第一話 『それぞれの思惑』
約束をした。
悲しくて、優しい約束を。
何があっても、それを守ろうと誓ったから。
――彼は英雄にならねばならなかった。
◆
「――――」
荒い息を吐きながら、目を覚ました。
全身にベッタリと、嫌な汗をかいていた。
何か、古い夢を見ていたような気がする。
癖の強い金髪の残滓が、目蓋の裏に残っているような感覚。
湧き上がる嫌悪感に、軽く目を擦った。
体を起こし、頭の奥に残る疼痛を忘れようと試みる。
「んぐぅ」
隣のベッドで、エルフィが呑気にいびきをかきながら眠っている。
寝相が悪いのか、毛布がベッドの遥か遠くへ吹き飛んでいた。
腹でも空いているのか、カチカチと歯の音がうるさい。
「……まったく」
こいつは、もう少し穏やかに寝ることが出来ないのか。
内心で呆れながら、エルフィを見て少し笑っている自分がいることに気付く。
いつの間にか、疼痛は消えていた。
今日は、ミシェルを始めとした孤児達が、他所の孤児院に移動する日だ。
マルクスに復讐を果たしてすぐ、俺はレオにいくつかのお願いをした。
その内の一つが、ミシェル達を速やかに安全な孤児院に移すことだ。
マルクスとその部下は片付けたが、万が一ということもある。
これ以上、事情を知っているミシェル達をこの街にいさせるのは良くないだろう。
個人的な感傷だが、これ以上彼女達を巻き込みたくない。
リューザスのこともあるしな。
今頃、レオが選別した聖堂騎士達が孤児達を移送しているだろう。
安全の確保、という名目でそれなりの護衛が付いているはずだ。
表向き、まだジョージやリリー、マルクスは逃走していることになっているからな。
マルクスの一件以降、リューザスは姿を現していない。
こちらから出向いて探したが、見つけることは出来なかった。
恐らく、既に攻撃を仕掛けるタイミングを決定しているのだろう。
俺達が条件を満たさない限り、リューザス達が出てくることはないだろう。
「そのタイミングは、恐らく――」
俺達が忌光迷宮に踏み込んだ後、もしくは討伐を終えた後ではないか――と俺は踏んでいる。
少なくとも、俺達が十全の状態で攻撃を仕掛けてくることはないだろう。
こちらが消耗しているタイミング、もしくは油断しているタイミングを狙って、不意打ちを仕掛けてくるはずだ。
当然、既にあいつが仕掛けてくるであろう攻撃の対策は立てている。
ポーションを揃えるのはもちろん、対策のためにマルクスの屋敷からある物を持ってきた。
後は実行するだけだ。
「ん……むぅ」
エルフィが、ゴロンと寝返りを打った。
その拍子に、その姿が消えた。
ベッドの下に落ちたのだろう。
「うぐぅ」
ベッドの下からうめき声が聞こえてくる。
起きたのかと思ったが、すぐにまたいびきが聞こえてきた。
エルフィはまだ、起きそうにないな。
出来る限りの準備は整えた。
喪失魔術を使えるリューザスと、王国の精鋭"選定者"。
両者の実力を考えても、こちらには勝機がある。
腕と脚を取り戻したエルフィと、心象魔術が使える俺。
不意を突かれても、十分に対処し、返り討ちにすることが可能なはずだ。
イレギュラーさえ、なければ。
◆
コツコツと。
薄暗い廊下に、三人の足音が響く。
「――本当に三人も出て大丈夫なのか? ここに残るのは"雨"だけになるぞ」
低い男の声が、廊下に小さく反響する。
逆立った青髪に、不機嫌そうな三白眼。小さく開いた口からは、狼のような鋭い牙が覗いている。
大人の背丈ほどの大きさを持つ薙刀を肩に担ぐその男は、魔王軍四天王"歪曲"だ。
「構わないだろう。オルテギア様が動けない現状、彼女がいることに勝る警備は他にない」
"歪曲"の言葉に答えたのは、歯切れの良い凜とした女性の声だ。
乱れのない深緑の長髪に、斬りつけるような鋭い双眸。身に纏う軍服には皺一つなく、女性の几帳面さが窺える。
山羊のように捻れた二本の短い角を持つその女性の名は、グレイシア・レーヴァテイン。
魔王軍四天王の一人であり、"消失"の称号を持っている。
