第五話 『方法/咆哮』
見上げるほどの大樹が、無数に連なり森の形を成している。
隙間を抜けて奥へと踏み込めば、これまでと明らかに空気が変わった。
あまりにも、森が静かすぎる。
生き物の気配がしないというだけではなく、木々から生の営みというものを感じない。
死後の世界で言うのもおかしな話だが――死んでいる、というのがこの森に対して抱いた所感だった。
「はァ、はァ。あァクソ、無駄に走らせやがってあの野郎どもが」
静寂を破るようにして、リューザスが荒い息を吐く。
「だから王城にいたころから、体力を付けておいたほうが良いって何度も言っていたんですよ」
足を止めてその横に並び、ルシフィナが呆れた目を向ける。
乱れた髪を手くしで直すルシフィナは汗一つかかず、平然とした表情だ。
「魔術師に体力まで求めるんじゃねェ。これでも周りにいた連中よりよっぽど鍛えてるほうだ」
「10キロや20キロ走ったくらいで息が切れるようじゃ、鍛えられてるなんて言えません。もう……陛下にも戦闘で連携を取るために騎士と魔術師で合同鍛錬を行おうと奏上したのに、リューザスさんが必要ないとか言うから」
「魔術師は魔術を使うから魔術師ってんだよ」
「それを言うなら、伊織さんは魔術も使えるし、体力もありますけどね。ほら見てください、伊織さんも平然としたものですよ」
チラリとこちらに視線を向けた後、リューザスが露骨に顔を顰めて舌打ちする。
「うるせェ筋肉女。お前らみたいに脳まで筋肉でできている連中と一緒にすんじゃねェ」
「筋肉……。ふふ、リューザスさん、今なんて?」
「…………」
にっこりと微笑むルシフィナに、リューザスがバッと顔を逸らす。
三十年前のあの日々の再現のような光景に、胸に疼痛が走る。
「いつまで遊んでるんだ。先に進むぞ」
無意味な感傷を振り払うように声をかけると、
「言われねェでも分かってる。乱れた息も収まった。こっから先は“金剛”の縄張りだ。見つかんねェように気配は消していくぞ」
舌打ちとともに、リューザスが気配遮断の魔術で俺たち全員を包んだ。
不服そうに頬を膨らませていたルシフィナも、表情を引き締めて歩き始める。
「……なんだか、嫌な森ですね」
乾いた地面を踏みしめて歩きながら、ふとルシフィナが俺と同じ所感を口にした。
無言のまま、それに同意する。
死んだ森――それとは別に、もう一つ抱いたイメージがある。
生を感じないという所感に、相反するような想像。
ぽっかりと空いた化け物の口の中に迷い込んだ――。
――そんな気持ち悪さが、この森にはあった。
◆
――金剛。
鬼族がまだ魔王軍側に属していた時代に、名を挙げた人物。
拳をぶつければ骨が砕け、剣で斬り付ければ刃が折れ、魔術を当てても傷一つつかない。
強靭な肉体から繰り出される一撃はあらゆる防御を破り、戦場を蹂躙したという。
その金剛の強さの源になっていたのが、“鬼化”という技だ。
身体能力と魔力量を急激に増幅させる、鬼族の秘術。
「伊織さんの“魔技簒奪”では、その鬼化は解除できないのですか?」
「無理だな。少し前にディオニスと戦った時に、あいつも鬼化を使っていた。あの時も魔技簒奪を使ったが、効果はなかったよ」
「その鬼化ってのは魔術じゃねェんだろ。どっちかってと、種族特有の能力じゃねェか。翼の生えた魔族に、魔技簒奪を使っても翼は消えねェだろ? それと同じだ」
純粋な膂力で攻めてくる相手なら、正面から対抗すれば良いだけだ。
だが、魔力の温存を考えなければならない状況では、どうなるか分からない。
あの骸達のように、冥界にきて力を増している可能性もある。
いざとなれば“英雄再現”を使うが、できれば戦いなくない相手だな。
小声でそんな会話を交わしながら、二時間ほどが経った。
件の金剛はもちろん、他の生物を一度も目にしていない。
だが、景色に変化があった。
地面の色だ。
遠目に何回か、一部の地面だけ赤くなっているのが見えた。
進むにつれて赤い土を見かける頻度が増していく。
やがて、進行方向の大半が赤く染まっていた。
「あれ……なんなんでしょう?」
顔を見合わせて、赤い土にゆっくりと近付いてみる。
「これは……」
よく見れば、その赤は土ではなかった。
薄く伸びた肉のようなものが、土の上に乗っているのだ。
腐ったような生臭さが、ツンと鼻を衝く。
「随分と臭うな……。冥界特有の土か何かか?」
「さァな。だが、俺もこんなもんを見るのは初めてだ」
冥界にならば、現世にないようなものがあっても別段おかしいとは思わないが――、
「不思議ですね。……剣で突いてみましょうか」
「やめてくれ」
「やめろ馬鹿」
不用心に触るには、外見が毒々しすぎる。
しばらく遠巻きに観察していると、時折その肉が小さく震えているのが分かった。
生きているのか……?
