第四話 『星を眺めて/光を求めて』
手の甲に走った、チリチリとした熱で目が覚めた。
腕に視線を落とすも、『勇者の証』には何ら変化はない。
気のせい、だろうか。
空はまだ暗い。
ただ、何となく二度寝する気分にもなれなかった。
どういう理屈なのか、冥界にも朝や夜があるようだ。
濁りきった空に、赤い星や月が瞬いているのが見えた。
現世にも月や星、太陽はある。
この世界は大きな大陸で出来ていて、地球のような球状をしていない。
根本的に、元の世界とは天体の成り立ちや概念自体が違うんだろう。
寝息を立てているルシフィナを起こさないように毛布から抜け出し、大きく伸びをする。
魔力が尽きた後の虚脱感がまだ残っているが、眠った分、少しはマシになった。
体の調子を確かめるため、少し離れたところまで歩く。
途中、生えている木々に触れてみるが、感触は普通の物と変わらない。
昨夜は風も吹いていたし、物理法則に関しても現世とほぼ同じだ。
着ている服や、持ってきた『翡翠の太刀』にも変化はない。
生身の人間がこちらに来ると、空気に耐えられずに消滅するという。
じゃあ、現世の物をこちらに送ったら、どうなるんだろうな。
気になる部分は多い。
神様が作ったっていう世界であれこれ考えても、意味はないかもしれないが。
「…………」
『勇者の証』を起動させ、体内に魔力を走らせる。
残っている魔力は、五割弱と言ったところか。
いつもより、魔力の回復が遅い。
冥界の外気から体を守るために力を割いている分、回復力が落ちているのかもしれない。
だが、体の調子に反して心は幾分か軽い。
「……ルシフィナの、お陰だな」
それでも。
胸に穴が空いたかのような喪失感と、全身を焦がす憎悪は薄れていない。
やるべきことは、変わっていない。
「――――」
不意に、後ろ髪を触られた時に似た錯覚を覚えた。
誰かに見られている。
腰の剣に手を伸ばしながら、勢いよく視線の方へ振り返った。
「――――」
少し離れた場所――リューザスの張った結界の外に、誰かが立っていた。
「なんだ……?」
そこにいたのは、黒い煙のような靄の塊だった。
辛うじて、それが人の形をしていることが分かる。
「――――」
その足元、影を見て、思わず戦慄した。
靄の影が、蠢いている。
よく見れば、その影がすべて、腕で構成されているのが分かる。
まるで助けを求めるかのように、無数の腕が蠢いていた。
結界の外を、靄がウロウロと歩き回っている。
やがて、靄の顔に当たる部分が結界の中を覗き込む。
『――――ぁ』
男とも女とも取れない、呆然とした声が聞こえた。
その直後だった。
蠢く影の中から、一つの腕がこちらに手を伸ばした。
何かを掴むように、その手が空を切った瞬間――。
――先程まで靄がいた場所に、一人の少女が立っていた。
無造作に伸ばされた、色素の抜けた白髪。
そのところどころに、メッシュのように赤い色が入り混じっている。
大きく丸い瞳は、右目が赤、左目が青色と左右で色が違い、まるでガラス玉を適当にはめたかのようだ。
透き通るような白い肌を、粗末な布で覆っている。
武器を持っている様子はなく、小さな手は人形のように力なく垂れ下げられていた。
どこかちぐはぐな外見を受ける少女は、そこにいるというのにあまりにも存在が希薄だった。
敵意は感じられないが、その表情から感情を読み取ることができない。
「……おい」
声を掛けるも、少女は答えない。
ゆらゆらと体を揺らして、ただ虚ろにこちらを覗いているだけだ。
いや、見ているのは、俺ではない……?
俺ではなく、後ろの方か?
やがて、少女は恐る恐ると言った様子でこちらへ手を伸ばす。
直後、結界が侵入者を拒む。
驚いたように肩を揺らし、弾かれた少女は力なく後退った。
その口元が動いて、何らかの言葉を発する。
「――――」
声は聞こえなかった。
だが、今の口の動きは、間違いなく――――。
「おい、お前は一体……」
声を掛けようとして、不意に背後から肩を叩かれた。
思わず心臓の鼓動が跳ねる。
「どうかしたんですか?」
振り返れば、心配げな表情のルシフィナが立っていた。
「いや……」
振り返り、元の方向を見た時。
すでに、先程の少女はいなくなっていた。
◆
「――『骸』になりかけの魂だろォな」
消えた少女について尋ねたところ、帰ってきたのはそんな言葉だった。
「空気に耐えられずに溶けた魂は、他の魂と混ざり合う。他の魂が混ざると、普通は耐えられずに自我が薄くなっちまう。自我を失った奴もまた溶けて、他の奴と混ざり合う――ってな具合に、連鎖が起きてやがんだ。てめェが見たってのは、ソレだろうぜ」
確かに、先程見た少女の存在は希薄で、髪や瞳の色からはちぐはぐな印象を覚えた。
弱肉強食、だなんてふざけた単語が頭に浮かび、胸が悪くなる。
ただ、まだあの少女について気になる部分があった。
「あの子は、結界の中を覗き込んでいた。消えかけの魂に、お前の結界を見破るだけの力があるのか?」
「どォせ、たまたまこっちを見てたように見えただけじゃねェのか? 結界作りに、手は抜いてねェ」
「…………」
本当に、そうか?
