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第七話 神への信仰

 僕は踊る子鹿亭でオレンジジュースとサンドウィッチを食べると、寄り道することなく自分の世界へと戻ってきた。

 すると、また自分の体がどんな行動を取っていたのかが分かる。

 

 僕の意識が異世界にいる間、僕の体は自分と母さんの分の朝食を作っていた。

 それから、朝食を食べ終えると台所の洗い流しをして、デイケアに行く父さんを車椅子に乗せた。

 そして、迎えに来たデイケアのスタッフの車に父さんを乗せると、自分の部屋に戻ってずっと漫画を読んでいた。

 

 僕の行動としてはおかしなところは何もない…。

 でも、まるでロボットのように何も考えずに行動しているのだ。これには不気味なものを感じてしまう。

 

 僕がピンク色のアイコンに鬱陶しさを感じていると、まだ午前中だというのに玄関のチャイムの音が鳴った。

 母さんは父さんの障害者認定の話で市役所に行くと言っていたので今は家にはいなかった。

 

 僕は仕方なく、玄関まで行くと、入り口のドアを開ける。すると、そこにはピシッとしたスーツを着たビジネスマン風の男がいた。

 普通なら、保険の勧誘員だとでも思ったことだろう。

 

 でも、彼は僕の知り合いだった。

 

 一緒のクラスにこそなったことはなかったけど、彼は同じ小学校と中学校に通っていた同級生だったのだ。

 名前は浪川貴之と言って、真理の伝道者というキリスト教系の宗教団体に入っている。

 その一方で、介護美容師もしていて、美容院に行く事ができない僕の父さんの髪の毛を切ってくれているのだ。

 

「こんにちは、直也君」


 浪川君はいつものような柔和な笑みを浮かべた。どんな時でも優しく、礼儀正しい態度を崩さないのが浪川君なのだ。

 

 でも、そのまるで紳士のような態度を見せられると、同じ学校に通っていた人間とは思えなくなる時がある。

 なので、中学生の時に浪川君と仲良くなれていれば、現在の浪川君のことももっと良く理解できたのになぁ、と残念に思うのだ。


「こんにちは、浪川君」


 僕はぎこちなく笑う。

 

 浪川君と話す時は、僕もできるだけ丁寧な受け答えを心懸けている。健二と同じような話し方は、浪川君にはどうしてもできない。

 ま、友達と言っても色々な人間がいるし、付き合い方もそれぞれだ。それが悪いことだとは僕も思っていない。


「お父さんの具合はどうかな。この間、髪の毛を切った時は体調が良さそうだったから僕も安心してたんだけど」


 浪川君は心から心配しているような顔で言った。


「最近はあんまり調子が良くないかな。母さんも色々な薬を試しているみたいだし、父さんも寝ていることが多くなったから」


 僕は憂鬱そうに言った。


 父さんは、ただ死を待つことしかできない。お婆ちゃんのように、体を悪くしてからすぐに死ぬことができるわけではないのだ。


 僕も病気になった飼い猫の世話をしたことがあるから、その残酷さが良く分かる。


 ちなみにその猫は弥太郎とは別の猫だ…。


 僕が一番、最初に飼った猫は、餌を食べては吐き、また食べては吐くということを繰り返した。

 幾ら動物病院で処方された薬を飲ませても良くはならなかった。

 日が経つごとに、目を背けたくなるほど、どんどん痩せていく。ついには自分で排泄もできなくなりペット専用のオムツを履いた。

 そして、最後には健康な時の姿など見る影もなく痩せ細って、眠るように死んだ…。

 

 僕は動かなくなった死体を見て、泣き腫らした。十年以上も一緒に暮らしてきた飼い猫が死んだのだ。

 それも苦しみ抜いた姿を見せながら。

 死体を揺すれば、またニャー、ニャーと甘えるように泣いてくれるような気がしていた。

 でも、その目に光が戻ることはなかったし、ニャーという一声すら聞こえてくることはなかった。

 

 それを受け、僕はこんな悲しい思いは二度としないと思った。

 

 してはいけないと思った…。

 

 なのに、父さんの脳梗塞とお婆ちゃんの死で、また悲しみに打ちのめされることになった。

 

 人間に限らず動物は、何て死に対しては無力なんだろうと思った…。

 

