第一話 『真夜中の来訪者』
レイテシアに夜の帳が下りる。
夜闇に包まれた、ペテロ教国に広がる草原地帯。
その中で、純白の大聖門に囲まれた聖都シュメルツだけが白く輝いていた。
煌々と地を照らす月の下――『聖光区』にそびえる、大きな屋敷。
その一室で、獣のような嬌声が響いている。
激しく響くその叫びは徐々に甲高くなっていき、やがてプッツリと途切れた。
「……チッ」
脳髄が蕩けるような甘い香りの漂うその部屋で、一人の男が苛立ちを紛らわすように指を鳴らす。
その足元には何人もの亜人の女性が意識を失った状態で転がっており、男はその内の一人へ乱暴に足を乗せた。
男は、短く切り揃えられた黄緑の髪が生えた頭をガリガリと掻き毟り、息を漏らす。
思い通りに進んでいたことが、予期せぬ横槍によって頓挫した。
孤児院を運営していた二人――ジョージとリリーには、まだ色々とやってもらわなければならないことがあったというのに。
「馬鹿どもが」
男――マルクス・ピエトロ・サンダルフォンは、足元の女性の頭を踏み躙りながら、低い声でそう呟いた。
元々、孤児院の存在が露見しても揉み消すだけの準備はしておいた。
ジョージ達と自分が関わっていたことは、孤児院の地下を漁っても分からないだろう。
念を入れて自ら孤児院の調査に乗り出したが、自分が関わったという証拠は残っていなかった。
それはいい。
問題は、あの二人がどうなったかだ。
地下室には、戦闘の痕跡が僅かながらに見られた。
マルクスは、あの二人は何者かに襲撃され、すでに殺されているのではないかと踏んでいる。
では、二人は誰に殺された?
その肝心な情報を、マルクスは未だ掴めていない。
聖堂騎士団を使って公に捜査し、部下を使って裏でも情報を集めているというのにだ。
それが、マルクスを苛立たせている。
「ぁ……あ」
不意に、足元の女性が小さくうめき声を漏らした。
数ヶ月前に攫ってきた、人狼種種だ。
その長く美しい肢体には、目を覆いたくなるような傷が無数に刻みつけられている。
宝石のように輝いていたその瞳からは、既に光が失われていた。
「うるさいな……。口を開いていいといったか?」
マルクスの蹴りが、人狼種の女性の腹部へめり込む。
目は開いていても意識はなく、痛みを感じている素振りもない。
それをいいことに、マルクスは女性を何度も何度も蹴りつける。
「何か反応してみろ。ええ? つまらんな、私を楽しませてみろよ」
「か、は……」
ギリギリと。
マルクスの太い指が、女性の首を締め付ける。
白かった肌は次第に鬱血し、女性が泡を吹いて白目を剥こうとした時だった。
「マルクスさん」
扉を開けて、一人の男が入ってきた。
聖堂騎士団に所属する、マルクスの部下だ。
「人が楽しんでる時に、水を差すんじゃない!! メルト様も仰っただろうがッ! 目上の人は敬えってよぉ! お前は私の邪魔を出来るほど偉いのか? ああ!?」
手元にあった灰皿を部下に投げつけ、マルクスが怒鳴り散らす。
失礼しました、と悲鳴をあげて、男は慌てて部屋を出て行った。
「……喰らうぞ、無能が」
そう吐き捨てて、マルクスは女性の首から手を離す。
部下のせいで、興が削がれてしまった。
転がっている人狼種の女性達を一瞥して、マルクスは不快げに目を細める。
「醜い獣どもめ」
人狼種を狂わす魔香を止め、マルクスが大きな椅子に腰を落ち着かせた時だった。
「――随分と、好き勝手やってるようじゃねェか」
マルクスの他には誰も居ないはずのその部屋に、嗄れた男の声が響いた。
「……! 誰だ。どこにいる?」
椅子から立ち上がり、部屋を見回すマルクスだが、声の主は見当たらない。
警戒を強めるマルクスを前に、その声はクツクツと低い笑いを漏らす。
「……姿を現せ。殺されたくなかったらな」
正体の知れぬ相手の存在に向け、マルクスは強い威圧を放った。
彼が放つのは精錬された騎士のそれではなく、貪欲に獲物をむさぼるような獣の圧だ。
それを受け、声の主が姿を現した。
「……!」
夜闇に包まれたマルクスの私室を照らしているのは、窓から差し込んでいる月光のみ。
部屋には光が届かず、闇に覆われた部分がある。
そこから、まるで闇が形を取ったかのように、一人の男が姿を現した。
「おお、怖い怖い」
くすんだ赤い髪と、鈍い赤色の瞳。
狼を連想させるような嫌な笑みを浮かべた、五十代ほどの男。
その顔、そしてその体を包んでいる漆黒のローブに、マルクスは見覚えがあった。
「リューザス・ギルバーン……か」
