空良と優
ロンドンに行ってから、早くも二日が経つ。
まだ時差ボケで意識が完全に覚醒していなかったが、準備運動をしていると、段々と脳が動くようになってきた。
準備運動の最後、腹筋十回を終え体が温まった所で、琴実が言う。
「では、準備運動はこれくらいにしましょう」
自然体に戻ってから、空良は自分についた土を掃う。
「ところで寿奈。さっきから気になっていたんだが、こいつ誰?」
不意に自分の事を言っているのに気付き、視線を向ける。
そう聞いたのは優だ。
優は空良が入学する前に卒業したのだから、知らなくても当然である。
「この子は、去年からの新メンバーです。
ほら、自己紹介」
寿奈に促される。
指示通り、空良は自己紹介をした。
「私は空良。杉谷空良」
杉谷、という姓を名乗ったからだろうか、優が驚愕の表情を浮かべ尋ねる。
「おったまげた!
寿奈の妹かなんかなの?」
さて、説明すべきだろうか。これは多分、話せば長くなる類のものだ。
空良は寿奈をチラリと一瞥する。
こくりと頷いたのを確認し、空良は事情を説明する。
「正確には、義理の妹です。
前の名前は黒野空良。身寄りが無くて、紆余曲折を経て寿奈姉さんの所で暮らしています。
冬季大会の前に」
過去を思い出し、少し苦笑いになる空良に、優は難しそうな顔をした。
「な、なるほどな・・・・・・。
なんか、寿奈が自分から作った友達って複雑な事情の友人多いよな」
「そうですかね?」
「気付いていないのか・・・・・・」
全くだ、と空良は心で思う。
自分といい、芽衣といい、その芽衣の教育係であるという真友といい、寿奈に出来る友人というのはろくな事情を抱えちゃいない。
と、今までろくに友人が出来た事のない自分が言えることなのか疑問だが、それが空良の思っていることだった。
「それでは、どのような感じで練習しましょうか?」
皆の前に立つ琴実が意見を求める。
合同練習と言うからには、年長者である琴実が全員の指揮を執るのがセオリーではあるが、空良達と琴実達では一番近い大会が違う。
故に、分けるべきだと判断したのだろう。
「それでは、私と真宙ちゃんと秀未ちゃんで感謝祭の練習、そして先輩達は感謝祭の練習、空良ちゃんがその手伝いをしながらというのはどうでしょう?
勿論、お互いに対してアドバイスはしながら」
何故自分が優達の手伝い、と疑問に思ったが、それは寿奈の顔を見て察した。
寿奈が空良を信頼しているからこそ、先輩達を助けて欲しい、と思っているのだろう。
空良は、それを確信して嗤った。
寿奈も、それに気付いた空良の顔を見て笑みを返す。
そして二人は、別の場所へと向かう。
空良は琴実達、寿奈は真宙達と共に。
「では、練習を始めましょう。
まずは基礎体力をつける為に、この公園を五周します」
琴実の指示通り、空良達はスタートと定めた場所まで移動する。
そのまま足で引かれたラインの上に、空良はその上に手を乗せた。
クラウチングスタートの構え。
そして眉を潜め、走るコースを目で捉える。
「スタート!」
合図と同時、空良は、手を放して地を蹴った。
そのまま道女と琴実を追い抜き、優の背中が少し近付いたところでペースを緩めた。
そこで少し驚いた。
優は『Rhododendron』でも足が速く、寿奈でさえ追いつこうとすればスタミナが切れてしまうと謳っている程の俊足の持ち主だ。
最近ランニングをした覚えが皆無故、自分の実力がどの程度なのかを知ることは出来なかったが、これは予想外だった。
最後にランニングした時は、周回遅れは当たり前で、寿奈に励まされてゴールしたくらいだったというのに。
今では、『Rhododendron』一の俊足を抜かしつつある。
大きく呼吸をし、少し口元を歪めてから、空良はスピードを上げた。
