257.拓篤(1)
『拓篤は立派だから、碧斗を、守ってあげてほしい。拓篤は、お母さんが守るから』
そんな弱々しい声で放たれた。だが、覚悟が見て取れるそれを、何度思い返しただろうか。その言葉に、何度考え直させられただろうか。分からない。だが、それ程大切で。忘れられないものなのは、確かだ。
小学生の巽拓篤には、弟が居る。弟といっても一歳差。だが、一歳差とは思えない程、彼は自身よりとても弱かった。
巽碧斗。それが、弟だ。弱くて、いつも不安げで。何も知らない。だが、だからこそ守らなくてはと。いつも強く思っていた。自分がしっかりしなくてはと。拓篤はいつも目を光らせていた。
初めてそれを知ったのは物心ついた四歳の時だ。変な音がいつも扉の向こうで響いていた。夜、街が寝静まった後。拓篤は目覚めた。その、異様な音に釣られて。
「...?」
隣で寝ている碧斗を見たのち、拓篤は歩き出す。恐らく、父とゴミだろう。何をしているのだろう。そう思い、拓篤はその音を頼りに進んだ。
そこには。
「っ」
何故か、父がゴミを殴る光景が、広がっていた。その意味を知ったのは二年後。拓篤が六歳になった時だ。
あの時の不思議な光景が忘れられず、だがどこか恐怖を覚えていた。故に、その後夜にあの音が鳴っていても、その場所に足を運ぶ事は無かった。
だが、もう一度、見てしまったのだ。好奇心というものは恐ろしい。トイレに起きた拓篤は、扉が開いていたのもあり、その部屋を覗いてしまった。その時、ボヤがかかっていたそれが鮮明に浮かび上がり、理解した。
父は、母に暴力を振るっていると。
拓篤は相談した。父が仕事に行っている間、母に小さく、大丈夫?と。それだけを告げた。その一言で、何かに気づいた様だ。母は、崩れそうな表情で、大丈夫大丈夫と笑った。その大丈夫なわけがない表情は、今でも覚えている。
どうすればいいのだろうか。六歳の拓篤には、その方法が分からなかった。学校に行き、先生に話そうとしたものの、どこかで父と繋がっているのではないかと。子供ながら恐怖し話せなかった。誰に話せばいいのか、分からなかった。警察に話す様な事では無いと、思っていた。だからこそ悩んだ。自分は、どうすればいいのか。どうすれば、母を助けられるのか。
それから拓篤は、母をゴミでは無く母さんと呼ぶ様になった。
碧斗は相変わらず母にべったりである。殴られた痕にも気付かずに、笑ってゴミと呼んでいる。それが、苦しかった。
ー碧斗になら、ー
拓篤は一度、碧斗に相談しようと向かった。だが。
『拓篤は立派だから、碧斗を、守ってあげてほしい。拓篤は、お母さんが守るから』
拓篤が母に相談をしたあの時から、母に何度も言われた言葉。それを思い返し、踏み止まる。母を助けたい。だが、それ以上に。
碧斗を、守らなくてはならないのだ。
それが、母との、約束だから。
なら母は誰が守るのか。そう自分に問うたものの、結局碧斗にそれを話す事は出来なかった。
ある日、夜中にいつもの音が響いているのに気づいた。またいつものかと。拓篤は歯嚙みしながら布団にくるまった。だが。
「っ」
ふと、ギシッと。床が軋む音が響き、拓篤は目の色を変える。近い。いや、隣である。音は遠くで鳴っている。故に母や父では無いだろう。ならば。
「っ!」
拓篤は思わず起き上がった。冷や汗混じりに隣を見据えるがしかし、そこには既に碧斗は居なかった。
「クッ」
とうとうこの時が来てしまったかと。拓篤は起き上がると、その音へと向かっていく。すると、いつものドアの前。碧斗が不思議そうにドアに近づいていた。いっその事、あの時碧斗にそれを見せてしまった方が、楽だったのかもしれない。だが。
母の言葉が過った。
「俺が、守らなきゃ、」
拓篤はそう呟くと共に。
「...な、なんだ碧斗。起きちゃったのか?」
「お、お兄ちゃん、、なんか、変なの聞こえるよ、?」
「外が騒がしいみたいだな、俺も目が覚めちゃったよ。じゃあ、お兄ちゃんが絵本でも読んであげるから。ほら、戻るぞ」
「う、うん、」
碧斗はどこか寝ぼけている様だ。それに安堵しながらも、拓篤は碧斗を連れて部屋へと戻り、小さな豆電球の灯りをつけて、絵本の読み聞かせを行った。それからというもの、碧斗が起きたのに気づいた時にはいつもこの様に部屋へ戻らせ、読み聞かせをした。それをすると、碧斗はいつも直ぐ眠りについた。