「魔力だな」
「何の話ですか?」
「こいつの動力源だよ。この肉塊、結構な魔力を含んでやがる。なんかの魔術で作られたモンだ」
目を凝らしてよく確認してみれば、肉の内側で魔力が循環しているのが分かる。
俺もそれなりに魔術については学んだつもりだが、肉塊がどういうものなのかは分からなかった。
リューザスに視線をやるも、首を横に振った。
「どういう魔術かは俺にも分からねェ。俺が知らねェってことは、喪失魔術や心象魔術の類だろうよ。冥界にはこういうのが勝手に生み出されんのか、もしくは――」
「――誰かが作った、か」
「……なるほど。では、不用意に触らないほうが良さそうですね。伊織さん、リューザスさん、気を付けてくださいね」
気の抜ける言葉にリューザスと揃って溜息を吐きながら、その結論には頷いておく。
魔物と戦う時と同じだ。
分からないものには、無防備には近付かず、様子を伺う。
……魔物と戦う時の心構えを教えてくれたのは、ルシフィナだったような気がするが。
「ひとまず、迂回して進もう」
「あァ。……おいルシフィナァ! 足元見ろ足元! どこに目ェ付けて歩いてるんだ!」
「ひゃ!? いや違うんですよリューザスさん! これ、ちょっとずつ動いてるみたいで!」
「どっちにしろ気を付けろッてんだよ!」
二人のやり取りを尻目に、今も蠢いている肉塊に視線を落とす。
……どうにも、嫌な予感がする。
この森に入ってからずっと感じている気持ち悪さの原因が、これにあるような気がする。
何事もなく、このまま進めればいいが……。
迂回して歩き始めてから数十分。
俺は、嫌な予感が当たっていたことに気付くことになった。
◆
「――こりゃァ、進めねェな」
視界に広がるのは、一面の赤。
てらてらとした粘液を纏う肉塊が、森の一面を埋め尽くしていた。
肉塊が放つ腐敗臭は、もはや噎せ返るほどの濃度を以て全身にまとわりついてくる。
無数に乱立する樹木の一本に至るまで赤で塗りつぶされている徹底さに、俺たちは足を止めるしかない。
「……ここから先が全部こうなってるなら、迂回も何もないな」
見える範囲はすべて赤く染まっている。
先へ進もうにも、これでは不可能だ。
「どうする。戻って、森以外の場所から北を目指すか?」
「馬鹿言うんじゃねェ。モタモタしてたら、てめェが消える。『勇者の証』が力を失うまで、猶予がねェって言ってんだ」
「……はい。戻る余裕はありませんし、この森を出ることも不可能です」
ルシフィナの視線の先――巨大な紫色の結晶が聳え立っている。
あの結晶に近付けば、それを守護している“初代魔王”が襲い掛かってくるという話だ。
元々、戦闘を最小限にするためにこの森を選択したのに、森から出てしまえば本末転倒になってしまう。
「後戻りはできねェ。迂回もできねェ。だったらここを突っ切るしかねェだろうが」
「はい。いっそのこと、私の斬撃で道を切り開きましょうか?」
「何が起きるか分からない状況で、それは危険すぎる。十中八九、あの肉は触れれば襲い掛かってくるぞ。進むにしても、最低限何かしらの対策は取るべきだ」
「じゃァ、なんだ? 空でも飛んで進むってのか?」
苛立ったように絡んでくるリューザスを無視して、考えを巡らせる。
あの肉塊が何なのかは分からないが、少なくとも安全なモノのようには見えない。
近付いたり、近くで喋っても何もしてこないことから、恐らく視覚や聴覚はない。
「あの肉は恐らく、『触る』ことをトリガーにして、動きだすんじゃないか」
「あァ? そうだろよ。だから先に避けて通ってきたんだろォが。それが何だって――」
安全に進むための案として考えられるのは――『触ったことに気付かれない』こと。
あの肉塊の感覚か何かを失わせれば、あるいは――。
「リューザス」
「……ああ、“麻痺”か」
得心が言ったように、リューザスが俺の言葉を先取りする。
