第十五話 『宝物に別れを』
オルテギアを包み込んだ泥が、こちらにも広がってくる。
エルフィとともに後ろへ下がり、その範囲から逃れた。
だが、俺達の視線は頭上へ釘付けになっている。
「どういうことだ、伊織。“死神”は何をしている!?」
「……俺が聞きたい。そもそも、アイドラーはここに来る前に、攻撃から俺を庇って死んでいるはずなんだ」
「なんだと?」
浮遊したままのアイドラーは、嬉しそうな笑みを浮かべて俺達を見下ろしている。
「どういうことも何も、見たままだよ。ボクはただ死んだふりをしていただけさ。盤上から降りるには、あのタイミングしかなかったからね。どうだった? ボク的には、かなり迫真の演技だったと思うんだけど」
「そんなことが聞きたいんじゃない。この泥は一体何だ! お前は一体、何をしている!?」
「質問が多いなあ。これは、ボクが魔力でコツコツ生み出した冥府の泥だよ。この泥で核を包むことで、ようやくボクは目的を果たすことができる」
冥府の泥?
言っている意味が、まるで理解できない。
「いやぁ、君達にはほんと、感謝の言葉を送りたい。よく、ここまでオルテギアを弱らせてくれたね。育ちすぎたこいつに泥を浴びせても抜け出されて終わりだっただろうからさ。ありがとう、伊織君。ありがとう、エルフィスザーク。ボクのために働いてくれて、本当にありがとう」
そう言った直後、アイドラーは空間に手を伸ばした。
ズプと空間に波紋が広がったかと思うと、アイドラーの手がその中に沈んでいく。
それから、アイドラーは空間から一本の剣を取り出した。
思わず、絶句した。
なんでだ。
「……なんでお前が、『天理剣』を持ってるんだよ」
それは、ルシフィナが持っていた剣。
オルテギアに、奪われたはずの剣だった。
「伊織君なら、わざわざ聞かなくても答えは出てるんじゃないかな?」
「お前が……お前が、ルシフィナを殺したのか」
「うん、そうだよ」
当然のように、アイドラーは頷いた。
自分の体に手をかざしたかと思うと、アイドラーの姿に変化が現れる。
オルテギアの姿に、変化した。
「――オルテギアの姿で、ルシフィナを殺したのはボクさ」
それは、オルテギアと全く同じ声だった。
違いがあるとすれば、その声音に隠しきれない喜色が含まれていることだ。
瞬きの間に、気付けば元のアイドラーの姿に戻っていた。
「――――」
オルドリン大森林の夜、アイドラーと交わした会話を思い出した。
他人の体を乗っ取る魔術を知っているか、と俺がアイドラーに聞いた時だ。
『他人に化けたり、そっくりな人形を作る魔術ならともかく、他人に乗り移るなんて、ボクでもできる気がしない』
つまり。
「お前がオルテギアに化けてルシフィナを殺し……自分に似た人形を作って、死んだふりをしていたのか」
「そうそう、理解が早くて助かるよ」
「何故だ。何故、そんなことをしたッ! お前はオルテギアに復讐したかったんじゃないのか!?」
怒りよりも、困惑が先にきた。
この状況が、上手く飲み込めない。
アイドラーの意図が、つかめない。
「理由は三つあるかな。一つは『天理剣』を取り戻すには、あのタイミングがベストだったから。全員が弱っていたし、簡単に持っていけるのはあそこを除いて他にはないと思ったからね。せっかくの機会を逃すわけにはいかなかったんだ」
「――――」
「二つ目は、君にオルテギアを憎んでもらうためさ」
「……何だと?」
「大森林で聞いたよね。君はオルテギアを憎んでいる様子はないけどどうするの、って。君はエルフィスザークと一緒にオルテギアを殺しに行くって答えたけど、それじゃ甘いと思ったんだ。君達には、絶対にオルテギアを倒して欲しかったからね。心の底からオルテギアを憎んで、どんな手段を使ってでも殺す――そんなモチベーションを、君に与えたかった」
そんな、ことのために、ルシフィナは殺されたのか。
「まあ三つ目は純粋に、ボクが殺したかったから。死に損ないのハーフエルフの分際で、メルトの作った剣にベタベタ触っていたのが許せなかったのさ。以上が、ボクがあの場でルシフィナを殺した理由だよ。満足してもらえたかな?」
