第十四話 『終わり』
――世界を塗り潰していた漆黒の光が、波が引くように収まっていく。
ガラスが砕けるような音とともに、周囲を覆っていた結界が崩壊していく。
足場が消え、俺達は下の階へと着地する。
ズダンと音を立てて、黒焦げになったオルテギアの体が地面に叩き付けられた。
「う……ぐ」
「……あれを受けて、まだ息があるのか」
ヒュー、と風が吹くような呼吸音とともに、その肩が力なく動いている。
鎧は消滅し、手にしていた大剣も砕け散っている。
完全に、俺達の勝利だ。
「……わたし、ぁ」
声が聞こえた。
まだ、意識があるのか。
「私、は……こんなところで、死ぬわけにはいかないのだ」
蚊が鳴くような、か細い声だった。
残っていた魔力を動員して、オルテギアは体を治癒しているらしい。
だが、これほどの傷を負っている状態であれば、いくら治癒魔術を使っても戦闘は不可能だ。
オルテギアは残った片手を使い、立ち上がろうとしていた。
しかし、ズルリと地面に倒れ込む。
這いつくばったまま、オルテギアは言葉を零す。
「私はまだ……自分が生まれた、意味を見つけられていない。『死にたくない』と恐怖に駆られ……他者を犠牲にして生きながらえてきた私の存在理由を見つけられていない……!」
「――――」
おおよそ、俺の知るオルテギアが口にしそうにない言葉だった。
驚きから黙る俺に変わって、エルフィが口を開く。
「言ったはずだ、オルテギア。生まれた意味など考える必要はない。貴様はこれから、私達によって殺されるのだからな」
歯を食いしばり、オルテギアが立ち上がろうとする。
「それに……!」
顔を上げ、オルテギアが叫ぶ。
「この世界は……強き者しか生きることができない。生きるには、他者を喰らい、殺し、犠牲にしなければならない。――そんなのは間違っている」
「――――」
なんだ?
こいつは、何を言っているんだ?
「魔族には……戦えない者もいる。力を持たぬ、女子供がいる。私が死ねば、弱き魔族は人間に蹂躙されるだろう。そんなことは認められん……! 我ら魔王の役目は、魔族を守ることだ」
「――――」
「エルフィスザークッ!! 人間達と手を組むなどという不確かな方法で、本当に弱き魔族を救えるとでも思っているのか!! これまで互いを憎み合い、殺し合ってきた私達が、手を取り合って生きることなど不可能だ! 魔族を救うには! 人間を、亜人を! 我らに敵対する者どもを、根絶やしにする他にはない!!」
「ふ、ざけるな。部下を用済みだと嘲笑った貴様が、戯言を口にするなッ!!」
「人間と手を取り合おうなどと不確かな理想に縋った貴様に、魔王と名乗る資格などないッ!! 何故、我ら魔族を滅ぼそうとした“勇者”などと手を組むのだ!! 何故分からない!? 貴様のやり方では、魔族を守ることなどできはしないッ!! 貴様を封印し、貴様の部下を殺したのは!! そのような下らぬ考えを持ち、魔族全体を危険に晒したからだ!!」
――何だ、これは。
魔王城に来る前から感じていた、気持ち悪さ。
戦いの中でオルテギアから感じた違和感。
それを口にしようとしても、思考に靄が掛かったかのように言葉が出てこない。
激高したオルテギアとエルフィの叫びが、どこか遠くのことのように思える。
ズキズキと、『勇者の証』が疼く。
その痛みを、指にはめた白い指輪が和らげていくかのような感覚。
俺は、
「オルテギア。お前、『天理剣』はどこにやった?」
何とか、言葉を吐き出した。
「何故、あの剣を使わない? 忌光迷宮で見せたあの一撃があれば、結果は変わっていたかもしれないのに」
「伊織、何を言っている?」
「答えろ」
怪訝な表情を浮かべるエルフィを無視して、オルテギアに問いかける。
「……先ほどから、貴様は何を言っているのだ? そんな剣は持っていないし、そもそも私にその剣が使えるわけがないだろう」
「――――」
「何を惚けたことを言っている。そもそも、貴様らがルシフィナを、我が部下を手に掛けたのだろう……!」
「――は?」
今、こいつはなんて言った?
