チェス勝負
チェス盤に、タンという音を立てながら白い駒を移動させる。
同時に、そこにあった黒い駒を左手で持ち上げ、盤外の床へと置く。
次に、黒い駒を自分の手で移動させ、白い駒を反対の手で盤外へ。
そして再び腕を組み熟考する。
黒い髪と虚ろな茶色の瞳の、その少女が毎日やってきた遊びだ。
友達も家族もいない、天涯孤独の身の彼女が毎日やってきた遊び。
借りているアパートの、狭い自室にあるのは、日用品や音楽のCD、ゲーム機、援交用の避妊具など。
全部、両親の遺産と援交で稼いだ金で買ったものだ。
そこまでして、児童施設にも住まわず、一人で生きる理由。
それは、いじめを受けたからだ。
皆、少女をバカにする。
生まれつき出来が周りより悪く、アスペルガー症候群と診断された少女は、他人と馴染めずにいた。
何度も虐めを受け、少女は耐えられなくなり施設を出て行った。
それ以来、両親の遺産でアパートを買い、八歳にして援交で金を稼ぎ始めた。
学校での虐めや援交で酷い相手と会ったことも何度かあり、そんな事を繰り返され、或いは繰り返した結果、少女は心を閉ざし、人が信じられなくなった。
そんな彼女にとっての楽しい時間が、一人で好きな歌を歌っている時や、人間観察をしている時や、一人でゲームをやっている時間だ。
自分の好きなものは自分に対して嘘を吐いたり、自分を汚したり、自分を見捨てたりしない。
自分の好きなものだけを信じ、自分と好きなもの以外の全てを疑って生きて来た少女には、一つ特技がある。
それは、相手の心理を読み取ることだ。
少女は殴り合いなどの喧嘩は弱かったが、口喧嘩だけは得意だった。
相手の真意を読み過ぎて、余計虐めは加速したが。
今日、少女には参加すべき用事がある。
入学式。
そう、彼女は今日から高校一年生になるのだ。
「そろそろ時間か。嫌になる」
彼女は勿論、自分の意思で高校に通う事にしたのだが、そこに学校に行きたいからという気持ちは無い。
将来の為に、仕方なく行くのだ。
多分、高校でも虐めに遭うだろう。
期待など端からしてなどいないが。
少女はチェス盤の中に駒を全部入れた後、鞄に収納する。
そのまま鞄を片手に、ドアに向かって歩き出す。
◇◇◇
入学式とホームルームが終わり、そのまま帰ろうと立ち上がる。
新しいクラスメートと担任教師を睨みつけるようにしてクラスから去り、そのまま下駄箱に向かおうとしたその時だ。
「あ、ねぇ君?」
後ろから声が聞こえ、少女は振り向いた。
少女に話しかけた主は、茶色の短髪に、黄色の瞳の整った容姿の上級生――スリッパの色からして三年生だ。
久しぶりだ。少女にこうして気さくに話しかけてくる人間は。
だが、少女は自分にこう告げた。警戒を怠るなと。
少女は、上級生に質問する。
「何用でしょうか? その――」
「あ、名乗って無かったね。私は杉谷寿奈。
スクールアイドル部の部長だよ」
スクールアイドル部、部長ね。
多分、新入生勧誘だろう――――当然部活動などに興味は無いが・・・・・・。
いや、だが。
少女の頭の中で、一つの好奇心が芽生えた。
それに従って、少女は寿奈に言う。
「杉谷寿奈先輩、ですよね。
確か、中学時代はサッカーで有名だったっていう。
あと、ブラジルのジュニアグループにも所属していたとか」
「く、詳しいね。
と、ところで部活の話なんだけど、入る?」
ここで話を持ってくるか。
よし、自分がしたい事を言おう。
「その話なんだけど、一度部室に行きませんか?
少ししたい事がありまして、それから考えます」
さて、断るか?
「え? まあ良いけど」
その言葉を聞いて、少女は内心笑った。
第一段階は上手くいったと。
少女は寿奈と共に、スクールアイドル部の部室に入る。
二人の二年生の先輩に会釈した後、部長席の前にあるテーブルの前に椅子を移動させた。
そこに座り、寿奈にもそこに座るように促す。
寿奈はまだ少女の真意を理解出来ずに、質問した。
「ところで、これから何をするの?」
少女は、寿奈の質問の後鞄からチェス盤を取り出す。
そして、答えを告げる。
「一つ勝負をしようと思いまして。
杉谷寿奈先輩、貴女は頭が良いと聞きました。
だから、私と勝負してほしいのです。
私が勝てば、入部の話は無し。先輩が勝てば、入ることを約束しましょう」
未だに呆けた顔をしている寿奈。
だが次の瞬間、それは笑いに変わった。
「良いよ、一回勝負ね。
絶対に部員にしてみせるッ!」
この時、少女は寿奈の目つきからあるものを感じた。
自分が今まで向けられたことの無かったもの。
いつも自分に向けられていた眼差しとは反対のもの。
灼熱の炎の温度すら超える程の、圧倒的な熱を感じた。
それが、純粋に勝負を楽しみにしているのか、自分を勧誘したいという強い気持ちの現れなのかは分からないが。
勝負は始まった。
「チェックメイトです」
少女の白いポーンが、寿奈の黒いキングがあった場所に置かれる。
先行を譲ったにも関わらず、十五手で寿奈は少女に敗北した。
「ま、負けた・・・・・・」
悔しそうにしゅんとする寿奈。
次の瞬間。
「あ、ということは。
部、入ってくれないの?」
若干涙目になりながら、寿奈は訊いてきた。
それを見て、少女は内心嗤う。
この人、分からないのかなと。
寿奈達に顔を見せずに、無表情から笑いを一瞬で作ってから、寿奈に振り向き言う。
「さっきの話は嘘ですよ。部に入ってあげましょう」
「本当!? やったー!」
寿奈は満面の笑みで少女に抱き付いて言う。
少女は内心困惑しながら、少し睨みつける。
寿奈もそれを察し、離れてから再びお礼を言う。
「ありがとう」
「いえいえ、少し勝負をしたかっただけですから。
これくらい当然ですよ。ついでに、寿奈先輩の性格も把握出来ましたし」
「え? 本当に?」
実を言えば、少女は寿奈を試しただけなのだ。
元々アイドル部には誘われた瞬間、入ろうかなとは思っていたので、あとは部長がどんな性格なのかを見たかっただけなのだ。
本当に信頼出来るのか、どうか。
「先輩は積極的な性格ですね。
キングを取ろうと必死でしたが、防御が疎かになっていました。
それでは、私に勝つことなど出来ませんよ」
「え、そうだっけ・・・・・・えへへ」
そしてこれは寿奈にいう事など勿論出来ないが。
信頼できるかどうか、についてだ。
それは――。
「じゃあよろしくね。君、名前は?」
寿奈に言われて、少女は名乗る。
「私は空良。黒野空良」
「よろしくね空良ちゃん!」
こうして少女――空良を部員にした寿奈は、部長席に戻って二人の先輩と話し始めた。
話を戻して、信頼できるかどうかについてだ。
信頼出来るか、どうか。
それは――。
「ああいう人、一番裏切りやすそうで嫌いだな」
確かに、チェス勝負の時の眼差しは熱く、自分も溶かされそうな勢いだったが。
その熱さには、何か裏があるような。
そんな何かを、感じたのだ。
こうして、スクールアイドル部に一人仲間が増えた。
だが――。