「...ほんと、お子ちゃまだな」
拓篤は碧斗の寝顔を見ながら小さく呟いた。一歳しか違わないというのに、どうしてこうも子供なのだろう。拓篤はそんな呆れを覚えたものの、それ以上に。
「ふっ」
それが愛らしくて。守らなくてはと。覚悟を決めた。
ー俺が、碧斗も母さんも。救ってみせるー
具体的な方法は浮かばない。それでも、今自分が出来る精一杯をしようと思った。昼間であろうと夜であろうと。碧斗が父の暴行を覗こうとした時には別の話題で離れさせ、母が危ない時には父に言葉をかけ、意識を分散させた。そのせいで暴言を吐かれたり、最近は軽く殴られる事が多かったがしかし。それ以上に、殴られた拓篤を庇うために母が前に出て、いつも以上に怒鳴られているのを聞いたそれの方が、何十倍も辛くて痛かった。
七歳になった拓篤は、周りの大人に頼ろうと意識を変えた。警察に言っていいものかと思っていたが、以前放送されていたドラマで、似た様な事をしていた男が、捕まっていた。故に、これは通報するべき事だというのも、そしてそれを実現させるために証拠というものも必要な事も。拓篤は理解し録画を試した。スマホなんてものは持っていないため、内緒で母の携帯を使った。
だが、それがいけなかった。
「なんだこれはっ!?」
「っ!し、知らないっ、本当に知らないの!」
「お前の携帯だろゴミ!ふざけんな、、ずっと、録画して、、どこかに出すつもりだったのか?もう既にどこかに出してるのか!?」
「だっ、出してないっ!本当に知らないの!」
「白ばっくれやがって!」
いつも以上に声を大きく、そして力が強かった様に見えた。母は泣いて懇願していた。そんな姿に、拓篤は自分がやったと、言い出せなかった。
ー最低だ、ー
何をやっているんだ。助けられていない。誰一人として、助けられていない。碧斗だって、本当の意味で救えてはいないだろう。どうすればいいのだろう。最近は父に警戒されているのを感じる。拓篤がそれを理解し何とかしようとしているのを、察知されているのだろう。最近は父に誘われ外に出かける事が多くなった。殴られてはいない。暴言は吐かれるし、引っ張られたりはする。その力が強くて痕になるのは日常茶飯だ。だが、そのどれよりも。
「ゴミを庇うのはやめろ。あいつは何も出来ない、ゴミという言葉すら勿体ないやつだ」
「っ」
それが、許せなかった。どうやら、母と父は愛し合っていたわけでは無いらしい。今になって考えると、お見合いで無理矢理だったのか、デキてしまったのか。理由は不明だが、昔は良かった。の様な話もないため、初めから狂っていたのだろう。だが、そんな事も考えられないその時の拓篤は。
「ふざけんなよっ!ならどうして母さんと一緒に居るんだよ!?だったらお前がっ、お前が一人で出ていけばいいだろ!?俺はっ、母さんとっ、碧斗の三人でっーーごはっ!」
思わず声を荒げてしまった。今考えると、よくそんな事が出来たと感心する。
だがそれ故に、当然だが殴られた。
「何も分かってないんだな。いいぞ、三人で暮らしても。それで、暮らせるといいけどな」
「っ」
「働いているのは父さんだ。ゴミはただ家に居るだけ。それで、暮らせるとでも思うか?」
「暮らせる、、暮らしてみせる」
「随分と信じてるんだな、ゴミを。でも、ゴミは何も出来ないぞ。だからこそ、出来る事をやらせてるんだ。出来ないから、出来る事だけやればいいと言ってやってるんだ」
「え、」
「そんな奴と一緒に暮らして、なんとかなると思うのか?」
「お、俺が、、働く、」
「冗談はやめろ。その歳で働けるわけないだろ」
「...」
父の言葉に、拓篤は口を噤み目を逸らす。何も、出来ないのか。母は。自分は。
「ま、ガキには難しいかもしれないけどな。でも、そんな簡単に三人で生きてくなんて言うもんじゃないぞ」
父はそう言うと、車から出る。それについて行く様に拓篤もまた足を踏み出す。
「ど、どこに行くの」
「そこまで言うなら、父さんの職場を見せてやる。少し、働く事を覚えた方がいい」