理由の分からない焦燥が、湧き上がってくる。
冷たい汗が、額を伝って地面に落ちる。
思考に激しいノイズが走り、吐き気が込み上げてくる。
「……私はまだ、死ぬわけには、いかん」
ふらふらと、オルテギアが立ち上がる。
どこに魔力が残っていたのか、その身を再び鎧が包んでいく。
「……下らぬ戯言をほざくな、オルテギア」
エルフィの低い声。
その腕に、魔力が集まっていく。
「……おい、エルフィ」
か細い声しか出ない。
喉に何かが詰まっているようだ。
冷静さを失ったエルフィの耳に、言葉は届かなかった。
「…………待て」
何だ、この感覚は。
まるで、決定的な思い違いをしているような。
取り返しのつかえない、致命的な、間違いを犯しているような。
そんな、悪寒が走る。
ルシフィナはオルテギアが殺した。
なのに、あいつはなんて言った?
俺達が、ルシフィナを手にかけた、だと?
オルテギアは言った。
その剣を、使えるわけがないと。
嘘だ。
忌光迷宮で、あいつが『天理剣』を振るうのを俺達は確かに見ている。
だが、ここでオルテギアが嘘をつく意味はなんだ?
何故あいつは最初から『天理剣』を使わなかった?
魔力を増幅する力を持つあの剣があれば、俺達はより苦戦を強いられたはずだ。
何故、使わない?
いや。
使わないのではなく……使えない?
「貴様が踏み躙ってきたすべての魂に詫び続けろ、オルテギア」
エルフィが、魔腕を振り被る。
ああ……そうだ。
そもそも、俺は忌光迷宮でオルテギアを見た時に違和感を覚えたんだ。
ルシフィナを見るオルテギアの目には、侮蔑と嫌悪が浮かんでいた。
――オルテギアは、ここまで感情を表に出す男だったか?
あの時、俺はそう思ったんだ。
「……エルフィ」
思い出せ。
あのオルテギアの体に、魔王紋はあったか?
……いや、あいつは全身をローブで覆っていた。
魔王紋は、見えなかった。
そして。
今日の戦いで、オルテギアは俺のことをずっと、“アマツ”と呼んでいる。
虚空迷宮でオルテギアは、俺をなんと呼んだ?
――天月伊織。
「――――」
ザザザザザ、と視界にノイズが走る。
『勇者の証』が、焼けるような熱を発している。
『――――』
誰かの声を思い出す。
どこで、聞いたのだったか。
『■■■■■の■体は冥■■の■』
あの時、あの声は最後になんて言ったんだ?
「――――」
直後。
ノイズで聞こえなかったはずの言葉を、明瞭に理解できた。
『ですが、彼は利用されているだけなんです』
――ナニカが、嗤った気がした。
「待て、エルフィッ!! 何かがおかしい――ッ!!」
俺が叫ぶのと、ほぼ同時。
「これで、終わりだ――ッ!!」
エルフィが、魔腕をオルテギアに向けて振り下ろそうとして。
「――まだ終わらないよ」
どす黒い泥のようなものが、空からオルテギアに向かって降り注いだ。
「なんだ、これは……ッ」
強い粘性を持ったそれが、オルテギアの体を飲み込んでいく。
藻掻いて抵抗するオルテギアだが、泥はその体を逃さない。
瞬く間に、オルテギアは完全に泥の濁流に呑み込まれた。
「これは……」
「何が、起きている?」
頭上を見上げて、俺達は固まる。
空に黒い穴が空いていた。
そこから、下に向かって泥が降り注いでいる。
「――これから、始まるのさ」
穴の横に、何者かが浮遊している。
「おい……どういうことだ」
黒いベレー帽、洋服の上に掛けられている白いマント。
グレーのスカートに、太腿を覆うニーソックス、膝まである白いロングブーツ。
肩口で揃えられた濃いピンク色の髪と、黒みがかった桃色の瞳、林檎のように赤い頬をした少女。
「なんで、お前が生きてるんだ。
――アイドラー」
その口元が、三日月を描くように歪んだ。
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