つい二月ほど前に、"土魔将"を討ち取って奈落迷宮を討伐した王国の魔術師。
"大魔導"の二つ名で畏怖される男が、マルクスの前に立っていた。
「……どうやって、この部屋まで?」
「普通に入らせて貰ったさ。邪魔にならねェように、静かに、だがなァ」
この建物はマルクスの部下が警備し、また侵入者に対する罠がいくつも仕掛けられている。
それを越え、『普通に』と言ってのけたリューザスに、マルクスは警戒を強めた。
「おいおい、そう怖い顔するんじゃねェよ。俺達は仲間だろ? アマツを殺した、同士だ」
「……わざわざ、そんな事を言いにここまでやってきたのか?」
「まさか。アマツを殺した三十年記念を祝うような仲でもねェだろうに」
リューザスのふざけた態度に、マルクスが眼光を鋭くした。
三十年前は"大魔導"という威容におされていたが、今のマルクスは聖堂騎士団の隊長の一人だ。
それを教えるため、マルクスは『力』の一部を解放してみせた。
「あまり私を舐めるなよ、リューザス殿。四番隊で運搬係をやっていた時とは違う」
「……そのようだな。面白いモノ持ってんじゃねェか」
それを見て、リューザスは包帯に包まれた右腕をそっと撫でた。
「じゃあ、そろそろ本題に入るとするか」
「……本題だと?」
「ジョージとリリーを殺ったのが誰か、知りたくはねェか?」
「…………!」
粘着いた鈍い光を放つ双眸を細め、獰猛な獣のような笑みを浮かべ。
リューザスは告げる。
「あいつらを殺したのは――――」
◆
「ふぅ。スッキリだ」
夜。
風呂へ行っていたエルフィが、満足気な表情で部屋に戻ってきた。
聖都の宿だけあって、設備は整っている。
そのため宿泊料はかなり割り高だが、金はあまるほどあるから問題はない。
暑い、と呟いて当然のように服を脱ぎ捨てるエルフィ。
晒された裸体から目をそむけていると、
「ん」
椅子に腰掛けたエルフィが、こっちに来いと目で行ってきた。
こいつが何を考えているかは、嫌でも分かった。
濡れた髪を乾かせ、と言いたいのだ。
「とりあえず服着ろ、服。薄着でいいから」
「えぇ」
「乾かさないぞ」
「むぅ……。わがままな奴め」
こいつ……。
もぞもぞとエルフィが服を身に着けたのを確認してから、俺はエルフィの後ろ側に回った。
エルフィの銀髪は、水に濡れて艶々と光っている。
以前、帝国で買った布を、エルフィの髪にぽんぽんと当てた。
抑えるようにして、布で髪の水分を落としていく。
「うむ。相変わらず、良い手際だ」
「そりゃどうも」
水気が取れてきたら、今度は魔術を使う。
炎魔術と風魔術を同時に使って熱風を生み出し、少し離れた所から当てていく。
それから片手で髪の根本に指を入れ、奥にまで熱風が届くように調整した。
熱風をドライヤー代わりにするのは、英雄時代に旅の途中で編み出した技だ。
"熱風"という魔術は元々あったが、髪を乾かすのに使うのは画期的だ、なんて言われた記憶がある。
――私、アマツさんに髪を乾かして貰うの好きかもしれません。
……あの女の髪を乾かしたことも、あったな。
「んー。伊織、どうかしたか?」
「……いや。熱くないか?」
「ん、問題ないぞ。続けるがよい」
……相変わらず偉そうに。
こうしてエルフィの髪を乾かすのは、もう何度目だろうか。
帝国を出て、教国へ向かっている最中だったか。
「自分でやるの面倒臭い! でもやらないと私の美しい髪がぐしゃぐしゃになる! 伊織やって!」と、うんざりするぐらいに頼み込まれ、仕方なく乾かすことになったのだ。
「ふ。私の髪を乾かせる栄誉を噛みしめるが良い」
「…………」
「熱ッ!?」
「はぁ……」
「あつ、伊織熱い! 熱いって!」
数分後に、ようやく乾かせ終わった。
毎度毎度、結構な時間が掛かる。
バッサリ切ってくれれば、少しは乾かすのが楽になるんだがな。
そんなことを考えていると、
「えい」
「ッ」
後ろから、エルフィにブチッと髪を抜かれた。
「……何のつもりだ」
「いや、気になって」
ほれ、とエルフィは抜いた髪を見せてきた。
彼女の指に挟まれていたのは白髪……ではなく、灰色の髪だった。
「他にも何本もあるぞ」
髪を見ている間に、エルフィはブチブチと連続して髪を抜いてくる。
やめろ、普通の髪も抜けてるじゃねえか。
「……灰色、か」
アマツだった頃の俺の髪の色だ。
体に宿していた膨大な魔力の影響で、髪が変色してあの色になった。
今の俺の髪が灰色になったのは、恐らく【英雄再現】の影響だろう。
ほんの僅かな間だが、かつてと同じだけの魔力を使用しているのだから不思議ではない。
