壱
「この事件、犯人は君だね?」
癖の強い黒髪を無造作にまとめただけの緩い三つ編みに、陰湿なイメージを与える大きな黒縁の眼鏡。そんな典型的な文学少女と言いたくもなりそうな彼女のすらりとした細い指と眼鏡の奥からのじとりとした眼差しが向けられているその先にいたのは、僕だった。
「……何してるんですか、先輩?」
けれど僕はそのすべてを無視して、ずっと腕に抱えてきた数冊の本を机の上に置いた。
「なんだ、ノリが悪いな。もう少し私の趣味に付き合ってくれてもいいだろう」
「だって先輩、新しい本を読むたびに不意打ちで僕に模倣を仕掛けてくるじゃないですか。この前なんか漫画の模倣してませんでした? 正直疲れますし飽きてきました」
「む……」
少し不満そうにふくれっ面を見せる先輩を横目に、たった今できた机の上の山から一冊引き抜く。それは子供向けの推理小説だ。とは言ってもこの部屋に存在している本はすべて推理小説に分類されるものばかりである。コナン・ドイルにエドガー・アラン・ポー、それに赤川次郎といった有名どころは著書が全部そろってるんじゃないだろうか。なんならさっき言った通り、有名どころであれば漫画だって置いてある。
ここは、推理オタクな先輩の中二心をくすぐるのには充分すぎる。
先輩――穂村華との出会いは、なんてことないものだった。僕が入学して間もないころ、学級委員を請け負ってしまった僕は、授業で使った教材を資料室へ置いてきてほしいと先生に頼まれてしまったので鍵を片手に向かったところ、その資料室の前でドアノブをガチャガチャと回しながら佇んでいる女生徒が一人いるではないか。
「はっ……まさか、密室殺人事件!?」
「なわけないでしょ」
と思わず腕に抱えていた教材で頭をはたいてしまったのが始まりだった。のちに彼女が三年生の先輩、穂村華であり、三年生の間だけでなく教師陣、さらには別の学年でも有名な推理オタクであることを知った。
父が無類の読書好きゆえに存在する我が家のどでかい書斎に大量の推理小説があることを伝えてみるとするすると食いつき、こうして時に数冊持ち出しては先輩に貸し出し、ものによってはこの資料室に蓄積していき、昼休みや放課後はもちろんのこと、時間が許す限り読みふける。いつしかそれが僕たちの日課になっていた。
「ところでワトソン君」
「渡里です」
「…………。ところでワトソン君」
「さては直す気ないですね? いいでしょう、それで要件は何でしょうか」
「君はシャーロックホームズの物語でどの事件が一番のお気に入りかな?」
読み終えた本が一冊、積み上げられた山の上に重ねられる。文字通り手の空いた先輩は机の上で両手の指の腹を合わせた。たった今話題にも出たシャーロックホームズが考え事をするときに取るこのポーズが先輩の中でブームらしい。昨日もやっていた。特に当たり障りのない質問のはずなのに、無駄に大真面目な眼をしてる。
「そうですね……一通り読み込んではいますし、どれも捨てがたいです。全作品、という答えでは駄目でしょうか?」
「無論、駄目だ」
「ですよねぇ」
予想はできた返しだ。ともすればなんと返せば先輩のお気に召すだろうか?
