260.優香(1)
昔から、母は父に暴力を受けていた。それを暴力だと理解したのは小学生になった時だった。兄と共にそれを遠くから見ていた。それを見て、兄は目を見開いていた。きっと、同じ事を思っているのだろう。いや、思うよりも先に、大きな恐怖という感情が、体を支配し震えた。
父は母を殴る。母は我々を殴る。そんな関係だった。母はお酒が好きだった。今になって考えると、きっと現実逃避の意味合いもあったのかもしれない。幼いながらにお酒ばかりを飲む母が心配であった。
そして時は流れ小学生年長になった。そんな生活にも慣れ始めていた。それが、怖かった。この生活が、普通だと感じてしまう事実に。
学校では至って普通に生活していた。いや、普通に見える様に努力していたのかもしれない。側から見たら普通では無かったかもしれない。実際友人は一人しかいなかった。それでも、十分だった。一人だって構わない。自分にとっては、一人だろうと百人分愛せる大きな人物だった。
だが、そんなある日。
父の暴力は、母だけに止まらなかった。父に初めて殴られた日は、その衝撃に何も考えられなかった。母からはよく暴力を受けていたものの、それの比ではない。やはり、男というものは、こうも力が違うものなのだろうか。
それからは何度もそれが続き、時期に毎日殴られる様になった。それと共に笑顔も消え、周りから人が離れていった。唯一の、最も大切だった友人が、白い目でこちらを見据え離れていった。中学の頃だ。周りからは汚いと言われ、いじめを受けた。当たり前である。髪はボサボサ。愛嬌もない。そんな人が、受け入れられる筈がない。それは分かっていた。嫌というほど、父はそんな現実を突きつけた。殴りだけなら、どれ程マシだったか。
こんな自分にも、いいところがあるらしい。それは、発育の良さだった。父が言うには、母に似て、いい体らしい。そんな言葉をかけながら。
ーー父は、私の身体を欲望の捌け口に使った。
痛かった。苦しかった。身体の異常も多くあったものの、それ以上に。心が、崩れて。それをされる度に、全て壊れてしまう気がして。周りの皆とは、違うと言われている様な気がして。
自分は"それ"以外何もないのだと、突きつけられた。
それは毎日の様に繰り返された。怒りと性欲をぶつけられる毎日。母は酒を飲み目を逸らし、兄はこちらを見ていた。助けてくれなんて言わない。ただ、見ないで欲しかった。
父は怒りを見せる事が多くなった。仕事が上手くいかないらしい。お金がないのだ。子供二人を養うのは大変だと良く言っていた。それを支えるためにも、バイトを始めた。年齢的には難しいのだが、そこは偽って始めた。だが、バイトは苦では無かった。唯一家から逃げられる時間であり。
唯一、自分が普通で居られる。そんな気がしたから。
だから、それ以上に望むものなんて無かった。このまま、ただバイトに逃げて、家に戻り現実を見せられ、次の日にそそくさと学校に駆け込み、いじめを耐え、バイトに逃げ込む。それで良かった。
良かったというのに。
『あのっ、、俺とっ、そのっ、付き合ってくれませんか!?』
真っ直ぐな瞳で、そんな事を告げられた。真っ直ぐ過ぎる程に、彼は清々しく、優しく。彼と共に居られるだけで、話せるだけで、満足だった。それだけで良かった。だからこそ。
『あ、えとっ、す、すみませんっ!』
思わず、逃げ出してしまった。
幸せだった。これ以上なんて、望めない。怖かったのだ。幸せになる事が。これ以上を、経験してしまうのが。きっと、彼と長く時を共にしたら、嫌いになってしまうだろう。こんな、不甲斐ない自分に。そんな不安と、恐怖。そして、この幸せを思い出とし、それ以上の幸せもそれ以上の苦しみからも、目を逸らしたかった。
帰り道、後悔した。それは、答えにではない。真剣に、真っ直ぐ伝えてくれた想い。恋愛なんて全く考えてこなかったが、あれが本物だという事くらいは分かる。きっと、傷ついているだろう。そう思うと、胸の奥が締め付けられた。
ー巽君、、ごめんね、、ああ、もう、ほんと私の馬鹿、、こんなの、最低じゃん、ー
頭を押さえる。だが、こんな最低な奴。彼女になんてならない方がいい。それを改めて理解した。これでも良かったのかもしれない。これで彼が最低だと理解し諦めてくれるのならば。そんな、逃げに対して正当化してしまう自分も嫌だった。だが、それなのにも関わらず。
