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第八話 同級生が働く定食屋

 僕は夜の十時半頃になると、近所の定食屋へと向かった。

 そこでは僕の知り合いが働いていて、僕が来ると料理やご飯の量などを特別に増やしてくれるのだ。

 なので、お腹が減っている時などは頻繁にというほどではないけど足を運ぶ。

 もちろん、家でも夕食は食べられるが糖尿病の父さんのために薄味の料理を作らなければならないことが多い。

 それだと、どうしても物足りなくなるのだ。

 

「お、来たか、直也」


 僕が店の中に入ると、白の従業員服を着て、額にはちまきを巻いた背の低い男が現れた。彼の名前は小野亮と言って中学の時のクラスメイトだった。

 中学の時はあんまり親しくなかったけど、今はこうして気楽に話せる間柄だ。

 

「カツ丼と味噌汁を頼むよ」


 十一時に店は終わるので、今の食堂には客が一人もいなかった。

 

 ま、僕も客が少なくなる時間帯を見計らって来たんだけど…。


「ああ」


 そう言うと、亮は店の奥に消えた。それから十分ほどで、カツ丼と味噌汁を運んでくる。


「いつものようにカツ丼は大盛りにしておいてやったぜ。でも、こんな夜遅くにカツ丼なんて食べると太るぞ」


 亮は僕の向かい側の席に腰を下ろすと、はちまきを取った。もう今日はお客が来ないと思っているのだろう。


「体重には気を遣ってるから大丈夫だよ。その証拠に僕はちゃんとスマートな体型をしてるだろ」


 体重が増えたりすると、母さんがうるさいからな。


 父さんがあんな状態になって以来、母さんも健康のことについては殊更、敏感になったし。


「そうだな」


「それよりも、亮はいつになったら、店長になれるの。もう十年、以上もこの店で働いているんでしょ?」


 僕はかなり大きめのカツを食べながら尋ねる。


「まあな。でも、ここ二、三年は、店長も色んな料理を俺に作らせてくれるようになったから、あともう少しってところだ」


 亮は額の汗を拭いながら言った。


「そっか。なら、亮が店長になったら、もっとサービスして貰おうかな」


 亮が店長なら、一週間に三回はこの店に来ても良いかも知れない。


「今以上のサービスは正直、無理な注文ってもんだぞ。お前、この店を潰すつもりか?」


「冗談だよ。この店に潰れられたら、僕だって困るし」


 僕は茶にするように笑った。


「だよな。でも、俺の作ったカツ丼はマジで旨いだろ。自慢じゃないがカツ丼だけなら、店長よりも上手く作れる自信があるんだぜ」 


 亮は鼻の頭を擦りながら言葉を続ける。


「それは凄いね」


 確かに、今、食べているカツ丼は美味しい。僕もカツ丼は作れるけど、どうしたってお店の味には適わない。

 今度、作り方を教わろうかな。


「だろう。で、お前はこれからどうするつもりなんだ。このまま父親の介護だけをしているわけにもいかないだろ」


 亮は真面目な顔でそう切り出してきた。


「それは分かってる」


 会う人みんなに同じようなことを言われる。働いた方が良いと言わないのは、あの浪川君だけだ。

 やっぱり、人から信頼を得るのに、働いているというステータスは大きい。

 働いているから信頼できるというわけじゃないんだろうけど、無職の人間に対する風当たりは強いから…。

 

 テレビのニュースを見ても、犯罪を犯す人間は大抵、無職だし。だから、人によっては僕のことを犯罪者のような目で見る人もいる。

 その人が、自分の親戚だったりするのだから、本当に世間は冷たいなと思う…。


「なら、早く仕事とか見つけた方が良いんじゃないのか。もう三十五歳なんだし、新しい仕事に着くにはギリギリの年齢だぞ」


 亮は気遣うような目で言った。


「だから、僕もアルバイトの情報誌なんかはこまめにチェックしてるよ」


 でも、今の状況では働くのは無理だ。

 もちろん、働けないのを父親の介護のせいにするつもりはないけど、やっぱり時間的にも体力的にも今は厳しい。

 だから、母親も僕には無理をするなと言うのだ。僕まで倒れたら、ウチは本当に悲惨なことになるから…。

 

 そして、心療内科の先生もはっきりと僕に「頑張らないでください」と言って来る。頑張ろうとする意思が心に負担をかけることになってしまうから。

 でも、この苦しい状況の中で頑張ろうとしてはいけないというのはなかなか難しい注文だ。

 

(一体、僕にどうやって生きろと言うんだろうな…)


「なら良いが、どう足掻いたって、親はお前よりも早く死ぬんだ。そうなったら年金だって貰えなくなるし、お前、甘いこと考えてると生きていけなくなるぞ」


 亮は僕以上に危機感を滲ませる。


 こういう本音の言葉を浴びせてくれる人間は大切にしなければと思う。本当に冷たい人間は何も言ってはくれないから…。

 祖母の葬式の時ように、露骨に無視をするだけ。その無視が一番、辛かったりする。

 

