもいいかい? 何も覚えていないってのは初めてだが、記憶喪失なら何度か治した事がある。任せてよ」
「記憶が戻るなら何でもいい。早く始めてくれ」
シキの返答を聞き、サラは小さく頷く。
「分かったよ。ミコ、手伝ってくれる?」
「っ! は、はい!!」
サラの言葉を聞いたミコは飛び起き、今すぐ準備しますー! と叫びながら慌てて部屋を出て行った。そんな彼女を追うように、サラも準備を進めるため一旦部屋を後にした。
部屋に残されたシキは、もう一人残った少女ネオンの方へと語り掛ける。
「お前は誰だ? 本当にお前が、私をここへ連れて来たのか?」
「…………」
少女は何一つ語らない。しかしこくりと小さく頷き、シキの言葉に答えを返す。
少女の答えが何を意味しているのか。そして記憶を失う前の自分に何があったのか。
医者の準備が整うまでの間、シキは自分の存在について考えるのであった。
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「これで……よし。じゃあそろそろ始めようか」
治療の用意を進めていたサラは、準備完了といった様子で部屋の皆に語りかける。用意された卓上には色鮮やかな石や液体がズラリと並び、怪しい占いにでも使いそうな不思議な道具の数々が並べられていた。
「サラ……、記憶を……頼む」
「その事なんだけど……」
物々しい道具の数々を前に、シキはひねり出すような声で懇願する。しかしそれとは裏腹に、治療に取り掛かったサラの表情は曇っていた。
「シキ。君はどうして、魔力が無いんだ……?」
まるで恐ろしいものを見たかのように、それまでマイペースだったサラの顔がこわばる。
「エーテルが無い、とは?」
「うーん……何というか、エーテルの形跡は感じるんだけど、どこを探してもその流れが見つからないんだよ」
サラとミコは不思議なものと遭遇した時のように、シキの顔を見つめる。
「そんな事って、あるのですか……?」
「何か問題があるのか?」
「問題も問題、大問題だよ。人は、いいや全ての生き物は、何かしらエーテルが流れているものなんだ。けど……君からはその流れが感じられない」
「流れが無いとどうなる……?」
「血液と一緒さ。血液の供給がない生き物は、身体を動かす事が出来ないだろ? それはエーテルだって同じ。人の記憶はエーテルとして蓄積され、人の身体や心はエーテルに眠る記憶によって整えられているんだよ」
サラは難しい顔で説明を続ける。
「エーテルの循環が無いって事は、知識や思考が全身へ届かなくなり、身体中の機能が正常に動かなくなる。なのにシキ、君はエーテルが流れていないのにこうして私達と会話している。正直、私には何が起こっているのかさっぱりだ」
エーテルが流れていないという事。それはつまり死と同じであるとサラは言う。
しかしシキは現にここへ存在し、その言葉を聞いている。
シキは何と答えたらいいか分からず、言葉を失ってしまう。
宿屋の一室は、四人いるとは思えない静寂に包まれていた。
だがしばらくして、ミコはある事を思い出し、静まり返った空間へ声を発する。
「あの……エーテルの流れが分からないという事は、つまり治療は出来ないという事でしょうか?」
「ああ。外傷の方は既に塞がっているみたいだし……、私に出来る事はもう何もないね」
今さらそんな事を確認をして何が言いたい。シキはミコの不明瞭な発言を疑問に思った。おかしな奴と改めて言われているようで、いい気分ではなかった。だが、シキは今ここで重要であるはずのある話題をすっかり忘れていた。
「という事は、シキさんの記憶は戻せないのでしょうか……?」
……あ。
シキとサラは声を合わせて思い出す。
エーテルの流れが無い事、そしてそれが無いと生き物の定義に反するという事。
その事に躍起になっていた場の空気が一転する。
そもそも、何故エーテルを調べていたのか。そもそも、どうして治療が必要だったのか。
「……本当にどうにもならないのか」
「…………悪いね」
シキには記憶がない。取り戻す手段も白紙になった。身体を支えていた力がすっと抜けていく。言葉にならない虚脱感が、じわじわとシキを心を蝕んでいく。
記憶が無ければ、エーテルと呼ばれるものすら持っていない存在。まるでこの世界にいてはならない、雑音のような存在だと世界から否定されている気さえした。
どうしようもない居心地の悪さを覚える。今ここでベッドに座っている事すらやめて、どこかへ逃げ出したくなる。嫌な汗が流れ始め、呼吸を整えるのもそろそろ限界を迎えそうだった。
落ち着きを与えるはずの宿屋の一室には、重い空気が張り詰めていた。その時だ。
「シキさん」
ミコの一言が、再び重苦しい沈黙へと響き渡る。
「落ち着くまで、ここでしばらくゆっくりしてください。宿泊費は取りませんから」
混乱するシキに、救いの手を差し伸べたのはミコだった。
突然の申し出に思わず顔を上げ、ミコの顔をまじまじと見つめる。
「いい……、のか?」
「もちろんです! 困っていたらお互い様ですよっ。そうだ、気分転換に外を歩いてみるのはいかがでしょう? 近くには商店街もありますし、何か思い出すきっかけになるかもしれませんよ」
心を覆うもやのような虚無感が、ゆっくりと引いていく気がした。
どこの誰とも分からない自分を、それでもと気に留め心配してくれる優しさ。そんな感情が、帰る場所も分からないシキに、小さな居場所を与えてくれていた。
「……すまない」
一言だけ、伝える。それが今のシキに出来る精一杯だった。