 幾ら神を信じても無駄だった。もちろん、天国などと言う逃げ道が用意されているとはとても思えない。

 

 でも、浪川君はそんな悲観的な僕の心に一石を投じてくれた…。


「そっか。春が過ぎてだんだん暑くなってきたから、お父さんの体調には気を付けないといけないね」


「そうだね。ま、先のことは分からないよ」


 僕の言葉には若干の皮肉が混じっていたかもしれない…。


「ああ。神も時と予見し得ないことはあるって言っている。なら、先のことは誰にも分からないさ」


 浪川君は僕の言葉にも当て擦ることはなかった。絶対に悪意ある言葉を口にしないのが浪川君の良いところだ。

 もちろん、それは僕も心懸けていることだけど…。


「それで、直也君は最近、聖書を読んでいるかな?」


 浪川君は優しく切り出してきた。


「いや、あんまり」


 僕は首を振る。


 聖書は浪川君がタダで僕にくれたのだ。

 

 なので、せっかくくれた物だから読まないわけにはいかないと思い、僕も暇な時は聖書を開いたりする。

 でも、聖書は細々とした文字で二千ページ以上もあるし、本が好きな僕でも読み切れる気がしなかった。

 

「聖書では先のことを思い患うのは止めた方が良いって教えてくれているんだ。一日の悪いことはその日だけで十分だってキリストも言ってるしね」


「うん」


 その言葉なら僕も知っている。


 僕は主にキリストのことを記している新約聖書の部分を読んでいたから。なので、キリストがどういう活動をしてきたのかは、一応、知識として頭に入っていた。

 

「大切なのは自分の思い患いを全て神に委ねることだよ。そうすれば神は必ず顧みてくれると聖書には書かれてる」


 それも知っているけど、今の僕の置かれている状況は神に顧みられていると言えるのだろうか…。


「それは分かってるんだけど、なかなか委ねられなくて。本当にキリストの神は僕たち家族の不幸を見ているのかな」


 僕はそうぼやいた。

 

 まあ、僕も弱い人間だからな…。だから、自分の身に降りかかる悪いことを時々、神のせいにしたくなる。

 

 でも、そういう時こそ、僕は心を引き締めるようにしている。

 

 神は最も簡単に怒りをぶつけられる相手だから。だからこそ、怒りをぶつけ始めると、それが止まらなくなってしまう…。

 

 もし、神なんて存在しないと思っていれば、その怒りは誰にもぶつけることなく、自分の中で消化できていたはずなのに…。

 

 神の存在は薬にも毒にもなる。


 それは、今までの宗教の歴史が物語っていると思う…。

 

 僕は浪川君と彼が渡してくれた聖書おかげで、神を信じることの難しさを教えられた。もちろん、難しさだけでなく、神を信じることの大切さも教えられた。


 それは、間違いなく人生にとって価値のあることだと思う…。


(それまでの僕は、宗教にはかなり偏見を持っていたからな…。聖書もろくに読まずにキリストのことを胡散臭い人間だと思ってたし。

 でも、そんな人間の言うことを世界中の人たちが信じるわけがない。やっぱり、先入観で、人の善し悪しを判断しては駄目だ…)


 とはいえ、宗教の教えには時々、どうしようもなく腹が立つ時がある。神の本質は愛だとか、神のやることは全て正しいとかいう言葉を聞くと特に…。


「必ず見ているよ。二羽の雀とて神のみ前で忘れられることはないんだ。それどころか、神は僕たちの髪の毛の数すら数えている…」


「そう信じたいところだけど…」


 僕の言葉はあくまで煮え切らない…。


 僕も浪川君みたいな自信に満ち溢れた人間になりたいな(僕にとって、浪川君は一つの理想像なのだ。

 だからこそ、もし浪川君が宗教など関係なく、この性格と態度だったら、僕も心の底から素晴らしいと思えるんだけど…)。


「そこで思考を止めたら駄目だよ、直也君。もう一歩、踏み込んで、人間の髪の毛の数すら知っている神のことを想像してみないと」


 浪川君の声に力強さが宿った。


「そうすれば信仰も強まる」


 浪川君は確信するように言った。


「でも、想像からは、何も生まれないって言うよ」


 僕の言葉は嫌味に聞こえてしまったかも知れない。でも、浪川君は笑みを崩さない。


「ハハ、それは手厳しい言葉だね。でも、想像力を働かせることは決して悪いことじゃないよ。問題視すべきなのは想像力の欠如の方さ」


 浪川君は涼しげな声で言葉を続ける。


「想像力の欠如が人に罪を犯させることは良くあることだから」


 浪川君の説得力のある言葉を聞いて、僕も自分とは役者が違うなと思った。


「そうだね、浪川君の言う通りだよ…」


 神が僕たちの髪の毛の数すら知っているということは希望にも繋がると、浪川君は繰り返し言っていた。

 例え死んだとしても、いつか元通りの形で復活できるから…。

 