「気になりますか?」
「……少しな」
目が覚める前、『勇者の証』が疼いたことも合わさって、先程の少女が妙に気にかかる。
しばらく考え込んでいると、リューザスは苛立ったように舌打ちした。
「心配性なこった。その注意深さが、他のとこで活きりゃァ、てめェもちったァましになるんじゃねェのか」
「……リューザスさん」
「良い、ルシフィナ。こいつの戯言には耳を貸す気はない」
怒って、リューザスに向けて腕を振り上げたルシフィナを止める。
いちいち相手にしていては気疲れするだけだ。
こいつの魔術の腕には利用価値がある。一応は目的が一致している以上、利用してやれば良い。
「脳筋女が……。いちいち殴ろうとするんじゃねェ。まァ良い。どちらにせよ、ここに長居する気はねェんだ。どっかの英雄さんもビビってることだ、とっとと移動しようぜ」
拳を振り上げたルシフィナに苦い顔をすると、リューザスは自分の背後を指差した。
「方向はあってるのか?」
最終目的地は北側だが、辿り着くには西側を経由していく必要がある。
あの結晶の方向は分かるが、正確な方角まではまだ掴めていない。
「てめェらが呑気に眠ってる間に方角は測った。星を見れば、大体の方角は分かる」
「ええ! 凄いじゃないですか、リューザスさん」
称賛するルシフィナの声には答えず、リューザスは先導して歩き始めた。
星の方角か。
夜の間に星や月は確認したが、法則性までは掴めていない。
あいつに頼り切りというわけにもいかないし、早い内に俺も覚えておく必要があるな。
そう考えていると、
「おい、もたもたしてんじゃねェ。余裕があれば、夜に星の見方を教える。とっとと覚えて、人並みに働けるようになるこったな」
ルシフィナと顔を見合わせた後、俺達はリューザスの後を追うのだった。
◆
森を抜けると、広い丘に出た。
地面には凹凸が多く、足場は悪い。
だが幸いなことに、地面から突き出ている岩の多くがこちらの身を隠す遮蔽物になっていた。
姿を隠しながら、ゆっくりと先へ進んで行く。
歩きながら、現在地である冥界の南側の説明を受けた。
争いの激しい北や東側と違い、こちら側は比較的穏やかな場所らしい。
無作為に人を襲う骸もこちら側は少なく、戦闘能力のない人達は南側で群れて生活しているようだ。
「私も、一時期はそうした方達が作った村でお世話になっていました」
中には、“金剛”が縄張りにしている森の付近に村を作って、ほそぼそと生活している人もいるようだ。
金剛を恐れて、骸や荒くれ者達が森に近付かないことを利用した、生き残る術、という奴だろう。
そうした村では、様々な人達が生き残るために協力しあって生活しているという。
死んでから、私が目指していた光景を見ることになるとは思いませんでしたが、とルシフィナは小さく苦笑を漏らす。
「最近では、私よりも少し前に来た人が彷徨っている人達を助けて回っているという話を聞きました。こちら側でも、私達と同じように戦ってくれている人がいるみたいですね」
その人物と協力する、という選択肢もルシフィナ達にはあったようだが、困っている人を助けるためにあちこちを回っているようで、結局会うことはできなかったらしい。
「そういえば、こっちでは食事とかはどうしてるんだ?」
「魂だけになった私達に、食事は不要なんです。食べなくてもお腹は減りませんし、活動に支障はありません」
それでも、一応『食事』という文化は冥界にもある、とルシフィナは語った。
ただし、現世でのような生きるために必要な摂取ではなく、味わう嗜好品という形でだが。
「私もびっくりしたんですが、食べ物が木に生えてくるんですよ。果実とか、お野菜とか。採っても、しばらくすればまた生えてくるんです」
また、川や湖などから、魚や肉も手に入るようだ。
死んだ者が冥界に来るのなら、動物や魚、植物などの魂はどうなってるんだろうな。
「村に暮らしている人達の多くは、現世の時と同じように食事をしていました。あそこでは皆に役割があって、全員分の食べ物を採取してくるのがお仕事の人もいたんですよ」
「ルシフィナは何をしてたんだ?」
「見張りや護衛、主に危険から村の人を守るお仕事をしていました。一つの村には、あまり長い間、滞在してなかったんですけどね」
そんな会話を、ルシフィナと共にしている時だった。