 とにかく、健二なんかも僕に良い勤め先を紹介してくれたりもするし、働くという選択肢は捨てるべきじゃないな。


「それはちゃんと理解しているけど、今は先のことを思い煩う余裕はないんだ。一日、一日を乗り切るだけでやっとだよ」


 僕は浪川君が言ったキリストの言葉を思い出していた。


「そっか」


 亮は一拍、置いてから口を開く。


「ま、お前も休日になると俺が智春を車椅子に乗せて、公園を歩いてるのは知ってるだろ。そうしてると、けっこう昔の知り合いに会ったりするぜ」


 亮は事故で全身麻痺になった智春の親友だったのだ。

 なので、定食屋が休みの日は良く智春の車椅子を押しながら、近くにある大きな公園を歩いている。

 亮が定食屋で働いているのを知ったのも、公園でバッタリ会った時だからな。

 

「でも、みんな智春を見ると、嫌な顔をしてさっさと話を終わらせちまうんだよな。まったく、世知辛い世の中だ」


 亮は少し拗ねたように言った。


 他人の不幸を直視できる人間は少ないからな。だから、自分はああはなりたくないと思って、つい目を逸らしてしまう。

 他人の不幸を真っ正面から受けとめられる人間になれたら、どんなに立派か…。

 

(でも、今の僕は自分の不幸を受けとめるだけで精一杯だ。他人の不幸まで受けとめられるような人間にはとてもなれない…。

 だけど、僕の家の不幸を見て、目を逸らさずに助けになってくれた人はたくさんいた。だから、いつか自分も同じことができるような人間になりたい…)


「全身麻痺になった同級生なんて、みんな見たくないからだろ」


 僕も智春の精気が抜けたような顔を見てぞっとしたからな。それから、数年後に父さんが同じ状態になるとは想像すらしていなかったけど…。


「そりゃそうだけどさ」


 亮は唇を上に向けながら言葉を続ける。


「だけど、俺みたいにいくら働いても、生活が楽にならないと、障害者認定を受けて何もせずに暮らしていける智春が時々、羨ましくなるよ」


 亮ははちまきをギュッと握りしめながら言った。


「なら、亮も全身麻痺になりたいって言うのか。僕はそんなの絶対にご免だぞ」


 あんな状態になってまで生きたくはない。

 

 生きるも地獄、死ぬのも地獄、なんて言葉は前々から聞いていたが、今の父さんがその状態だし。

 将来、僕も年を取るとあんな状態になるかもしれないことを考えると、本当に胆が冷える。

 

 ちなみに僕も障害者認定の二級を受けている。なので、市からは様々な優遇を受けていた。ただ、免許証の更新の時はけっこう苦労したけど。

 受付の警察官に統合失調症ですって言ったら、幻覚が見えたり、幻聴が聞こえてきたりするんですかって言われたし。

 その時は僕もどう答えたら良いのか分からず保護者で、まだ元気だった父さんを頼ってしまった。

 もちろん、心療内科の先生にも免許証の更新ができるように色々と書いて貰ったし。

 障害があると、様々な優遇が受けられるが、スムーズに物事が進まなくて困ることも出て来るのだ。

 それを簡単に済ませられると考えていた免許証の更新で思い知った。

 

(自分の病気は自分だけのものじゃない。色んな人がどこかで僕の病気と関わってくれているのだ。

 なのに、僕はそれを忘れるところだった…)


「分かってるよ。ただ、そう考えちまう時もあるんだって。あーあ、俺も早く店長になりたいぜ。そうすれば従業員を増やして楽ができるのに」


 そう言うと、亮は頭の後ろを掻きながら、景気づけにビールでも持ってくるぜと言って、店の奥に行ってしまった。


 お酒は飲むなと母さんからは言われてるけど、少しくらいなら良いよな。別に車に乗ってきたわけじゃないし…。


 一人になった僕は店にあったテレビを付ける(テレビは誰でも一言、言えば付けて貰えるのだ)。


 夜のニュースでは殺人を犯した人間のことが大きく報道されていた。別に殺人なんて、驚くような事件じゃないけど。


 でも、それを見て、僕はふと考える…。


 どうも人間の頭の中には、自分とは異なる色んな人格が潜んでいるみたいなのだ(あくまで僕、個人の経験に基づく見解だけど)。

 それは何かの拍子に表に出て来ることがある。


 昔の僕みたいに…。


 もし、手が自分の意思とは関係なく勝手に動いて、物を盗んだり、人を殺したりしたらそれは自分の罪なのだろうか…。


 ニュースに出て来る芸能人とかは、簡単に人間としての人格がどうとか語る。


 でも、勝手に体を動かせるほどの力を持つ人格が人間の中に潜んでいると、医学で証明されたりしたら、その時はどう言い繕うつもりなんだろう。


 キリストはあなたの手が悪いことをするようならその手を切り離してしまいなさい…みたいなことを言っていた。


 でも、例え手は切り離せても、人間の中にいる邪悪な人格は切り離せないんじゃないだろうか…。


 その一方で、罪を犯すと全て自分のせいですと謝る人がいる。


 でも、あらゆる要因が人に罪を犯させることを、人は知っているはず…。

 それを考慮せず、簡単に自分のせいだと言ってしまう人は、自分しか見えていないんじゃないかな…。

 

