第十二話 『エルフィスザークは』
「がふっ」
突き立てられた腕が抜かれ、血液が勢いよく零れ落ちる。
喉を熱い物が迫り上がり、口から血の塊がゴポリと溢れた。
背中を強く押され、俺は血を撒き散らしながら無様に地面に転がった。
顔を上げれば、エルフィは血に塗れた手を振りながら、冷めた目で俺を見下ろしていた。
「信じられないモノを見るかのような表情だな、伊織。あの魔術師達に裏切られた時も、そんな表情をしていたのか? だとしたら、あの時の伊織は随分と滑稽な顔をしていたのだな」
嘲るように口元を歪め、エルフィは吐き捨てるように言った。
「エル、フィ」
その表情が、見知った姿とあまりにかけ離れていて、思わず震えた声で名前を呼んだ。
「お前は、本当に……エルフィなのか?」
問いに、エルフィは顎に手を当てる。
それから得心が言ったかのように手を叩くと、呆れたように言った。
「ふむ。私があのルシフィナという女のように、誰かに憑依でもされているとでも考えたのか? 残念ながら、違うぞ伊織。完全体に戻った私に、憑依できる存在などいない」
寒い。
流れ落ちていく血液が、地面を赤黒く染め上げていく。
血が落ちるたびに、温度が体から抜け落ちていくような感覚があった。
「分かるか、伊織。ここへ来たのも、オルテギアを下したのも、そしてお前をこの手で貫いたのも。――すべて、私自身の意志で行っていることだ」
そもそもあの件があってから、憑依への対策は万全に練っただろう?
エルフィは、トントンと頭を指で叩きながら追い詰めるように言葉を並べる。
その通りだ。
二度と、ルシフィナの時と同じ轍を踏まぬよう、憑依魔術への対策は取ってきた。
アイドラーのお墨付きも得ている。
エルフィが憑依されている可能性は、万に一つもない。
エルフィは小さな溜息を吐く。
それから、憐れむような表情を浮かべた。
「伊織、お前に感謝しているのは本当だ。お前がいなければ、私はここまで絶対に辿り着けなかっただろう。ここまで来られたのは、お前がいてくれたからだ」
「――――」
「天月伊織という人間は、私にとって好ましい存在だったよ。お前と各国を旅するのは楽しかったし、一緒に食した料理はどれも美味だった。お前とともに過ごす時間がずっと続けば良いと思ったことも一度ではない。だが、オルテギアを下した今、お前の存在は無用だ。旅も、復讐も、お前との契約も、これで終わりだ」
「――――」
「このままお前と手を組み続ければ、私が掲げていた表の目的は果たせるだろう。だが、私の本当の目的のためには、“勇者”という存在は邪魔となる。だから、伊織。お前にはここで消えてもらう。誰の邪魔も入らない、今、この場所で、私がこの手でお前の息の根を確実に止める」
そう言ってから、エルフィは一度目を伏せる。
「それに、お前は一度でも考えなかったのか?」
開かれた双眸には、憎悪の色が浮かんでいた。
「――お前が“勇者”として虐殺してきた魔族の中に、私の大切な存在がいたという可能性を」
「――――」
「お前の理想は尊いモノだ。だとしても、これまで多くの魔族を殺してきたことに変わりはない。お前がその手で殺した者の中には、やむを得ずオルテギアに従っていた、私の部下も含まれている。いつか私を助けるために、オルテギアの信用を得ようとしていた、仲間がな。天月伊織……いや“英雄アマツ”。オルテギアだけではない。お前も、私の仲間をその手に掛けているのだ」
「――――」
「分かるか、伊織。――これは、“魔王”としての、“勇者”への復讐だ」
エルフィは、魔王城の下に視線を向けた。
城の外周では、今も同盟軍と魔王軍が争いを続けている。
痛ましいものを見るように表情を歪め、エルフィは再び俺へ視線を向けた。
「お前を殺し、私は再び“魔王”として君臨する。“勇者”の亡骸を掲げれば、オルテギアに付き従っていた魔族どもも私を認めるだろう。同盟軍とやらも、お前の死を知ればその士気は大きく下がるはずだ」
「――――」
「“勇者”の死と、“魔王”の再臨を以て、私はこの戦争を終わらせる」
話は終わりとばかりに、エルフィはこちらに足を踏み出した。
「安心しろ。私はこれまで見てきた者達と違って、お前をいたぶって楽しむような悪趣味なことはしない。一瞬で、その息の根を止めてやる」
その瞳に、魔力が集まっていく。
ともに戦う中で何度も目にした、“魔眼・灰燼爆”。