前を歩いていたリューザスが足を止めた。
「先行させてた“目”が敵を見つけた。骸の大群がこっちに向かって来てやがる」
「数は?」
「二百ってとこだな。軍隊みてェに統率の取れた動きをしてやがる。ようやく連中も仕掛けて来やがったな」
視力を強化し、岩陰から進行方向を覗く。
リューザスの言った通り、俺達の進行方向から無数の影がこちらへ向かってきているのが見えた。
骸以外の者は、今のところは見つからない。
こちらの戦力を考えれば、戦えないことはないが……。
まともに相手にすべきではない。
そう結論付けようとした時だった。
研ぎ澄ませた感覚に、ある気配が引っかかった。
「……気付いてるか、リューザス」
「あァ。どォやら、俺達の居場所は最初から筒抜けだったみてェだな」
――誰かに、視られている。
いつからかは分からないが、遠見の魔術を使われている。
俺達がそう、会話をした時だ。
『クハッ。何だ、気付くだけの脳はあったらしいな?』
丘全体に、高い女の声が響いた。
『コソコソと身を隠して、まるで地を這う虫よな。斯様に薄汚い輩を、余手づから相手にしろというのだから、アレの臆病さが知れるわ』
知らない声だが、明らかに俺達に語り掛けている。
「恐らく、昨日話したメギナ・ヴァン・ディアドレッドでしょうね」
声を潜めて、ルシフィナが呟いた。
『どうした。余が声を掛けてやっているのだぞ? 感涙に咽いで、天を仰ぎ見るのが道理ではないか?』
聞こえてくる声からは、傲慢さが滲み出ていた。
傲慢、という一点においては、声の主とエルフィには通じるところがある。
徹頭徹尾、相手を見下すその態度はまったくの別物だが。
「どうしますか? まだ相手とは距離があります。遠回りになりますが、迂回するのも手だと思いますが」
「そうだな。こっちの隠蔽の魔術を見破ってくる相手だ。対策は必要だが、今あいつらとやり合う必要はない」
「迂回だァ? あいつら全員を相手にする必要はねェが、もっと手っ取り早く進む方法があるだろォが」
迂回で話を進めようとした時だ。
杖の先で地面を叩き、リューザスが会話を遮ってくる。
「何?」
「遠見に対策するのは訳ねェが、どのみち俺達が西側から進もうとしてんのはバレてんだ。だったらよォ――」
リューザスが赤い瞳を細め、獰猛に笑う。
『……不調法者が。出てこないのであれば――』
「――先回りされる前に、突破しちまえば良いだけの話だろォが」
岩陰から躍り出ると、リューザスが杖を振り下ろす。
直後――星が地に堕ちた。
燐光が瞬き、並んでいた骸達が爆発の勢いに飲まれて吹き飛ばされていく。
――“喪失魔術・落星無窮”。
以前見た時よりも、二回りほど規模が小さい。
出力を落として、威力を調整したのか。
魔術の影響で、相手の統率は乱れ、爆心地周辺に空洞が生まれている。
「おら、あそこを通って進めば良いだけだ」
「見える限りでは敵はあの軍隊だけだが、他に伏兵はいないのか?」
「いねェからぶっ放しだんだ。とっとと行くぞ」
「リューザスさんの方がよっぽど脳筋じゃないですかっ!」
魔術で身体を強化したリューザスが走り始める。
一瞬遅れて、俺達もその後に続く。
散り散りになった骸達の間を、一気に駆け抜けていく。
『クハッ。仰ぎ見るべき余を、随分と愚弄してくれるなぁ』
背後で、女の声が響く。
『あの程度の数では抑えきれんか。だが、逃れられると思うなよ。どうせこちらに向かってくることは分かっている。そこで貴様らを――』
「グチグチ負け惜しみしてんじゃねェよ。黙って椅子に踏ん反り返ってろ、馬鹿女」
『……絶対殺す』
リューザスの挑発に、声の主が激怒するのが分かった。
背後で、骸達が再び統率の取れた動きで動き始める。
「挑発する必要があったか? 分かりやすく傲慢な相手なんだ。お前が言った通り、踏ん反り返らせてれば良いだろうが」
馬鹿正直に軍を並べるような奴だ。
調子に乗らせておいた方が、やりやすいに決まってる。
「うるせえ、馬鹿に馬鹿って言って何が悪い」
「だから昔から貴方には敵が多いんですよ!」
振り返り、ルシフィナが大剣を振り下ろす。
放たれた斬撃が、追ってきていた骸達の足を止める。
その間に丘を走り抜け、俺達は骸を振り切った。
しばらく走り続け、俺達は金剛の縄張りとされる西側――。
広い森に、到着した。




