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10.

 衝動的に押した送信ボタンから親指を離してすぐに押してしまったことを後悔するべきなんじゃないだろうか、と思った。弓音は、面倒くさい色々な考えから逃げるように携帯電話のフリップを閉じて、スタスタと足早に商店街を歩いていった。スーパーに着いて、いくつかのカップラーメンとカップスープを見繕う。会計を済ませてスーパーを出たときに、財布と重ねて持った携帯電話が短く震えた。




 『了解~。今日?明日?何時?どこ?』


 航だった。その返事が、当然のような気もしたし、意外な気もした。失恋確認記念だ、と航に言うべきだろうか、そんなことを思いながら航の電話番号に発信した。社内にいるのだろう、落ちついた声でビジネスライクに受け答えする航は、まるで知らない男のようだった。



 その週の金曜日だったろうか、待ち合わせた駅に現れた航はスーツを着ていた。「似合わない」と弓音は言って航は「うっさい」と答えた。航が「ちょっと行ってみたい」と言って調べてくれていた飲み屋へ足を向けるのについて行った。半歩先を歩きながら、航は相変わらず憎まれ口をきいた。それを一言だって聞き漏らすまいと弓音は少し背伸びをするように歩いて、程なくついた居酒屋で近況報告と罵りあいを適度に挟んで楽しく飲んだ。その時間はまるで学生時代の続きのようであるのに、たった二人だけでいることにほんの少し違和感を感じた。でもそれは、居心地が悪いというのではなく、──。



 憎まれ口の応酬をして社会人らしい愚痴のやりとりをして、気の置けない相手とそんな時間を少し過ごしてみたら、そうか、知らぬ間に失った恋などたいしたことではない、と思った。新しい恋もきっとすぐに見つかるだろうという気がした。それが、いま目の前にいる男ではないことだけが確かだとしても。「何かあった?」と聞かない。「恋人はいるの?」とも聞かない。お互いにけしてそのことに触れないでいる。お互いに相手がそれを言い出さないことも知っている。それは知り合ってからずっと保ち続けたお互いの距離感からそうするのであって、優しさからそうする訳でもなかったが、でもいまはその距離がとても優しいと感じた。



 程ほどに呑んで、笑って、悔しがって、終電の少し前くらいには、駅で「ばーか、ばーか」と手を振った航が見送ってくれた。




 そう、それから8年経った。



 8年の間に、弓音には新しい恋人ができて、その男からプロポーズを受けて、寿退社をして、結婚して、── それから、風の噂に航も結婚したと聞いた時も、たった一つのメモリの削除を怠った。携帯電話の中にいまもある、そのメモリを忘れていたわけではない、ただ、なんとなく、そのままにしておくのが正しいような気がし続けただけだった。それでいて、「元気でいるのか?」と尋ねるメールすら打ったことも、もらったこともなかった。



 大門 航 ダイモンワタル watadai@・・・・



 watadai@・・・・




 『お に ぎ り と … 』



 都下に入った急行はスピードを落として、もういくつか目の通過駅をまたひとつ通過した。車窓を撫ぜる町の灯りは思い出を照らしては弓音の視界を去る。




 『おにぎりと豚 じ る ──汁、お い し』



 弓音は不意に気づく。人差し指の爪先、淡いベージュピンクのマニキュアが爪の根元に少し浮いていて、左の爪でこりこりとこすると、人差し指の爪は哀れなくらいにはげちょろになり、踏みつけられた桜の花びらのように見えた。



 『おにぎりと豚汁、美味しかった。ごちそうさま。ポット、来週返すね。』




 送信ボタンを押そうとする指先が躊躇う。── 届くのだろうか。【送信】を押したとしても、もしかすれば届かないのかもしれない、短いメールを何度も読み返す。





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