“麻痺”で感覚を奪えば、上を乗って歩いても、あの肉塊には気付かれない可能性がある。
「なるほど! それなら上を歩いても大丈夫ですね!」
「そんな簡単な話なら良いがなァ」
手を打って喜ぶルシフィナだが、リューザスの表情は険しい。
「何かだめなことでもあるんですか?」
「……そうだな。あれが魔物か何かなら、“麻痺”でどうにかなると思う。ただ魔術で作られたものとなると、話が変わってくるんだ。魔力に反応して、動き出す可能性は十分にある」
魔術を撃つ行為そのものが、『触る』に抵触する可能性がある。
一つの案としてはありだが、試すには危険があるな……。
「そうなんですか……。すいません、魔術にはあまり詳しくなくて……。乗っ取られていた三十年の間に、使える魔術は増えたは増えたんですけど、今役に立つ魔術には心当たりがないです。役に立てなくてごめんなさい」
「気にしないでくれ。俺も今はこれ以上の案は出てこない」
「俺も他には思いつかねェな。……まァ、上手くいく可能性もなくはねェ。やってみるしかねェんじゃねえか?」
迂回も後戻りもできない以上は、先に進むしかない。
これ以上の案が出てこないのであれば、それをやるしかないだろう。
「とはいえ危険は危険だ。てめェらは何かあった時のために後ろに下がってろ。俺がやる」
「大丈夫か? 言い出したのは俺だ。俺がやっても――」
「馬鹿か。大丈夫じゃなかった時のためにてめェらを後ろに下がらせるんだろうが。何かあったらすぐに、てめェらで俺を助けろ。騎士と英雄様だ、守るのには慣れてんだろうが」
「……ああ、わかったよ」
「はい。何かあったら、すぐに助けます」
俺たちが後ろに下がり、杖を構えるリューザスの後ろ姿を見守る。
嫌な予感は消えない。
剣を抜き、すぐに震えるよう身構えておく。
「――“麻痺”」
魔術が、肉塊に放たれる。
閃光が音もなく吸い込まれ、蠢いていた肉塊がピクリと動きを止める。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒。
静寂の中、ゆっくりと時間が過ぎていき――。
「成功、ですか……?」
張り詰めていた空気が、弛緩しかけた瞬間だった。
『――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!』
――響き渡った咆哮に、俺たちは失敗を悟った。
辺り一面の肉塊がボコボコと泡立ち、まるで津波のようにこちらに向かって押し寄せてくる。
その量は、やはりこの先の一体すべてが肉塊が覆われていたのだと、察するには十分な量だった。
ドドドドド――と、遠くから振動が凄まじい勢いでこちらに近付いてくる気配もある。
この肉塊はセンサー――“金剛”が侵入者をとらえるために張り巡らせた魔術だったのだろう。
つまり、“麻痺”が効くような生易しいものではなかったのだ。
「くッソがァ!!」
「――リューザスッ!!」
押し寄せてくる肉塊に、リューザスが炎をぶつけるも、その勢いは衰えない。
俺とルシフィナが斬撃を放つも、一瞬、肉の波を止めるのが精一杯だ。
「こうなりゃァ、正面からぶっ潰すしかねェ!!」
「……クソ、やるしかないか」
「この量は捌くのは、骨が折れそうですが……!」
気炎とともに、リューザスが大魔術を発動しようと、魔力を増大させる。
俺たちも、肉の波を受け止めるため、前に出ようとした瞬間だった。
「――こっち」
「あ――?」
いつの間にか、少女が俺たちの後ろに立っていた。
気配すらなく、突然現れた少女に目を見開く俺たちに、
「――こっち」
少女は再度抑揚のない声で呼びかける。
そのまま振り返らずに走り出す少女に、逡巡は一瞬。
「――行くぞ!」
背後に肉の波が迫っていることを感じながら、俺たちはその背中を追って走り出した。