なにより僕はホームズ好きなれどシャーロキアンというわけではない。いや、それを言ったら先輩自身も今ホームズにはまっているだけでシャーロキアンかどうかはわからない。とにかくシャーロキアンは怒らせるとやばい、というのが僕の持論だ。あれほど面倒な人種もなかなかいないんじゃないだろうか。昔絡んできた奴なんて……って、今はこの話は関係ないんだった。
「どれか一つ選べと強要されるのなら、あえて言うと『恐怖の谷』ですかね」
「さては君、モリアーティ教授のファンだね?」
「さすが先輩、ご名答です」
「いやなに、単純な導き出しさ」
先輩の言うとおりだ。『恐怖の谷』と言えばホームズの宿敵であるジェームズ・モリアーティが登場しその奇才天才ぶりを発揮する物語だ、たとえ先輩でなくても、いやホームズを知っていれば誰でも簡単に思い至るだろう。僕ですら、きっと同じ答えを出している。
自らは決して手を下すことのないその悪の象徴ともいえるモリアーティ教授に惹かれた人は少なくないはずだと僕は思っている。いつか同志を見つけて語らいたいくらいだ。
「先輩はモリアーティ教授、好きですか?」
「ふむ……興味はあれど好きには至らないな」
それはとても残念だ。どこかにいい同志はいないものか。
「ところで、先輩が好きな事件はどれなんですか? 僕に聞いといて自分は答えない、は無しですよ」
「私か? 無論『赤毛連盟』だ」
「それ有名回じゃないですか」
赤毛連盟と言えば、ホームズの中でもユーモアのある不可思議な事件の一つだ。事件が奇想天外なのはいつものことながら、推理していないようでしっかり推理しているホームズや思いがけないラストに度肝を抜かれたのをよく覚えている。そういえばあの話にも実は裏でモリアーティ教授が関わっていたんじゃないかって考察があったのをネットで読んだ気がするな。
事件は、奇妙な依頼人が運んでくる。質屋の店主である彼は見事な赤毛であり、店員である青年に連れられるままに、欠員が出たという“赤毛連盟”の募集場所へと赴き、そしてその見事な赤毛を見初められてメンバーとなる。そこで彼は毎日指定された時間に指定されたことをしなければならいのだがそれはとても単純な作業であり、しかも多額の給料を得ることができるようになった。
ところがある日、赤毛連盟は忽然と姿を消した。事務所は空き物件となり、責任者とは連絡も取れない。不信感を覚えた彼は、行方を追うため真相を得るためにホームズを訪ねたのだった。
「では先輩がその事件を好きな理由をざっくり400文字でどうぞ」
「私の思いをたった400文字で済ませようというのかね」
「済ませてください」
「断る、と言ったらどうする?」
「済ませてください」
「……なぜそこまで400文字にこだわるのだ」
「原稿用紙一枚分です。気持ちいいじゃないですか」
「この数字狂め」
失敬な。数字ほど美しくて端的でわかりやすいものなんてあるもんか。
先輩に対し数字の美しさを伝えるための講義でもしてやろうかと口を開きかけたその時、何の前触れもなしに資料室の扉が音を立てた。
「推理オタクの穂村華がいるって言うたまり場とやらはここかしら……」
ノックもなしに開いた扉から入ってきたのは、正統派女子、簡単に言うならば先輩のようなぼさぼさした人とは程遠い、髪が綺麗で香水を振って少し制服をアレンジしているの感じのthe・JK。クラスで態度デカめのリーダー的なことしてそうだ。
「いかにもそうだが、君は?」
「私は鶉。花嵜鶉よ。今日は推理オタクに折り入ってお願いがあってきたの。もちろん聞くわよね」
凄い上から目線だ。見た目通りの態度だ。
「それでお願いって言うのが、うちの部活メンバーを探してほしいのよ」
「ふむ、失踪事件か? だが人探しなら本職をあたってくれたまえ。あくまで私はしがない推理オタクなのでな」
「だからこそあんたに頼んでるんじゃない。探してほしいって言っても別に失踪してるとかじゃないのだから警察に言うわけにいかないでしょ。学校にだってちゃんと来てるわよ。けどね、私だけ会えないの、私だけ連絡が取れないのよ」
「つまり……どういうことですか?」
「察しが悪いわね一年坊主」
本当に態度悪いなこの人……って、あ。学年カラー三年生じゃん、先輩じゃん……。
「つまり避けられてるのよ。せっかく誘ってもらった部活もいつの間にか解散されてるし、教室に行ってもいつもいない携帯も着信拒否! 向こうから誘ってきたくせになんでこんなことするのかとっ捕まえて聞き出してやりたいのよ! だから面倒事を押し付けても構わなそうなあんたにそいつを探し出して私の前に引きずり出してほしいの!」
「……ふむ、だいぶお怒りの様子だな」
「当然でしょう? 『あなたのような人こそこの部活に入るべきだ』なんてスカウトされて、これでも二ヵ月ちょっと楽しめてたのよ。それなのに突然音信不通だなんてどういう了見よ!」
取り乱す花嵜先輩はもちろんのこと、僕は思わずその話の中身が異常なまでに気になった。なんだか、どこかで似たような流れの物語を聞いた気がする。むしろついさっき話していたような……。
思わずつぶやいた言葉に、やはり先輩も小さく頷いた。
「先輩、これって……」
「ああ……まるで赤毛連盟だな」