それだけで、空良は優と並んだ。
「優先輩、お久しぶりです」
驚いた顔を見せる優。
だが一瞬で、それは笑みへと変じた。
「やるじゃねえか空良。だけど、私の全力に勝てるかな!?」
「うわッ!」
優が加速する。
そのまま空良を突き放し、二週目へと入った。
「はァ・・・・・・はァ・・・・・・」
結果はというと――全く追いつけなかった。
優は体力をほぼ切らすことなく四週走り切った。しかし、空良は三週目の途中でばててしまった。
先輩達に励まされながらゴールはしたが、最初の練習から体力を使い果たし、満身創痍で最後まで挑み。
空良は木に背中を預け、体を休めていた。
「お疲れ」
優がそう言いながら差し出したのは、タオルだ。
有難く受け取り、顔を拭い、そのまま優に返す。
「練習、大変だったろ?」
「そういうわりには、余り疲れているように見えませんね」
表情などから推測して話す空良に、優は笑って答える。
「まあそりゃあ、今まで色んなスポーツやってたから、体力と丈夫さには自信があんだ。
格闘技とか水泳とか陸上とか、色々だ」
「格闘技をやってたんですか?」
空良はそれに食いつく。
実を言うと、空良は格闘技に興味があった。
昔から格闘ゲームのキャラには憧れを持っていたが、お金があまりないのと体が弱いのを理由に断念していた。
「何だ、教えて欲しいのか?」
「出来れば、でいいですよ」
空良は気付いている。
格闘技をやってみたい理由は強くなりたいだけじゃない。
スクールアイドルのダンスにも、格闘技の一部を使用する振付があり、何か優の持っている技で使えそうなものが無いかを知り、盗みたいのだ。
「そうだな・・・・・・」
優は静かに呟いてから、上から下へ空良の身体を調べるように手で触れた。
杉谷家の恩恵に与っている現在はやめたとはいえ、昔からの援助交際で触れられることに慣れてしまったからだは、あまりくすぐったさを感じない。
一通り調べ終えてから、優は穏やかに告げる。
「確かに、今のお前の体力と、そして今調べた筋力なら格闘技をやる資質が十分ある。
だが・・・・・・明日は私も大会がある。長い時間は付き合えない。
三時間だけ付き合う。その間に、私の技を盗んでみろ」
「はい!」
空良は歪んだ笑みで、それに返事した。
「先にホテルで待ってるね~」
笑顔で手を振り、公園から立ち去る寿奈。
それを確認してから、空良は正面に立つ優に視線を向ける。
「では、これより奥義の伝授を始めるぞ。
と言っても、三時間と時間は限られているから、二つの蹴り技を覚えてもらう。
つまり、二時間で二つ習得した後、残りの一時間は組み手だ」
かなり無茶な事だ。
そもそも技というのは、時間を掛けて習得するものだ。
仮に覚えられたとしても、実践や振付として使うことが出来るかどうか難しいものがある。
だが優は、空良なら出来ると思って頼んだことを、空良は分かっていた。
自分で言うのも難だが、空良は自分をそれなりに勘の良い方だと思っているし、見様見真似でやるのも得意な方だと思っている。
事実、ダンスなど一度もしたことの無かった自分が先輩達の足を引っ張りすぎることなく優勝出来たのは、空良の成長が速かったことも寿奈は理由に挙げていた。
やってみれば、案外出来るかも知れない。
「分かりました」
優は笑みを浮かべ、背を向けた。
そのまま何かも分からない木の前に立ち、腰を落とす。
「やァッ!!」
優の回し蹴りが炸裂する。
木に勢いよく命中し、木の葉を散らす。
「やってみろ」
促され、空良も同じ木の前に立つ。
呼吸を整え、鼓動を抑え、同じように腰を落とす。
「せいッ!!」
空良は勢いよく、脚を横に回した。
しかしダメージがあまり入らなかったのか、木の葉は優みたいには落ちない。
「今のは遅い」
すかさず優が指摘する。
