その2
爆発的に瘴気の渦がバルコニー全体に広まり、一瞬で人長に収縮すると、その渦巻きせんどうするモザイクを見つめる市民たちの固唾を飲む一拍を置き、不気味な静寂が四方を駆ける。
少女の声は月夜によく響いた。
「私の子供たちをさ迷える腐乱死体へと変えるのはいつだってあなたたちの無思慮と無理解に他ならないの。そもそも、墓所を永久の寝所と扱うのはあなたたちの勝手よ。ここで食べて寝て起きるのは私たちの自由、騒音がご迷惑でして?うるさいわ、近所付き合いご結構。あなたたちにも死者の人権は尊重してもらうわ」
墓標を胸壁に見立てる市民があちらこちら、
血気盛んに打壊しへと志願したそんな市民たちの中にも当然怖じ気づく者がいる。
彼らは頭が足りている者たちだった。背筋に垂らされた一滴の冷水が、真の邪悪さの波紋だと理解したのだから。
「人権・権利・義務・報復。何を小難しきゃず」
バルコニーを見上げる赤い二つの瞳、その双眼の持ち主は緊張を孕んだ胸を膨らまし、一言一言を滑舌よく発したが、続く言葉をつかえ、軽く咳払い。
「人権・権利・義務・報復。何を小難しく考えます、これは騎士道物語には付き物の化け物退治でございますよ。騎士へ相対するは一千年もののヴィンテージグール」
自身を騎士へと見立てる、キャスケット帽に腕捲りしたワイシャツとジーンズをあわせた今時の娘っこはムアーテイ夫人の興味をひく。
最近の娘って皆無鉄砲よね。
これから死んでしまうとしても、見栄えとか、口上なんかばかり気をやってしまうのだから。
命って何よりも尊いのよ。この世に一つしかない物なんて人の魂くらいのもの。あなたの滑らかな心臓のラインを自慢げにひけらかされると、私ガミガミやりたくなるわ。
キャスケットの娘が思い出したかのように、サーベルの切っ先をバルコニーに定め、片手を腰にあてポーズを決める。
夫人は蠢く闇の衣の間から、赤い瞳と視線を交わした。
「でも……あなたの場合、仕方ないのかしら。そのきれいな顔立ちだと、人一倍に視線も集まるだろうし、だから格好も大事になるのよね」
「うん?……もしかして、意志疎通のできないタイプ?」
緋色の混ざったブラウンの長髪は珍しい色合だわ。無根拠な自信の色も目付きによく似合っているわね。墓石へ片足を立てちゃって、胸を精一杯に反らしちゃって。自分がこれから死ぬなんて、つゆとも思っていない。
あぁ……なんて、可愛げがある娘なのかしら。
「私はね。……あなたのすべてが好きよ」
「んん?」
赤眼の娘は投げ掛けられた言葉から真意を汲み取ろうとしてか、一瞬構えを少し下げる。
(銃声)
カピロテ頭巾の男の発砲と同時に、闇の渦がバルコニーから流れ落ちる。
たちまち等身を崩した渦の後には、ムアーテイ夫人の姿はない。
察しの良い者は夫人が地上に降りてくることがわかった。
「ディアス嬢!土くれの言葉なぞに耳を貸してはならんぞ!」
闇は地に音もなく落ち、銃弾と火球がそれを迎える。
ディアス嬢と呼ばれた赤眼の娘から、十数歩先の所に落ちた渦は一瞬炎に呑まれると、低く垂れ込む黒い濃霧に変じた。
ディアスはサーベルを構え直し、カピロテ頭巾を一瞥。
「ごめんなさいペタン卿!」
「前だけ見ておれ!」
館の白い漆喰に数えきらぬ銃痕が穿たれた、火球魔法の残り火がそれを照らしている。
ざわめき、ざわめき。
濃霧が再び人の姿に戻ることはなく、地に染み渡ると、安堵の息をつく幾人もの人々。
