第三話 気が付けば異世界
僕がハッと目を覚ますと、そこはいつもの見慣れた自分の部屋ではなかった。
何も置かれていない古いアパートの部屋のような雰囲気を漂わせている。壁や床の色は長い年月を経たようにくすんでいるし。
少なくとも、壁の色は僕が暮らしていたマンションとは似ても似つかない。その上、埃っぽい空気も宙に舞っているし、誰かが使っている部屋とは思えなかった。
実際、部屋の中には僕、以外の人間の姿はなかったし、家具なども見当たらない。
何とも殺風景な部屋だ。
そして、そんな長年、放置されていたような部屋の中には窓が付いていて、思わず目を細めたくなるような眩しい光りが差し込んでいた。
その光を見た僕はどこか心が洗われるようなものを感じる。まるで、天国から降り注いでいる光のようだ。
「ここはどこなんだ?」
そう呟くと、僕は何度も目を瞬かせた。こんな場所は僕の記憶にはない。なので、夢でも見ているのかと思った。
とはいえ、白昼夢を見るほど、僕の頭はおかしくなっていないはずだけど…。
とにかく、かぶりを振った僕は窓に近寄ろうとする。
その際、足下に描かれている薄気味悪い魔方陣を見た。魔方陣の中には見たこともないような文字や記号が踊っている。
しかも、魔方陣の形はまるで機械で描かれたかのように綺麗だった。でも、その線は血の色を想起させるような赤色で、まだ真新しさを感じさせる。
まるで悪魔を呼び出す時に使う魔方陣みたいだ。
いずれにせよ、何の意味もない物とは思えない。ひょっとして、僕がこの場所に現れた時に使われた物だろうか。
僕は一旦、考えるのを止めると、吸い寄せられるように窓の外を覗き込む。そして、思わず絶句した。
なぜなら、そこには見たこともないような町の景色があったからだ。
「な、何だ?」
僕は狼狽する。
視線の先には日本ではあり得ない、砂漠の砂を思わせるような黄土色の建物がずらりと建ち並んでいた。
どの建物もまるで古代の遺跡にあるような雰囲気を漂わせていて、現代さは全く感じ取ることが出来なかった。
その上、建物に挟まれた大きな通りには日本人ではない人がたくさん歩いているし、通りの中央には時代遅れな馬車や荷車が往来している。
そんな見たこともない町をもっと分かり易く説明するなら、昔のアラビアの国に西洋のヨーロッパの文化を少し混ぜた感じと言った方が良いか…。
他にも、宗教の雑誌にイラストとして載っていた古代バビロンやペルシャなんかも彷彿とさせる。
こんな町は日本には存在しない、絶対に(例え、中東の方の国だったとしても、ビルが一つもないのは、どう考えたっておかしい)。
とにかく、僕の目の前に広がる町並みは独特の文化の香りを醸し出していた。
そして、町を歩いている人たちの服装も、明らかに現代の日本の物ではなかった。まるでファンタジーの世界にあるような服を着ていたのだ。
それも、砂漠などにある暑い国の服だ(でも、人々の肌は白い)。
更に驚くべきことに大通りを歩いている人たちの中には、剣や槍などの武器を手にしている者もいた。
こんな光景を見せられると、まるで自分はゲームの世界にやって来たみたいだと思ってしまう。
でも、ゲームの世界よりも遥に洗練された印象を受ける。
夢にしてはあまりにもリアル過ぎる気がするし、一体、何がどうなってるんだろう。
「まさか、ここは異世界?」
僕は流行る気持ちを抑えながら、自分にそう問い掛けた。
その証拠に、僕が身につけている服もいつもの物とは違った。しかも、腰にはあまり大きくないが剣まで下げられていたのだ。
随分と用意の良いことだ…。
こういう展開は僕の好きな漫画やゲームにならありそうだ。でも、現実にはさすがにあり得ないだろう。
やはり夢なのか。
でなければ、幻覚か…。
いよいよ、僕の頭は本格的におかしくなってきたのかも知れない。薬はちゃんと飲んでいるんだけどな。