「はぁん、そうかい。それで、その"雨"はどこにいるんだ? 見送りもないし、今朝から見掛けねえが」
「……さあな。私は見ていない」
魔王軍四天王にして、魔王代行を務める"雨"レフィーゼ・グレゴリアの所在に二人が首を傾げていると、
「――彼女は今朝からお腹を壊して、お手洗いにこもっているようですよ?」
脳を溶かすような甘い声が、会話に入ってきた。
声の主は可哀想ですね、とクスクスと笑う。
廊下の一番後ろを歩くその声の主は、ハーフエルフの女性だった。
癖の強い金髪に揺らし、愉快そうにステップを踏む彼女の身を包んでいるのは、清らかさを感じさせる純白のドレスだ。
穏やかな印象を与える大きな銀の瞳に、優しげな笑みを湛えた小さな唇。街で見かければ、同性ですら振り返るような整った顔立ち。
"聖光神"メルトの体現と言っても、信じてしまいそうなほどに女神じみた美しさを誇る彼女の名はルシフィナ・エミリオール。
"天穿"の称号を持つ、魔王軍四天王だ。
「む、またなのか」
「ああ? あいつ、どこか悪いのか?」
「ストレスを感じると、お腹が痛くなるそうですよ?」
「ふーん」
他人事のように語る三人だが、その原因の半分は彼らにある。
この場にレフィーゼがいれば、「貴方達のせいですけどね」と叫んでいただろう。
「じゃあ、ま。仕方ねえな」
長い廊下を抜けると、そこは野外だった。
三人は魔王城の外へ踏み出し、眼前に広がっている光景を見下ろす。
そこには、大量の魔物が控えていた。
猛る獣の叫び声、劈くような龍の絶叫が轟いている。
そしてその列とは別に、魔族が並んでいる。
背中から翼を生やした者、頭部から角を生やした者など様々だ。
「それじゃあ。――魔王軍に仇なす"勇者"と"元魔王"を狩りに行くとするか」
どす黒い雲に覆われた空の下、人ならざる者達の咆哮が響き渡った。
◆
「――本当に"勇者"天月伊織は忌光迷宮に向かうのだな?」
選定者のローブを身に纏った神経質そうな男が、訝しげな声をあげる。
男の名はハロルド・レーベンス。
王国の精鋭部隊、選定者の"第一席"を務める魔術師だ。
「あぁ、間違いない。お前に言われた通りに監視を続けていたが、あいつらは迷宮へ向かう準備をしている」
ハロルドが睨む中、嗄れた声の男が答えた。
くすんだ赤い髪をオールバックにした、五十代の男。濃い赤色の目には、飢えた獣のような獰猛さが見て取れる。
宮廷魔術師に与えられる黒いローブを身に纏ったその男の名は、リューザス・ギルバーン。
かつて英雄と共に魔王と戦い、世界最強の魔術師とまで呼ばれた"大魔導"だ。
「それに、これまでの足取りからして、あいつらは明らかに迷宮を討伐して回ってる」
「ふん、そうか。ではリューザス殿は引き続き、あの二人の監視を」
「……ああ」
小馬鹿にするように鼻を鳴らし、ハロルドは会話を打ち切った。
如何に"大魔導"とはいえ、既に過去の遺物。
現在の王国を支えているのは、自分達"選定者"なのだ。
そんな自負から、ハロルドはリューザスを見下し、一方的に指示を出している。
自らの失敗を恥じているのか、リューザスは大人しくそれに従っていた。
「ふっ」
監視に戻るリューザスを見て満足気に笑うと、ハロルドは他の選定者達へ顔を向けた。
「天月伊織は勇者でありながら、その役目を放棄した。王国を裏切り、国宝を盗み、あまつさえ魔族と行動を共にしている。あの男はもう、勇者に相応しくない」
ローブをはためかせ、ハロルドが宣言する。
「故に! 我ら選定者が、天月伊織に裁きを下す――!!」
天月伊織はすぐに思い知ることになるだろう。
王国を敵に回したことの恐ろしさを。その役目を放棄した己の愚かさを。
我らの選定から外れたことを後悔し、地獄に落ちるが良い。
「さぁ、終わりの時は近い」
そう言って、ハロルドは笑った。
そして。
「――あぁ」
リューザスが、陰でそれに同意する。
「――終わらせてやるさ。全部な」
それぞれが思惑を抱えながら。
刻一刻と、その時は近付いてきていた。