使い過ぎると、髪が全部灰色になってしまうかもしれないな。
まあ、使いすぎる以前に、未だ発動条件がハッキリしていないんだが。
リューザスやオルガとの戦いではすんなりと使えたが、他のタイミングでは上手く発動しない。
やはり、素の俺じゃ勝てない相手にしか、発動しないのだろうか。
検証の必要があるが……なかなか難しいな。
どうにかして、発動条件は抑えておきたい。
……今はそれよりも。
「ふ、くふふ」
こいつ、途中から抜くのが楽しくなって他の髪も抜いてやがる。
「いい加減やめろ」
「あいたぁ!?」
チョップを入れ、髪を抜いてくるエルフィを止めた。
「うぅ。……今ので思い出したが、あのホムンクルス達は伊織の髪とかで作られてたんだろ?」
オルガや、あいつのことか。
「ああ。他にも爪とか皮膚とか、魔力パターンも使われていたみたいだがな」
「それで瓜二つのホムンクルスが作れるなんてな……。私のホムンクルスも作られてたりしたらどうしよう……」
あいつは喪失魔術を使用していたらしいから、そう簡単に作れる物じゃないだろう。
俺のホムンクルスに関しても、データは全て消してきたからもう作られることはないはずだ。
「そういえば、お前の分身体も似たようなもんじゃないのか?」
エルフィの胴体は、魔力で作られた偽物だ。
本物は残る迷宮のどこかに封印されている。
失った体を魔力で再現するのも、かなりの技術だろう。
「全然違うぞ。ホムンクルスと違って、分身体は自分の意志で操れる。これは魔族に伝わる魔術でな。膨大な魔力と、かなり精密な魔力操作の腕が必要になるんだ」
「なるほどな。他の魔族も使えるのか?」
「いや、魔王城でこれが使えたのは私とオルテギアだけだった」
まあ、そうだろう。
こんな魔術が簡単に使われたら、厄介どころの話じゃない。
「……オルテギアも使えたのか」
あいつとは一度戦ったが、体を欠損させる程のダメージは与えられなかった。
せっかく手足を落としても再生されると考えると、この魔術、本当に厄介だな……。
「……ああ。非常に業腹だが、あいつの方が上手く使いこなしていた。まあ、これは自分の肉体しか生やすことは出来ん。今回の件には関係ないだろう」
「……そうだな」
オルテギアのことは、置いておこう。
今考えなくてはならないことは、次の復讐相手のことだ。
――マルクス・ピエトロ・サンダルフォン。
聖堂騎士団、二番隊隊長。
数年前までは二番隊の副隊長だったが、前隊長が死亡したことで昇進して今の地位に上がってきた。
剣術と魔術の両方を使って戦う、実力のある隊長。
統率力もあり、二番隊には彼を慕う部下が何人もいる。
普段は『聖光区』にある二番隊の宿舎にいる。
また『聖光区』に居を構えており、彼の屋敷には部下が頻繁に出入りしているようだ。
亜人排斥派のメルト教信者としても知られているらしい。
以上が、孤児院の一件の後に俺が調べあげた情報だ。
まだリリー達と繋がりは掴めていないが、ミシェルの言葉から関連していたことは間違いない。
これ以上の情報は掴めそうにないし、そろそろ宿舎や屋敷に忍び込む頃合いだろう。
復讐対象の情報は、出来れば入念に調べておきたい。
リリー達のように厄介な物を隠している可能性があるからな。
それに、そいつに相応しい復讐を考える手助けにもなる。
よし。
明日からマルクスの近辺の調査を始めよう。
裏切り者が一日でも長く安穏と暮らしているのは、我慢出来ない。
そう決めて、すぐのことだった。
「……!」
「!」
コンコンと、扉がノックされた。
扉の外にある気配は一つだけだ。
しかし、油断は出来ない。
痺れを切らした選定者達が攻撃を仕掛けてきた可能性があるからだ。
「……エルフィ」
「ああ」
いつでも戦えるように、身構えておく。
「……誰だ?」
「夜分にすまない。少し話がしたい」
「…………?」
聞こえてきたのは、若い男の声だった。
それも、どこかで聞き覚えがある。
ゆっくりと扉を開けると、そこには目深にフードを被った男が立っていた。
男は周囲を確認すると、ゆっくりとフードを外す。
そこにあったのは、予想していなかった男の顔だった。
整えられた短い藍色の髪。
鋭い眼光をしたその男には、見覚えがある。
「……レオ・ウィリアム・ディスフレンダーか」
聖堂騎士団、二番隊副隊長。
復讐対象の部下の姿が、そこにあった。
書籍ですが、春の間に発売予定です。
イラストレーター様など既に決まっているので、もう少し発売日が近付いたら、またお知らせします。