アイドラーは笑っている。
嗤って、楽しそうに語っている。
メルトの作った剣。
まるで、他人事のようにアイドラーは言った。
「お前、は……メルトじゃ、なかったのか?」
「違うけど?」
鼻で笑って、アイドラーは答えた。
「ああ、死に際にそんなやり取りをしたっけ。でも別にボク、君の言葉は肯定してないよね。メルトだって、名乗った覚えもないよ」
「じゃあ、お前は――」
そこまで言いかけた時だった。
泥が勢い良く爆ぜて、飛沫を周囲に撒き散らす。
中から、泥に塗れたオルテギアが、必死の形相で姿を現した。
依然、下半身は泥に包まれたままだ。
「随分としぶといね」
「き、さま。貴様は、一体何者だ!!」
半笑いで視線を下に落とすアイドラーに、血を吐くような声でオルテギアが叫んだ。
そうしている間にも、泥はオルテギアを飲み込まんと流動している。
それを掻き分けて、オルテギアはアイドラーを睨んでいる。
「まあ、せっかくここまでやってくれたんだ。不出来な子の前でもあるし、自己紹介でもしておこうか」
アイドラーの瞳の色が、変わった。
黒みがかっていた桃色から、濃い赤へと移っていく。
その中央に、白い十字架のような文様が浮かび上がった。
世界を掻き抱くかのように両手を広げ――アイドラーは言った。
「我は魔を統べる者。
営みの光を犯し、堕とす者」
故に、我が名は――――。
「――“堕光神”ハーディア」
◆
――この世界には、かつて二柱の神が存在したと言われている。
人間を創造したと言われる、“聖光神”メルト。
魔物を創造したと言われる、“堕光神”ハーディア。
この世界は、これらの“創世の二神”と呼ばれる存在によって生み出された。
その片割れだと、アイドラーは名乗った。
「ハーディア、だと。それが本当なら、貴様は冥界に封じ込まれているという話だが」
「忌々しいことに、それは事実だ。何百年もの間、ボクは地の底に封じ込まれていた。けれど、それは今日までの話。君達のお陰で、ボクはこっちに戻ってくることができる」
エルフィの問いに滔々と答えると、アイドラーは再び泥の中のオルテギアへ視線を向けた。
「聞くところによると、君は自分が生まれた意味を見つけたがっているようだね。君は一体何者なのか、何のために生まれたのか――親であるボクが答えてあげよう」
「親、だと?」
「そうとも。君を作ったのは、ボクだからね」
「――――」
絶句するオルテギアに構わず、アイドラーは言葉を続ける。
「オルテギア、君は魔王だと名乗っているけれど――そもそも魔族でも何でもないんだよ。そうだね、端的に言えば君は『門』だ」
「門、だと?」
「そう。現世と冥府とを繋ぐ、『門』だ。冥府の泥に魔力を練り込み、作り上げた道具の一つにすぎないのさ」
その言葉を聞いて、あの時、夢の中で聞いた言葉の意味を理解した。
『オルテギアの正体は冥府への門』
声の主は、このことを俺に伝えようとしていたのか。
「ボクの体は、冥府に封じ込まれている。だから、こっちに帰ってくるためには、現世と冥府を繋ぐ門を作る必要があったんだ。数百年魔力を蓄え、ボクは現世に自分の分身を送り込むことに成功した。その応用で、冥府で作った門、つまり君を現世に送り込んだ」
「――――」
「ただ、門を開くには膨大な量の魔力が必要だ。ボクが魔力を用意するまでの間に、門が壊されたらたまったものじゃない。そこで、君には強い生存本能と、成長するための機能を付与した。その上で、誰も近づかない地域に送り込んだわけだけど――まさか、魔王級の魔族の肉体を喰らうなんて思っていなかったよ」
そこまで聞いて、エルフィが弾けるようにオルテギアに視線を向けた。
「まさか……オルテギア。貴様が、あの時の黒い化物、か?」
黒い化物――エルフィの過去の話は、ここに来る前に聞いている。
魔物や魔族を喰らい、成長する正体不明の化物。
その化物は、エルフィ達の戦いで討伐されたという話だったが。
「――――」
オルテギアはただ目を見開き、黙りこくっている。
だが、その表情はエルフィに酷似していた。