次の日彼は、慌てて現れた。
頭を下げた。それは、こちらがするべきものなのに。
それからも普通に接してくれた。楽しかった。前と変わらず、やはり彼と話している時は全てを忘れられて、楽しくて。何だかポカポカした。それでも、前とは違う感覚。ずっとどこかに、罪悪感があったのだ。
彼は自分を好きである。それが、分かっているから。彼から見受けられる僅かながらの恋愛感情に、とても戸惑った。自分なんて、恋していいはず無い。彼に迷惑をかけてしまう。それは分かっていた。だからこそ何度も引き離そうと、距離を取ろうと奮闘した。
またあの時の様にいじめられ、それに彼を巻き込んでしまうから。恋愛なんて家庭内で認めてくれる人間は居ないから。そして、ここまで腐り、汚れている自身を、好きになんてなってくれないと。分かっていたから。だからこそ、話した。
それを話すのは辛かった。笑顔が引き攣っていたかもしれない。彼にはどう見えただろうか、それを想像してまたもや苦しくなった。それでも、なんとか伝える事が出来た。自分がどれ程汚れていて、弱くて、普通じゃないかを。
それなのに。
『そんな辛い事、考えない様にした方がいいですね!』
またもやそんな真っ直ぐな瞳で、彼はそう放った。
そして彼は、続けて提案をした。それはとても大きくて、無謀で、怖い事。そんな事をしたら、まだ幼い我々はどうなってしまうのだろう。父に見つかったらきっと今まで以上に恐ろしい事になるだろう。具体的な事は分からなかった。ただ、その見えない恐怖に、体を震わせた。ただそれだけではない。彼にもまた、苦しめてしまう可能性だってある。自分なんかと一緒に抜け出して、それで、悪い目を向けられたら、耐えきれない。彼は立派である。自分が居ない方が、もっと上手く出来るはずだ。だからこそそんな提案に、簡単に頷く事は出来ないと。そう考えていた。それなのにも関わらず。
「よろしくお願いしますっ、!」
連れ出して欲しい。こんな世界から、抜け出したい。どうなってもいい。彼となら。話を聞いてそんな提案をしてくれた彼になら、全てを預けてもいい。そう、思ってしまったのだ。重いかもしれない。それでも、その気持ちは、抑えきれなかった。
「い、、いいん、、ですか、?」
「っ」
気づいた時にはそう口にしており、対する目の前の彼は目を輝かせていた。まるで予想外だと言わんばかりに。
だが、嬉しそうに。
「は、、はい、、寧ろ、、いいん、ですか、?」
「はいっ、、えと、あーっと、ま、まあ、抜け出すのは、、少し先になるかもですけど、、その、」
「わ、分かってます、、えと、その、今の言葉は、それだけじゃなくて、そういう、、事、ですか、?」
「っ」
「わ、私で、、いいん、、ですか、?私、もう、すっごく、、汚れてるんですよ、?世間知らずだし、、普通じゃないし、、最低だし、」
「それは、、誰の意見ですか、?」
「え、」
「たとえそれが一条さんの考えでも、親の考えでも、あるいはクラスの人の考えだろうと、それと俺は一緒じゃないッス。もし本当に世間知らずで最低なら、、そういうところも見てみたいです。一条さんのそういう全てを、、見てみたいんです」
「っ」
彼はいつも真っ直ぐだった。
いつも純粋であった。
そんな彼のその言葉で、初めて自分は。優香は、優香という一人の存在になれた気がした。
☆
あの日を境に、二人は恋人同士となり、半年が経った。互いに詮索をするのを控えていたため、距離感を覚える点はいくつかあったものの、時期に互いに心を許し合い、断片的ではあるがそれぞれの過去。それに対する思いを打ち明けた。その度に拓篤は宣言した。二人で抜け出そうと。二人なら出来ると。その度に優香は思った。今はそれでも、楽しくて、救われていると。
時間が合う日はとても少なかったものの、合う時は必ず二人で出かけた。きっと、この歳のカップルと比べると、明らかにデートの回数は少なかっただろう。だが、それでも十分だった。バイトで会えるから。それも勿論あるものの、数ヶ月に一回のデートは、今までの人生の中で最も輝いて、美しく思えた。
だが、そんな中、優香はどこか寂しそうに遠い目をした。