父はそう告げると、職場を見せてくれた。父は工場に勤めている様だ。何やら部品を作ったり、機械を動かしたりしているらしい。拓篤は、今では失礼だと思うが、これくらいならと。そう思いながら、絶対に早くに稼げる様になり、みんなを解放してやると。強く思った。
それからというもの、拓篤は父に従った。それは、利用して金を稼ぐ方法を得るため。それもあったが、一番は碧斗と父を接触させたく無かったからだ。彼には、出来る限り母との時間を多く与えたかった。彼には、何も辛い思いをさせたくなかった。それは母も同様である。もう、辛い思いをしてほしくはない。だからこそ、拓篤が無理に父を誘導して距離を取らせた事もあった。歳を重ねるごとに、その意識は大きくなっていった。
だが、そんなある日。
「っ」
「何だよ、」
学校から帰ると、家が燃えていた。あのオレンジ色に燃え盛る炎を。広がる火の粉を。今でも尚鮮明に覚えている。
「嘘、」
意味が分からなかった。火事。その言葉は知っていたし、これがそうなのだろう。だが、受け入れられなかった。まさか自分の家が、その火事になっているなんて。
「嘘だっ、嘘だ、」
信じたく無い。そんな思いで、その家に近づく。と、その時。
「おおっ、危ないぞ!」
「はっ、離せよっ!中にっ、俺のっ、家族がっ!」
それを止める様に、近所のおじさんが拓篤を押さえた。それに、バタバタと動き、抵抗すると、そのおじさんは口を開く。
「まずは、通報しよう。救助隊の人達が、助けてくれるよ」
諭す様に、おじさんはそう拓篤に言い聞かせると、共に通報した。これで大丈夫。そのおじさんは、そう言った。だが、拓篤は信じられなかった。駄目だ。これでは。守るんだ。そう、約束したんだ。碧斗を、守らなくては。母を、助けたいんだ。
拓篤はそう強く思いながら、涙を流して走り出す。
嫌だ。何も出来ていないでは無いか。ただ救いたいのだ。母を。碧斗を。絶対、助け出す。そう、思った矢先。
自分がずっと守ろうとしてきた。救いたいと願っていた相手が。一瞬にして、消えようとしているのだ。そんなの。
ー絶対嫌だー
拓篤はがむしゃらに走った。じゃあ自分は何のために頑張ってきたんだ。誰のために、これから生きればいいんだ。大切な二人が。家族が居ないなら、そんなの。そう考えた、矢先。
「なんだ、これ、」
「っ」
父が、帰ってきた。
「っ!とっ、父さん!大変っ!大変だよっ!早くっ、えとっ、早く助けに行かないとっ!あっ、碧斗がっ、!」
「...いや、いい」
「えっ」
拓篤は慌てて父に駆け寄り、子供ながらに懸命に放つものの、彼は低く呟いた。
「どうして!?どうしてよ!?早くしないとっ、母さんもっ」
「まだ母さんと呼んでるのか」
「そっ、そんな事どうでもいいよっ!早く!」
拓篤はしがみつき、そう声を上げるがしかし、父はしがみつく拓篤を軽く蹴り、距離を作ると、尚も首を横に振る。
「はぁ、チッ、実家に戻るか」
「えっ」
「拓篤。車に乗れ」
「な、何で、、どうして行かないの!?どうして待たないの!?母さんがっ、母さんと碧斗がっ!」
「いいから乗れ!」
「っ」
父が強く放つと、それに拓篤は驚愕し、歯嚙みしながらも車に乗る。すると、父は小さく、ざわざわとする近所の人達を遠い目で見据え放つ。
「実はな。近所で噂になってるみたいなんだ」
「う、噂、?」
「家庭内暴力だ」
「っ」
「そんな事、広まったら、お前も、碧斗も終わりだ。既に亡くなっている可能性も高い。それなのに通報して、助けられないのにも関わらず、父さんが捕まって、お前を一人にするわけにはいかないんだよ、」
恐らく、通報した事によって近所の人達にその話を出されるのが怖いのだろう。実際に火災発生時家に居なかった父は、目をつけられるに違いない。だからこそ、逃げたのだ。
父のその綺麗事を聞いて、少しでもありがとうと思った拓篤自身を呪いたいと、今では思う。
その後は父と二人での生活が始まった。実家に帰ったものの、祖母は既に他界しており、祖父は入院していたため、実家には誰も居らず、拓篤と父の二人であった。もう既に母は居ない。もう一度やり直そう。二人で生きていくのだ。拓篤はそう思った。
父がゴミだと言っていた存在はもう居ない。ならば、少しは変わるのではないかと。
そんな、生ぬるい考えを、していたのだ。
それを一瞬で打ち壊す様な日々が、始まる中。