もし、自分の世界に戻れたらすぐにでも自転車に乗って、駅前の雑居ビルの三階にある心療内科に行こう。
先生に言って、もっと強い薬を処方して貰わないと。いつものように「お変わりはありませんね」の一言で済まさせたりはしないぞ。
僕は自分がいるのは建物の三階だなと判断すると、外に出ようとした。
これが夢にせよ、何にせよ、あんな楽しそうな場所に行かないわけにはいかないと思ったのだ。
僕は自分がいた部屋を出ると、すぐ近くにあった階段を下りていく。そして、さっきまで見下ろしていた町の大通りへと出た。
するとムワッとした熱気と嗅いだことのない臭いを感じる。
「凄いな。こんなに活気のある町を見たのは初めてだし、僕の住んでいる寂れた町とは大違いだ」
僕はまるでお祭りのように人で溢れかえっている大通りを前にして、そう声を漏らした。この大通りを見ていると、先月に隣の市で開かれた歩行者天国を思い出すな。
とにかく、こんな賑やかさはそうそうお目にかかれるものじゃない。
特に僕のいる町は人口の流出が止まらず、町全体が寂れてきているからな。商店街の活気のなさなんて目を瞑りたくなる。
大好きだったメンチカツの店も潰れてしまったし。
何の魅力もない町だと思っていたけど、それが寂れていくのを見るのは、自分の心が欠けていくように痛かった…。
(自分のいる場所を大切に思ってしまう心は理屈じゃないんだよな…)
僕はワクワクしながら、人の流れに沿って歩き始める。道の中央は黄色い砂地になっているけど、歩道は整然とした石畳だ。
すれ違う人たちの服も、薄着で肌が露出している。特に女性が上半身に身につけている服は水着にも近いものだったので、目のやり場に困った。
そして、僕はすぐに気付く。
自分のいる町が、最近までプレイしていたラスト・ブレイブ・ファンタジアというゲームの世界に出て来る町に酷似していることを。
もっとも、ラスト・ブレイブ・ファンタジア、略してラスブレはスマホのゲームなので町なんかは粗いドット絵で作られていたけど。
でも、ここは砂漠の中にあり、魔法の盛んな国でもある、ハルメール王国の王都とそっくりなのだ。
僕はラスブレの記憶を反芻しながら町を歩く。すると、すぐに見覚えのある武器屋の前にまでやって来た。
カウンターが通りに面している武器屋の棚には剣や槍、斧などが売られていた。
それらの武器から発せられる迫力は尋常なものではなかったが、品物の名前や値段はラスブレと全く一緒だった。
間違いない。ここはラスブレの世界がリアルに再現されているのだ。
となると、やっぱりここは夢の世界ってことになるな。でなければ、店で売っている品物までゲームと一緒のものになるわけがないから。
でも、肌が焼き付くような暑さは感じる。この暑さも夢なのだろうか…。
「夢なのは確かみたいだけど、どうやったら現実の世界で目を覚ませるんだろう…」
そう言うと、僕は少しだけがっかりした顔をする。本物の異世界だったら、凄いことだと思っていただけに…。
それから、当てもなく大通りを歩く。
もし、夢なら忘れないようにこの景色を目に焼き付けておこう。友達と話す時の良いネタになりそうだから。
僕は喉が渇いたなと思いながら歩き続ける。それから、ギラギラとした強い太陽の日差しを避けるように路地に入った。
日陰になっている路地には何とも怪しげな店が軒を連ねていて、その近くにはガラの悪そうな格好をした男たちがいた。
関わり合いになりたくないような連中だ。
が、そんな路地の奥で、僕は一人の女の子が複数の男たちに囲まれているのを目撃してしまう。
ただならぬ雰囲気だし、これには僕も心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった…。
(クッ!)