「拳や脚の強度だけが、ダメージを与える要素じゃない。
どのくらいのスピードで当てるかにもよって威力は変わる。
躊躇うな」
練習を始める前の優しそうな雰囲気から一転、今は体育会系の教官のような雰囲気を放っている優。
これが彼女の、指導者としての姿なのだろうか。
三十分が経過した。
既に二十回程挑戦しており、スピードも威力も徐々に上がっていた。
次ならいける、と信じて空良は息を吐く。
「次で決めるッ!」
もう慣れた、腰を落とす動作。
やっている途中で、どの程度落とすかによって技の成功度が変わるということも気付いている。
「でりゃあ!」
勢いよく、空良は回し蹴りを放った。
命中と同時、重い音が響き、木の葉を散らす――だけだと思っていた。
空良の蹴り技は命中と同時、木に深い傷を入れた。
まるでチェーンソーで伐ったような傷を。
「・・・・・・」
空良は近くに立つ優に視線を向ける。
彼女は言葉を失い、呆然と立ち尽くしていた。
「驚いた・・・・・・」
絞り出すような優の声が、空良の耳に入った。
言葉通りだ。
言葉通り、優は驚いていた。
優は格闘技の免許皆伝はしたものの、木に傷を負わせる程の強さは持っていない。
だが空良は、三十分で木を半分程切断した。
凡人ではありえないことだ。
やはり優は、天才が苦手だ。
寿奈といい、空良といい、自分を驚かせてくるのだから。
あと何度驚けば良いのだろうか、と優は苦笑いした。
「では、次の技を教えてもらってもよろしいでしょうか?」
「お、おう!」
空良の言葉で、優の思考は現実へと引き戻された。
既に半分程切断された木に向かって立ち、腰を落とす。
先と同じように回し蹴りを放つ。
違うのはここからだ。
そこから一瞬にして体勢を変え、上段蹴りを放つ。
空良が先に木に傷を入れたせいかグラグラと揺れ、かなりの量の木の葉が舞い落ちた。
「・・・・・・」
優は先の空良の回し蹴りを思い出す。
あの木を半分程切断する強さを持つ空良がこの技を使えたら、どのような事が起きるのだろうか、とワクワクする。
「では、やります」
眉を潜め、空良はそう言って木と向かい合う。
腰を落とす。
そのまま回し蹴りが放たれる。
木の葉が舞い落ちる前に上段蹴りも命中し。
そのまま信じられない事が起きた。
木が、ミシミシと音を立てて倒れる。
そのままドスンと、地面に激突した。
「・・・・・・」
今度は空良自身も驚いているようだった。
「ま、まいったなあ・・・・・・」
自分が恐ろしい事をしている、という事実を再確認した優。
何年も掛かって強くなった優を、空良は一時間で超えようとしている。
そうさせているのは、自分自身。
「では、組み手に入る。
どこからでもかかってこい」
まさか死ぬことはないだろう、と優は自分に思い込ませる。
「やはり、やめにしましょう」
空良はそう呟く。
「どうした?」
「先輩は、大事な大会を控えている身です。
怪我などしたら、先輩達がどれほど傷付くか、私でも分かりますよ」
両目を閉じ、爽やかな笑みで空良が言う。
やはり分かっている。
この短時間で、空良は優を超えてしまったことを。
だからこその、拒否なのだ。
「分かっていたんだな・・・・・・よし。
お前にこれを託す」
そう言って、優は近くに置いておいた鞄から、巻物を取り出す。
投げた巻物を、空良は受け取った。
「そこに、技の全てが記されている。
あとはお前一人でも出来る筈だ。
振付に格闘技を混ぜるのは大いに結構だが、人を傷付けることに使うなよ。
どうせなら、人を守る為に使うんだ」
優自身も、人を守る為に使えた試しがない。
助ける前に、助けたい人が死んでしまったのだから。
だから空良にそう言った。
「ええ、姉さんを守る為に使わせていただきます」