 その時、地球は誰もが快適に住めるような楽園になっているらしい。楽園では悪や病気に苦しめられることもないと言う。

 

 キリストの神も楽園では、もはや嘆きも苦痛もないと言っているし。

 

 つまり、僕の父さんも地球が楽園になれば元気になるということだ。それどころか年老いることなく永遠に生きられる。

 

 その教えには僕も大きく心を揺り動かされていた…。

 

(その話が本当なら、死んでしまった猫も復活させて欲しいなぁ…)

 

「信じて疑うことさえなければ、神はきっと目には見えなくても確かな力で助けてくれる。それを否定するメリットは今の直也君にはないんじゃないかな」


 その目に見えないという部分に、僕はもどかしさを感じているのだ。


「ごもっともです…」


 浪川君を言葉で打ち負かそうとするのは無理がある。浪川君はどんな疑問にも答えられるように訓練されているから。


 ちなみに、神が使う目には見えない力は、聖霊と言うのだと真理の伝道者の人たちは教えている。

 僕にはその聖霊の力というものが今一つ実感できないんだけど…(しかも分かりにくい)。


 でも、僕は過去に頭の中から聞こえて来る声とたくさん会話をしたことがある。あれが病気ではなく、実は霊の存在だったという可能性も捨て切れてはいないのだ…。


「なら、今の自分を助けて貰えるように強い心で神を信じてみようよ」

 

「それができるなら、僕も楽になれるんだけどね」


 僕は窶れたような顔で言った。

 

 どうして僕の言葉には覇気が宿らないんだろう。やっぱり、僕にとって浪川君の前向きさは眩しすぎるよ…。

 

 でも、その眩しさに負けないようになれば、浪川君とは肩を並べられるような友達になれるかも知れない。


「直也君の心にはまだまだ抵抗があるみたいだね」


「うん」


「であれば、僕は神に祈ることを勧めるよ。神はどんな人間の祈りでも聞いてくださるし、直也君の今は弱い心も強めてくれる」

 

 浪川君はそう信じて疑わないようだった。


「祈りね…」


「そうだよ。祈りはもっとも確実に神への信仰心を育ててくれる行為なんだ。その上、神からの支えも得られる。だから、祈ることの重要性をもっと認識して欲しいな」


 でも、神に祈って支えられたことなど、ほとんどない気がする…。だけど、そう言えば信仰が足りないと言い返されるだけだ。

 

 何かを信じるということが人間にとって、一番、難しいことだというのに…。

 

(でも、そんな風に逃げていては、いつまで経っても人としての進歩はないと思う…。

 だからこそ、僕も言い訳ばかり口にせずに前向きに生きられるよう、一歩、足を踏み出さないと。

 じゃなきゃ、常に前に進み続ける浪川君には追いつけない)

 

「本当に支えてくれるかな…」


 僕は縋るように言った。

 

「もちろんだよ。もっとも、その支えも目には見えないけどね」


 浪川君は言葉を添えるように言った。


「そっか」


 僕は苦笑した。

 

 本当に大切なものは目には見えない。

 

 例えば、吸わなければ死んでしまう空気のように…。

 

 でも、僕は目に見えないものよりも、ちゃんと目に見えるものを大切にしていきたいと思っていた。

 目に見えないものばかりを追い求める宗教の考え方は、どこか間違っているような気がしてならなかったから…。

 

 まあ、目に見える物も、見えない物も、同じように大切にできる人間が、本当に賢い人間なのだろう。

 僕はそこまでの境地には辿り着けないけど…。

 

(もし辿り着けたら、それは人間ではなく仙人や仏様かも知れない)


