日常は戻ってこない
それから、また数年の時が流れた。
日本で何が起きているのか、親がどうしているかなどの情報がないまま過ごし、私は一時帰国した。
東京の羽田空港付近で、もう違和感は感じ取れた。
街並みが変化しているとか、自分の使っている道具がもう古いもの扱いであるとか、そういう話ではない。
妙な光景が目に入ったのだ。
ある時間帯で、全員が一斉に同じ行動を取り始めた。
全員が同じ方向を向いて、何かに対して祈りを捧げる。まるで宗教のようだった。
国教が存在する国ならば、その光景も珍しくはないが、宗教の自由が存在する日本ではまず有り得ない光景だった。
それだけならまだ良かったが、問題は滋賀――私の家に到着した時に起きた。
「ただいま」
靴を脱ぎ、玄関に上がる。
リビングで待っている筈の母親の所に向かう。
母親はいない。鍵は開けっ放しだ。
美味しい食事を用意して待っている、彼女はそう言った筈。
しかしテーブルには書き置きすらも残されていない。
私の母親は、私を物凄く大切にしている。というより、依存している面がある。
仕方がない。私が幼い頃に、父は死んだから。病気で死んだ父の遺品を全て捨ててから、母にとって私は、父が自分の夫だった証拠なのだ。
「どうして……」
嫌な予感が働く。
それと同時、嗅覚が鋭敏になる。
血臭。それも人間の。
何故だ。何故血の臭いが鼻を刺しているのだろうか。
何もかもが分からないまま、私は一旦リビングを出る。
血の臭いは、お風呂場から漂っていた。
その時点で、私は覚悟を決めた。これから目にするもの全てを、受け入れる覚悟を。
ゆっくりと、お風呂場に足を運ぶ。
何故か半開きになっている扉を全て開き、私はお風呂場に足を踏み入れた。
「――!!」
私の覚悟は、半端だった。
それを受け入れる事だけは、断固として自分の心が拒否した。
湯船に、数本の刃物を刺されて、瞳と口を開けて眠る者がいる。
茶色の長髪に、自分と同じ黄色の瞳の、エプロン姿の女性。
間違える筈がない。私の母親だ。
「ああ……ああッ!」
叫んだ。
目の前の光景を見ないようにしようと、目を閉じて叫ぶ。
自分が靴を履いていないのも忘れて、私は外まで逃げた。