僕は心の中で呻いた。
正直、あの中に割って入るのは怖い。
なので、昔の僕なら、見て見ぬ振りをしてしまったかも知れない。
実際、友達が不良からハンバーガーを取られたのをただ横で見ていたことがある。あの時は心に何の痛みも感じなかった。
なのに、今は…。
(くそっ、何で夢なのに、こんなに心が痛いんだよ)
そう心の中で言うと、僕は思わず後退りしてしまう。女の子の怯えている表情からも目を逸らしてしまった…。
だけど、ここで逃げ出したら、大切にしてきた信念みたいなものをごっそり失ってしまうような予感があった。
それは、確信めいた予感だった。
父さんがあんな状態になってからは、僕も曲がったことや後ろめたいことは絶対にしないと心に決めていたからな。
そうすれば神様のような存在が助けてくれるのではないかと、ほんの少しだけ都合の良い期待も寄せてもいた。
でも、ここで逃げたら、そんなささやかな期待も抱けなくなる気がする…。
いや、気がする…じゃない。
絶対に抱けなくなるんだ。
なら、ここが夢か現実かは関係ない!
僕は自分が正しいと思ったことをするだけだ。もちろん、安易に神様に頼ったり、見返りを求めたりはしない。
あくまで自分の心を納得させるために行動するのだ。
今までの僕の思いが単なる自分を慰めるための気休めか、それとも紛れもない本物か、今、ここで試されている気がするし…。
そう考えた僕は男たちの方に向かって歩いて行く。それから、背後から一人の男の肩を掴むと、諭すように口を開く
「どういう事情かは知らないけど、大の大人が女の子に寄って集るのはみっともないよ」
僕の言葉に、肩を掴まれたモヒカンの髪型をした男はギロッとした目をした。どう見ても友好的な人間じゃないし、これには僕も気圧されそうになった。
でも、心の中で逃げてはいけないと言って歯を食いしばる。
(本当に久しぶりだな。何かに対して、誰かに対して、こんなに負けたくないと思ったのは)
別に正義のヒーローを気取るつもりはない。けれど、真っ当に生きたいと願う一人の人間として、この状況を見過ごすことはできない。
もし、見過ごすようなら、僕は漫画とかに出て来る典型的なクズ男になってしまう。それだけは嫌だ。
「引っ込んでろ、兄ちゃん。それとも、痛い目に遭いたいのか?」
モヒカンの男は強面の顔で凄味を効かせるように言った。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
やっぱり、思い一つで立ち向かえるような相手じゃない。
こんな男から女の子を救えるのは、物語の主人公だけだろう。でも、僕はずっと物語の主人公のようになりたいと思い続けてきたはずだ。
だからこそ、腐っていた今までの自分を変えようと努力してきた。その努力がここで逃げたら無に帰る…。
そんなの耐えられるわけがないじゃないか!
「あいにくと痛い思いはしないさ。ここは夢の世界だからな。なら、今の僕はきっと空だって飛べるはずだ」
僕は自分でも何を言っているんだろうなと思いながら、それでもなけなしの勇気を振り絞って男たちと対峙する。
ボコボコにされたって良い。
何なら、殺されたって構わない。
か弱い女の子を見捨てるようなクズにならなければ…。
「この暑さで頭がおかしくなってるみてぇだな。よーし、それなら俺たちが荒療治で治してやるぜ」
モヒカンの男が下卑た笑みを浮かべてそう言った。それから、男たちは一斉に僕に殴りかかって来る。
はっきり言って、僕は喧嘩などしたことはない。体を鍛えたことも特にない。なので、大人の男に勝てる道理はない。
しかも、相手は四人。
でも、ここは夢の世界だろうし、どうにでもなれと自棄になった僕は迷いのない動きで迫って来る男たちの拳を次々とかわした。
それは自分でも驚くような卓絶した動きだった。が、驚いている暇はない。
僕はすぐさま反撃するように拳を突き出す。