「とにかく、今度、どこかで食事でもしようか。美味しいパスタを提供してくれる店を知っているんだ」


 前は美味しいとんかつ屋に連れて行ってくれた。


 浪川君はあの健二以上に僕に親身になってくれるのだ。

 

 父さんが倒れた時も、僕と母さんを病院まで車で連れて行ってくれたし、脳梗塞のことについても色々と詳しく調べてくれた。

 

 そういう親切心には僕も感謝している。

 

 だからこそ、浪川君を見ていると、キリストやその神も馬鹿にはできないなと素直に思えるのだ。

 立派な実を生みだしている人間を見なさいとキリストも言っているし…。

 

 少なくとも、真理の伝道者という組織は、浪川君という立派な実を産み出すことができたのだから、胡散臭いなどと言って、切って捨てることはできないと思う。

 

「それは良いね」


「だろ。直也君もたまには気分転換が必要だよ」


「うん。じゃあ、今度、その店に連れてってよ。神はともかく、浪川君の肥えた舌は信じているからさ」


「分かった。じゃあ、その日になったら車で迎えに行くよ。あと、これは今月号の雑誌だから渡しておくね」


 そう言うと浪川君は僕に真理の伝道者の雑誌を渡して去って行った。


 その後、僕は自室のベッドで横になると、浪川君から渡された雑誌をパラパラと捲る。その雑誌には世界の終わりが近いなどと書かれていた。

 この世界はもうすぐハルマゲドンという戦争で滅ぼされる。ハルマゲドンを生きて通過できるのは、真理の伝道者のクリスチャンのみ。

 そして、ハルマゲドンが終われば、キリストが支配する千年王国が誕生する。

 

 そんな内容を見て、僕は何とも言えない気持ちになる(この内容を信じろ、っていうのは、さすがにハードルが高いよなぁ…)。


 ちなみに浪川君は僕が患っている統合失調症のことも知っている。

 僕も自分の頭の中から色んな声が聞こえてきて、その声と会話することができたことを包み隠さずに話したし。

 他にも統合失調症になったばかりの時、体が勝手に動いて裸足のまま家の外の道路に出てしまったたこと。

 手が勝手に動いて、家の壁に色んな文章を書き殴ったりしたこと。


 そんな話を聞いていながら、決して僕を馬鹿にしないところが浪川君らしい…。


 もちろん、浪川君が本当に僕の言葉を信じてくれているのかどうかは頭の中を覗いたことはないから分からない。

 

 他人の言葉を信じるのは、自分が思っていること以上に難しいことだからな。

 

 僕も聖書に書かれていることを全てではないにせよ、信じている部分がある…。

 でも、聖書で書かれていること…、特に奇跡に関係する部分が全て実際にあったことなのだと信じるのは難しい。

 

 頭では分かっていても、どうにも感情が追いついてこないのだ。だからこそ、ちょっとしたことで、聖書に書かれていることなんて嘘だと思ってしまう。

 

 要するに、信じ抜くことできないのだ。

 

 しかも、人間の頭には本能に近い力で、何かを真剣に信じようとする心をねじ曲げる力がある。

 もし、神を信じるというなら、その心の傾向とは本気で戦わなければならないだろう…。

 

 でなければ、神を信じ、その存在を実感することはできない気がする。


(神に限らず、何かを信じるという行為には本当に精神的なエネルギーを使う。

 それは辛いなんてもんじゃない…。

 たぶん、その辛さに打ち勝った人が、何かを信じ抜けるような心を手に入れられるのかも知れないな。

 神の支えなど宛てにしていない僕でも、その辛さに打ち勝てるだろうか…)

 

 とにかく、疑うことほど容易いものはない。だから、みんな疑うことに流されていく…。でも、疑うことが悪いわけじゃない(信じて騙される人間は多いし…)。

 

 真に問題になっているは、疑うことが信じることよりも遙かに簡単だという点だ。

 

 それに、この世界には信じ抜く心を持たなければ、絶対に先に進めない道がある。そして、その道を歩めるかどうかは、これからの僕の頑張り次第なのだ。

 

 であれば、いつまでも心の足踏みをしているわけにはいかない。

 

 まあ、さすがの浪川君でも、僕がファンタジーの世界に行けるなんていう言葉は信じないだろうけど…。

 

《第七話 神への信仰 終了》


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