星の光を閉じ込めたかのような銀髪に、黄金に輝く双眸。
側頭部から生えている漆黒の角。
以前から、この二人の容姿が似ているとは思っていた。
エルフィに倒された後も、オルテギアは生き延びていた。
アイドラーが与えたという成長能力を使って、今の姿にまで進化した。
そう考えれば、血縁関係がないというエルフィとオルテギアが似ていることにも納得が行く。
「エルフィスザークの肉を喰らったことで、門は知能を身に付け、魔族に近い姿にまで成長した。その上、オルテギアなんて大層な名前で、魔王軍に潜り込む。……完全に想定外だったし、流石にボクも頭を抱えたよ。容易に君に近づけなくなったし、よしんば近付けても今のボクじゃ君に太刀打ちできないからね。随分と苦労させられたよ」
「では……私が生まれた意味は。他者を喰らい、犠牲にしてでも、私が生き続けなければと考えたのは――」
「ああ。ボクを冥府から現世に呼び戻す。そのために、君は生きなければならなかった。ただそれだけが、君の存在意義さ」
震えた声で問いかけるオルテギアに、アイドラーは当然のように答えを告げた。
呆然と目を見開き、何かを口走ろうとして、諦めたようにオルテギアは口を閉じる。
それを見てアイドラーは満足げに頷くと、
「これまでご苦労さま。君は、自分の役目を果たすといい」
今度こそ、オルテギアの体は泥の中に飲まれていった。
泥の表面に、沸騰したかのように無数の泡が浮かび上がってくる。
そのまま緩慢に泥は動き、次第に形を変えていく。
泥が形作ったのは、門とは名ばかりの歪な四角形だった。
その四角形が、中央から二つに裂け、内部からどす黒い何かが溢れ出してくる。
何かは空気に触れた瞬間、無数の粒子に変わり、アイドラーの元へ向かっていった。
「ふふ。ようやく、この世界に帰って来られる」
黒い粒子に包まれながら、アイドラーは陶然と微笑む。
粒子がアイドラーに触れると、泡が弾けるようにして消えていく。
いや――アイドラーの中に、取り込まれていく。
「魔力だ」
エルフィが、呟いた。
「あの門から溢れ出ているのは、高濃度の魔力だ。それが奴の体の中に吸収されている」
膨大な粒子が、暴風のように吹き荒れる。
アイドラーが被っていたベレー帽が、遠くへ飛ばされていく。
気にした素振りも見せず、アイドラーは両手を広げて笑みを浮かべていた。
「――――」
――アイドラーの体に、変化が現れる。
その頭上に、赤く禍々しい輪が構成されていく。
肩で揃えられていたピンク色の髪が大きく靡き、気付けば膝元にまで伸びていた。
その背から、魔力で構成された四本の翼が姿を現す。
「――ただいま、ボクを拒んだ忌々しき世界」
変貌した姿で、アイドラー――ハーディアは微笑みを湛えてそう言った。
そうしている間にも、門からはどす黒い粒子が溢れ続けている。
あれがすべて、冥界に封印されていたハーディアの魔力なのか。
――不意に、門がグズグズと音を立てて崩れれていく。
「ああ。やっぱり、完全に門を形成するには、魔力が足りなかったか」
呟いて、ハーディアが視線を俺に向けた。
翡翠の太刀を構え、ハーディアを睨み返す。
「騙していたのか、俺達を」
「いいや。本当のことを言わずに、利用していただけさ」
「……ふざけるな」
尽きかけていた魔力を総動員し、【英雄再現】を発動する。
何を企んでいるかは分からない。
だが、こいつがルシフィナを殺したと分かった以上、生かしておくわけにはいかない。
魔力を足に集中させ、ハーディアの下まで跳躍しようとして――、
「ああ、無駄だよ」
付けていた白い指輪が、光った。
瞬間、ガクンと全身から力が抜けた。
「なん……だ」
「それはボクが権能で作った指輪でね。嵌めている者にボクの加護を与えることができる。オルテギアとの戦いでは役に立ったでしょ? けど、その力をボクに向けた瞬間――君は力を封じられることになる」
「――ッ」
「当然だよね。一方的に加護が与えられるなんて、都合が良いとは思わないかい?」
直後、エルフィが動いた。
魔眼を発動し、アイドラーを撃ち抜こうとして、
「――“愛すべき星の死に涙を”」