彼らの内の誰一人として、小さく握られたムアーテイ夫人の手のひらの温度を知りはしないのだった。
夫人の腕が死者達にとってどれほど長くのびることか、どれほどに死者達がその抱擁を求めているのことか、すべてが死のベールを越えた先の話だ。
静寂をカピロテ頭巾のペタン卿は破り、周りへ号令する。
「まだ油断するな!きゃつは胴を寸断したとて殺せはせんぞ!」
(銃声、銃声、銃声…)
警戒を促すペタン卿の指示が昂った市民たちを刺激したのか、狙いもでたらめに撃ちならされるピストルと小銃。
(跳弾)
ディアス嬢は首をすくめる。
「ッ!もしも、私を撃ったら!只じゃおかないから!」
銃声にろうした生者たちの鼓膜にディアスの声は届かない。それは、発砲音に紛れ、つい今しがたから土を起こす振動や棺の蓋に爪をたてる亡者の唸りを誰も気にかけないように。
(銃声、銃声、そして恐怖を帯びた叫び声…)
ディアスは傍らの棺の蓋が跳ね開けられると、速くサーベルを振り下ろし、棺ごと亡者を真っ二つに切断する。
「リビングデッド!?」
彼女は辺りを見回した。
いくつもの引き倒されるシルエット、銃口をふらふらと方々へ向け発砲する影。それに飛びかかる欠損が見える人間の姿、背を向けて逃げて行く腰抜け達。そしてこちらに駆けよるカピロテ頭巾のペタン卿。
「素人どもめ、銃口を下げんかッ!同士討ちになるぞ!」
「卿、敷地中ってこれどんな規模ですか!」
「構えを崩ッ?これは、ムアーテイ夫人!?」
ムアーテイ夫人。背後へと向けられた白髪の少女を示すその呪い言葉を耳にして、ディアスは自身の戦慄く頬を笑みで噛み潰した。
「先手必勝!」
彼女は振り向き様に足元の墓石を蹴り砕き、正面へ数多の破片を振りかける。
(闇)
そこには闇が実存した。眼前には館はなく、墓石の山もない。芝生とむき出しの地面が自身から数歩先で断絶し、夜が雪崩れ落ちてきたかのような真っ黒な闇がそそり立っている。
石片が深層へ吸い込まれていくと、ディアスは転がるように後退する。
「えっ!?」
闇が迫り来ている。
ディアスはその現実離れした事実に、生物として底知れない恐怖を抱いた。
(卿!)
期待のこもったディアスの眼差しは逃げ去るペタン卿の背中を捉えた。
「これが、経験の差かぁ」
また一歩と闇が進み、墓場中から一斉に声があがる。
「ムアーテイ!おぉ、ムアーテイ!我らはあなたを祝福しよう!」
嗚咽するかのように、しゃがれた叫び。それは爛れた喉から発せられた、死者達の賛美だ。
(雑魚グールなんて、物の数でもないけど。あぁ最悪、背を向けたら闇から何が飛びかかってくるか)
ディアスはキャスケット帽を脱ぎ、素早くそれを闇に放り込んだ。
(闇)
闇がまたまた一歩進み、立ち止まった。
(むむ?)
「この可愛いらしい帽子、頂けたということからしら」
ムアーテイ夫人だ。少なくとも彼女が闇の奥に存在していることをディアスは考慮にいれた。
「まだ買ったばかりだから、後で帰してもらうからね」
ディアスは一度深呼吸を挟み、サーベルを鞘に戻す。
(ここは死地だ。後ろには亡者ども、眼前には強大な敵。幸いなのは、夫人は私をなめくさっておいでであること……そう、なめくさっておいでで)
「このライラ・マリア・ディアス!若輩者と侮って頂いて結構!明日の勇名も今日の無名、あんたを八つ裂きにして名をあげてやるわ!」
ディアスはサーベルを鍔走らし、
「秘剣五連真空切り!」
闇へ、つま先を踏みいれた。