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5.


 プサン行きの船が神戸から出るのが3日後。横浜出港が今日の夕方。弓音はおやつの時間までにシッピングマークを揃えないといけない。それが終わったら、船の到着を待ってすぐに銀行に持ち込むためのレターオブクレジットという手形のような書類を揃える。こんな時代になってもまだ手作業で行うことの多い貿易書類の数々を手順ごとにクリアファイルに入れて弓音は小さなため息をついた。眼鏡の縁で乱反射している水はねの汚れが気になる。右袖の引き出しにいつでも入っている眼鏡ふきで擦りながらモニターで書類のチェックをして印刷コマンドを押した。

 「できませーん」

 江田の可愛い声が営業部に響いた。あはははーと、笑う声が続く。それから上司の萱野かやのは目を細めて「頼むよお」と、書類の束をぽんぽんと叩き、弓音の様子を伺った。弓音は萱野がこちらの様子を伺っているのを知りながら、気がつかないふりをしてプリンターへ向かった。プリンターの上でシッピングマークを確認する。

 (── 貨物番号、LC番号…オッケー、)


 商社が母体の小さな貿易会社の営業部は程ほどに活気があって程ほどに仲もよく程ほどに忙しい。女性はただの事務仕事でそれなりの給料をもらえるだけだが、割り切ってしまえばどうということもない。女が一線で働こうと思ったら、この会社はとてもいい会社とは言えなかったが、まだうら若き江田のような女子や、弓音のような既婚の契約社員には働きやすい会社だった。


 ファックス機の操作パネルに三桁で記録されている取引先の短縮番号の半分以上は記憶している。乙仲さんと呼ばれる通関業者の短縮番号を押して弓音はまた少し感慨にふけった。

 (弁当屋をやってるんだ…)

 弁当を入れたビニール袋を渡す航の太い腕。紙幣を受け取り小銭を渡す少し節くれだった指。腕を曲げ伸ばしてクロスを畳む肩幅。ランチバッグを渡してくれたときに笑った向かって左側の笑窪。眼鏡のブリッジで眼鏡を直す仕草。


 大学を卒業してから初めて再会したのが共通の友人の結婚式だった。それはいまから何年前だったろう。そう、10年前──。それから、その年の秋に二人で大学の文化祭へ行った。それから、その後一度だけ呑みに行ったことがあった。それはたしか8年前。神楽坂の駅で待ち合わせた時、あの時、航はスーツを着ていたはずだ。紺色のスーツ、白地に青とグレーのオルタネート・ストライプのシャツを着ていて、衿とカフが無地の白だった。面白いシャツだなと思ったから良く覚えている。そんなおしゃれなシャツを着ているのは彼女の趣味なのだろうか、そう思ったけどもちろん尋ねることはしなかった。航は確か金融系の会社に勤めていたのではなかったろうか。居酒屋で黒い美濃焼きの徳利を持った手を思い出す。あのとき、「この人はこんな手をしていたんだっけ?」と思った一瞬の戸惑い。


 「中倉さん、中倉さん」

 その時、コピースペースの入り口からこちらを覗き込んで弓音を呼んだのは、朝一で直行した営業先から戻ってきた黒岩だった。壁をノックした左手をそのままにして優しい物腰で微笑んでいる。整った顔立ちは年齢よりも若く見える。それとも、若く見えるのはその華奢な体型のせいだろうか。サイズも色も形も彼によく似合うスーツは仕立ても良さそうで、実際誂えているのかもしれなかった。

 「どしたの?怖い顔して。」

 「あ、お帰りなさい。まじめな顔してるだけですよ、いつもヘラヘラしてたらおかしいでしょ?」

 「ただいま。いや、いつもおかしな位ヘラヘラしてんじゃない?ねえねえ、ところでさ、さっそくで悪いんだけど、見積もりをお願いできない?」

 「もちろん、いいですよー」

 黒岩は弓音よりも4つほど年上だから今年40歳のはずだ。それで奥さんが彼より2つ下の38歳。子供はいない。愛妻家で有名な男だ。何かと言うと「うちの奥さんが…」と言うので、実際には男性的にもけっこう魅力のあるほうだと思うのに外見ほどはもてなかった。



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