 そして、自分の心の中には自分だけしかいない…みたいに考えている人は、頭の中に明らかに自分とは異なる人格がいることなど想像すらしていないに違いない。

 

 それは、いつか罠になる気がする…。

 

(もっとも、本当は人格なんて大袈裟なものじゃないかも知れない。心療内科の先生は対人型の幻聴だと言っているんだから。

 なら、大学中退の僕の言うことより、先生の言葉を信頼した方が良い…)

 

 ちなみに、真理の伝道者のおばさんは、今日は神がこんなことをしてくれたとか、今日は神がこんな風に私を支えてくれたとか、嬉々として語っていた。

 

 なのに、僕が頭の中から声が聞こえてくることを話したら、そんな話は聞きたくない、あなたはサタンの影響を受けているとか言うのだ。


(聞く耳を持たないと言った感じだ。でも、一応、サタンの存在は信じているんだな…)


 それを受け、僕も自分のことは盛大に棚に上げて、そのおばさんのことを、どうかしてるよと思った。

 

 自分の言動のおかしさとか異様さは、自分じゃ分からないんだなと痛感したし…。

 

(自分のおかしいところを正確に説明しなさいというのは、心の病気を抱えていたりする人にとっては、かなり難しいことだと思う…。

 僕も心療内科では、体が勝手に動いたことや頭の中から聞こえて来た声と話したことなどを一生懸命、伝えた。

 それに対し、肝心の先生はというと、一人言が多くならないように気を付けてくださいと言うだけだったので、僕も本当に理解してくれたのかなと心配になった…)

 

 とにかく、自分が感じ取れる範囲のことしか信じない、または信じようとしない人はちょっと危険だと思う…。


 今、自分が口にしている言葉は本当に自分の心から出たものだろうか…。

 

 今、体を動かしているのは本当に自分の意思によるものだろうか…。

 

 それを吟味するのは、決して人生の損にはならないと思う(別にお金を取られるわけじゃないし)。

 

 もし、どんな人間の頭の中にも自分とは異なる複数の人格がいるとしたら…。

 

 その人格たちの中に人を殺しかねないほどの邪悪な奴がいて、知らず知らずのうちに体を操られていたとしたら…。

 

 いや、体を操られなくても、精神的な影響を受けているとしたら…(そこら辺は僕にも分からないぞ。僕は脳科学の専門家じゃないし…)。

 

 もし、そんなことがあるとしたらどう対処したら良いのだろうか…。


(聖書にも、その手の対処法は特に書かれてなかった。ただ、「心は何ものにも勝って不実」という言葉だけは覚えておこうと思った…)

 

 たぶん、今のところは自分の心を強く持つしか手はないと思う。

 

 脳の仕組みがどうであれ、人間は強く生きるように努力しなければならない生き物だから。

 

 それには、自分のやったことを、誰かの、何かのせいにしている限り強くはなれないはず…。

 

 だからこそ、それを理解した上で、自分の心を過信せずに、自分を翻弄するあらゆる感情に備えておく必要があると思う。

 

 それで駄目なら、正直、運がない人生だったと諦めるより他ないのかも知れない。


(でも、足掻けば、足掻いた分だけ良いことがあると信じたい。一生懸命、頑張っている人を見捨てるような辛辣な世界だとは思いたくないから…)


 いずれにせよ、僕は誰が何と言おうと、自分の心と戦い続けるつもりだ。でないと、今度はもっと酷い病気になるかも知れないし…(それを母さんも心配している)。


 だけど、無理な頑張りはしてはいけない。


 心療内科の先生の忠告もあるから…。

 

 自分の中で沸き上がるやる気とどう向き合うか…それが、今の僕に求められていることなのかも知れない。


 …何はともあれ、心というのは本当に厄介な代物だ。


「なーに、難しい顔をしてるんだよ、直也。ビールを持って来たから、一緒に飲もうぜ」

 

 そう言うと、亨は大きなビール瓶をテーブルの上にドンッと乗せた。それから、緑の枝豆がどっさり入った皿も僕の前に置く。


「う、うん」


 僕は亨の気楽そうな顔を見て、やっぱり、亮には病気のことは話せないよなと思いながらビールに口を付けた。


《第八話 同級生が働く定食屋 終了》





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