すると、その拳は空を切り裂くような早さで、一番近くにいたモヒカンの男の顔に見事、命中した。
モヒカンの男はたったの一撃でもんどりを打って倒れると、そのまま動かなくなってしまった。
これには、三人の男たちも後ずさりする。
僕も思わずポカーンとしてしまった。
「つ、強いぞ、こいつ」
そう声を漏らした男は、明らかに焦りの色を顔に滲ませていた。が、それでも逃げることなく、闇雲な動きで僕に殴りかかってくる。
それに対し、僕は的確に身を捌いて男の拳を避けると、カウンター気味に鋭く蹴りを繰り出した。
その強烈な蹴りは男の鳩尾に突き刺さる。結果、体を折り曲げて倒れた男は白目を剥いてしまった。
僕は倒れた男を見下ろし、ワナワナと震える。
夢とは言え、いくらなんでも今の僕は腕っ節が強すぎやしないか。しかも、男たちを殴ったり、蹴ったりした時に伝わってきた感触は現実のそれだ。
ここは本当に夢の世界なのだろうか。
いずれにせよ、強い自分に悪い気はしない。その強さに助けられたのも事実だから。とはいえ、あまり無茶をし過ぎると痛い目に遭う気がする。
もっとも、痛みを感じた時は夢から覚められる時かもしれないけど…。
「に、逃げろ」
残り二人の男は、勝てないと判断したのか背を向けて逃げ出してしまった。
これには僕もほっとする。
例え女の子に絡むような男たちであっても、殴ったり、蹴ったりするのには抵抗があったから…。
筋金入りの平和主義者なのはやっぱり日本人だからだろうか。
(でも、誰かを傷つけることに、痛みを覚えるのを忘れたら駄目だよな。その痛みが人として大切なことを教え続けてくれているような気がするし…)
僕は哀れみすら誘う男たちを追いかける気にもなれず、買い物袋を落としていた女の子に歩み寄った。
「大丈夫?」
僕は女の子の足下に落ちていたリンゴのような果物を拾い上げる。
「あ、はい」
美しい白金色の髪を腰まで伸ばし、透けるような白い肌を持つ女の子は僕の手から果物を受け取ると、ペコリと頭を下げた。
どうやら、怪我はさせられてないみたいだな。
「余計なお世話かもしれないけど、こういう人目に付かない路地はあんまり歩かない方が良いよ」
僕は男たちが消えた薄暗い路地の奥を尻目に言葉を続ける。
「次は助けられないし」
助けられたのは運が良かったに過ぎないのだ。
それに、この辺の路地には真っ当には見えない店も押し込まれているからな。できることなら、子供は寄りつかない方が良い。
「そうですね。でも、近道だったので、つい通ってしまったんです。そしたら、あの人たちにぶつかってしまって」
女の子はシュンとした顔で言葉を続ける。
「私って本当にドジだから…」
まあ、ぶつかっただけなら女の子の方に落ち度はないと思うけど。でも、もう少し賢く行動して欲しくはあるな。
「そっか」
僕は女の子を安心させるように笑った。すると、女の子の方も口元を綻ばせて、ブルーの瞳を輝かせる。
「とにかく、助けてくれてありがとうございます…。お礼と言ったら何ですけど、私が働いている宿屋まで来てくれませんか」
女の子は本来の明るさを取り戻したような顔で言葉を続ける。
「そしたら、お父さん自慢の美味しい料理をご馳走します」
そう言った女の子の笑みは僕にとって、とても眩しく見えた。少なくとも、こんな笑みを僕に対して向けてくれた女の子は今までに一人もいない。
なので、僕は柄にもなく照れ臭くなる。それから、逃げ出さなくて本当に良かったとしみじみと思った。
こんな健気な女の子の笑顔を守ることができたんだから…。
夢とは言え、実に良い思いをさせて貰ったよ。
今度は現実の世界で、迷わず誰かを守れるような真っ直ぐな勇気を出せる人間になろう…(そのためには、僕も夢から覚めたら、少しは体を鍛えないとな)。
「分かったよ」
そう返事をすると、悪い誘いではないなと思った僕は女の子に案内されるまま宿屋へと向かった。
《第三話 気が付けば異世界 終了》