ハーディアが『天理剣』を振り下ろした。
放たれたのは、虚空迷宮で見た時よりも規模が抑えられた斬撃だ。
エルフィが動くよりも早く、斬撃はエルフィを吹き飛ばした。
「が、ふ……伊織ッ」
「君の相手は後だ、エルフィスザーク。そこで横になっていると良い。大人しくしていれば、それだけ君の寿命は長くなる」
地面に転がり、エルフィが血反吐を吐く。
駄目だ。
あいつも、オルテギアとの戦いで限界が来ている。
これ以上は……。
「『勇者の証』……メルトの権能の一部を身に宿す君を、生かしておくわけにはいかない。門の維持に魔力が必要だし、君には絶対に死んでもらうよ、伊織君」
足掻いても、水の中にいるかのように緩慢にしか行動ができない。
そうしている間に、ハーディアが指を鳴らした。
「――『権能・愚世創造』。
さあ出てこい、《喰蛇》」
ボコボコと泥が泡立ち、形を変えていく。
現れたは、龍種ですら飲み込めそうな程の巨大な首を中心に、それよりやや小さな首が十本くっついた巨大な蛇。
ガラス片のように鋭い漆黒の鱗が全身を覆っており、体をくねらせる度に光を反射して輝いている。
「死んじゃって、伊織君」
「お……おおおおおおおおォォォ――ッ」
『勇者の証』を最大限に利用し、全魔力を解放する。
僅かに、体が自由になった。
魔毀封殺を発動する。
だが、
「無駄だってば」
一撃で、盾が破壊された。
蛇の首の一つが、牙を剥き出しにして襲いかかってくる。
翡翠の太刀を振りかぶり、全力で頭部に向けて振り下ろす。
「くッ」
強固な鱗に阻まれ、刃が弾かれる。
何とか牙を躱すものの、激しく巨体にぶつけられ、地面に叩き付けられる。
そこへ、他の首が突っ込んでくる。
「ご苦労さま、伊織君」
一本の首を、風撃を使って回避する。
「君の死は無駄にしないよ」
一本の首の突進を、もろに受ける。意識が飛ぶ。
「だからもう諦めてさ」
一本の首の噛みつきを、力を振り絞り、魔毀封殺を展開して防ぐ。盾が砕けた。
「楽になりなよ」
残った首が、同時に鞭のように振り下ろされた。
回避できない。
直撃する。
鱗に、全身の肉を摩り下ろされる感覚。
視界が赤く染まる。
鉄臭い液体がせり上がってくる。
魔術を放つ。
蛇に通じない。
ハーディアは嗤っている。
蛇の中心、最も大きな首が動いた。
身動きの取れない俺を仕留めようと、ゆっくりと近付いてくる。
手が動かない。
足が動かない。
魔力が尽きかけている。
意識も飛びそうだ。
打つ手がない。
「――バイバイ」
ハーディアの声が聞こえた。
蛇が迫る。
死――――。
誰かが、俺の襟を掴んだ。
勢い良く、投げられる。
地面にぶつかり、ゴロゴロと転がった。
見上げて、理解する。
俺を投げたのは、エルフィだ。
蛇の突進を、エルフィは魔腕で受け止めた。
「なあ、伊織」
「エル、フィ……」
「お前と旅ができて、私は幸せだったんだ」
何を、言っている?
「オルテギアへの憎悪に灼かれながらも、お前と過ごしている時だけは、心が落ち着いた。三十年、暗闇の中に閉じ込められていた恐怖を忘れられた。私と対等にものを語り、お前は時には私に怒ったりもしたな。実はお前に無茶を言って怒られるのが、楽しくて、私は好きだった」
「エルフィ……」
「一緒に御飯を食べて、温泉にも入って、分身体ではない肌を見られたりもしたな。男に素肌を見せるのは、あれが初めてだったのだぞ? まったく……。伊織と一緒の旅は、初めてのことばかりだったな。決して、楽な日々ではなかった。だが……うむ。振り返って見れば、やっぱり私は、伊織と過ごせて、幸せだった」
「エルフィ」
「お前と過ごした時間は、私の人生の宝物だ」
エルフィの体から、魔力が抜けていく。
限界が、来たのだ。
「それからな……。これは本当は、全部終わってから伝えるつもりだったのだが……」
頬を赤く染めて、満面の笑みを浮かべて、エルフィは言った。
「――愛しているぞ、伊織」
だから、お前は生きろ。
「エ――――」
バクン、と。
エルフィが、蛇に飲み込まれた。
それで、終わった。
→hardia