「...ど、どうしたんですか、?」
「えっ、あ、ううん、、なんか、、凄いなぁって、」
「え、?」
「巽君、、凄いよ、」
歯嚙みしながらそう呟いた彼女は、苦しそうに目を細めた。拓篤はとても純粋で、素敵な人である。どんな時でも前を向いて、優しく、それでもしっかりと自分に厳しく、進んでいる。話を聞く度に思う。拓篤は、優香と同じ様な環境である。性的な暴力が無いだけで、家庭内暴力のみで考えれば、彼の方が恐らく悲惨な現状だろう。それなのにも関わらず、彼はあんなに前を向いて、純粋である。それを見ていると、救われる反面、自分の不甲斐なさに憤りを覚えた。
「...凄くなんて無いですよ、、全然。俺からしたら、一条さんの方が、、よく、今まで頑張ってきたなって、思います」
「...」
拓篤の言葉に、一度悩む素振りを見せたのち、優香は覚悟を決めて、ずっと隠してきたそれを告げる。
「巽君、、私。あのね、、前に、十六歳って、、言ってたでしょ、?」
「...は、はい、」
「実は、、じ、十、、四、なの、、まあ、こ、今年、十五になる、けど、」
「...そ、そうなんですか、?」
「え、?う、うん、」
意を決して放ったそれに、予想以上に驚かない拓篤。それに、逆に優香は驚く。
「え、、お、驚かないの、?」
「べ、別に、、そんな、変わらなく無いですか、?」
「だ、騙してたんだよ、?ずっと、巽君の事、、信用、してくれてるのに、、私はっ」
「そんなの。年齢偽る人いっぱい居ますよ」
「え、う、、うん、そ、そっかぁ、、そっかぁ、」
「えぇっ!?なんで泣いてるんですか!?」
「ご、ごめんね、、なんか、、はは、馬鹿みたいだなぁ、、私、」
「え、?」
「ずっと、怖かった、、それ、言うのが、、ずっと騙してた事、バレるのが、怖かった、でも、、そんなの、私が勝手に巽君にレッテル貼ってただけだったんだなぁって、、ほんと、性格悪いなぁ、、私、」
「そうですか?」
掠れた声で俯き気味に放った彼女に、拓篤は優しく告げた。
「俺はそうは思わないです。一条さん、、きっと、バレたら俺になんて言われるか分からないから怖かったんですよね、?それって、その、俺を、想ってくれてるって、、ことで、」
「そ、そりゃそうだよっ!」
「ふふ、、そっか、、ありがとう、!なら、寧ろ俺は嬉しいです!俺の事想ってくれて、だからこそ怖くて。なのに、こうして話してくれて。強いですよ、、一条さんは、」
「っ、、やっぱ、、眩しいなぁ、、巽君は、」
優香は、またもや自己嫌悪に陥った。彼が明るく、優しく、それを受ける度に、そんな自分の心を締め付ける様な。そんな感覚に陥った。でも、彼と共に居れば、少しでも変われると、そう信じて。彼に、少しでも近づける様に足を進める様に。
それから、優香は相談を、悩みを。全てを、彼に話す様になった。めんどくさいと思われるかもしれない。そんな不安はあった。彼はいつも大丈夫だと言うけれども、それが本当かは分からないため、いつも不安だったのだ。だが、それでも話して欲しい。もっと知りたい。そう言ってくれた彼の言葉を信じて。そして、少しでも変わりたいという思いが強かったから、優香は続けた。
それに、拓篤は喜んで受け入れた。寧ろ、嬉しかったのだ。今まで彼女は色々なものを隠してきた。それ故に、自分は頼りにはされていないのか、と。それを思うと、どこか辛くて、拓篤もまた自己嫌悪に陥った。だからこそ、こうして話してくれる事が嬉しくて。今の現状が奇跡の様で。優香が居るだけで、世界が変わった。今まで生きてきた人生は何だったのだろうと思う程に。
だが、それから悩みを打ち明ける様になり、距離がどんどんと近くなる中。
優香はふと、驚愕の言葉を、バイトのスタッフルームで小さく、告げた。
「巽君、、巽くっ、、ひくっ、ごめんねっ、」
「えっ」
バイト先に行くや否や、彼女は泣いていた。それに嫌な予感を覚えながらも、拓篤は恐る恐る口を開いた。
「どう、、したの、?」
「実は、、ね、」
「っ」
小さく告げられた一言。少し悩む素振りを見せながらも、意を決して。お腹を摩りながら呟いたそれに、拓篤は頭の中が真っ白になった。
「デキ、、ちゃったの、」
それが、拓篤との子でない事を理解し、二人はーー
ーー絶望に嗚咽を漏らした。