大地すら溶かし、消し飛ばす紅蓮の地獄が目の前に広がっていく。
それを見て。
「く」
俺は。
俺は、
「……くく。はは。はははは」
堪えきれずに、笑っていた。
「……何がおかしい」
訝しむような問いを聞いても、笑いが止まらない。
「あははははははははははははッ!!」
「何がおかしいと、聞いている!」
怒号を耳にして、ようやく笑いが収まった。
息を吐いて、冷静さを取り戻す。
「ああ、悪い。俺はなんて間抜けなんだ、と思ってな」
「……どういう意味だ」
双眸を紅く輝かせながら、エルフィが低い声で問うてくる。
「ああ。あの日から、何度も何度も考えたよ。エルフィに、エルフィスザーク・ギルデガルドに、裏切られるという可能性を」
この言葉は、半ば独白だった。
エルフィと手を組んだあの日から、俺はずっと考えてきた。
何度もともに戦って、何度もお前に助けられて、今日までずっと一緒に過ごして。
その中でずっと、考えてきた。
だからこれは、今さら悩むようなことじゃないんだ。
「俺は、なんて間抜けなんだ」
笑みを浮かべ、俺は繰り返す。
自分が間抜けだなんてことは、前から知っていたはずだったんだがな。
ここに来て、再確認させられるとは思わなかった。
ゆっくりと、立ち上がる。
「……もう良い。終わりだ、伊織」
続く俺の言葉を拒むように、エルフィは魔眼を解放した。
眼前に紅蓮の光が迫る。
それでも構わずに、俺は言葉を続けた。
「結論なんて、とっくに出ていたはずなのにな」
ああ、そうだ。
答えなんて、もう出ている。
『お前は私を助けてくれたからな。そこに人間も魔族も関係ないだろう?』
『……降ろして、伊織』
『信じる者は自分で見定めろ』
『ここから逃げろ、伊織』
『――魔王キィィック!!』
『さっきから一人でブツブツブツブツと……! 辛気臭いしちょっと不気味だ! せっかくの林檎パイが不味くなるだろう!!』
『――お前は、悪くない』
『私は……お前に、死んで欲しくないのだ』
悩むまでもない、当たり前の答えだ。
『私に協力してくれれば、私もお前に協力しよう。私の復讐に手を貸してくれるのならば、
お前の復讐にも手を貸そう』
『お前が私の仲間である限り、私はお前を裏切らない』
『私と共に来い――“元勇者”』
ブレていた視界が、ハッキリと定まる。
冷めきっていた体温が、元に戻る。
胸に空いた穴に、炎が灯ったような感覚。
そうだ。
お前は。
「エルフィは」
灰燼爆が、俺を包む直前。
「――エルフィスザークは、絶対に俺を裏切らない」
――その言葉とともに、世界が砕け散った。
眼の前に迫る閃光も、見えていた空も、倒れていたオルテギアも。
何もかもが、瞬く間に崩壊した。
見えていた風景が変わる。
俺が立っていたのは、黒い壁に囲まれた広い部屋の中だった。
先程まで目の前に立っていたエルフィの姿は消えている。
ズプリ、と。
背後に構えていた剣が、肉を貫く感覚があった。
「馬、鹿な……。何故、動ける」
刃が、背後から俺に斬りかかろうとしていた魔族の胸を貫いていた。
剣を抜く。
震える声を吐き出して、ズルズルと魔族は地面に倒れていく。
これまで見えていたモノは、すべてが幻覚だった。
屋上に上がってきたと錯覚していただけで、俺はずっとこの部屋の中にいたのだ。
俺とエルフィしか知りえない情報が会話の中に出てきたということを、対象の記憶を元に、心的外傷を抉ることを目的とした結界だったのだろう。
嫌らしい罠だ。
考えたのは、ヒルデ・ガルド辺りか。
部屋の中で、何人もの魔族が苦い表情をして俺を睨んでいる。
幻覚に閉じ込め、動きの止まった俺を殺すつもりだったのだろう。
「オルテギア様の下に、行かせるわけにはいかん! ここで、この男を足止めするのだ!」
雄叫びとともに、部屋の中の魔族が俺に殺到する。
悪いな。
俺はここで、立ち止まっているわけにはいかないんだ。
「――【英雄再現】」
視界に映る、灰色の髪の男。
その背に手を伸ばし、俺はかつての力を取り戻す。
一刀の下、押し寄せる魔族のすべてを斬り伏せた。
「こんな罠を思いつくのは、あの女くらいだろう」
足に力を込め、勢いよく跳躍する。
天井を打ち砕き、俺は魔王城の頂へと上がった。
「だが、俺に幻術を掛けられる程の魔力を持つ者は、魔王軍には一人しか存在しない」
今度こそ、俺は魔王城の屋上へと降り立った。
「お前だ――オルテギア」
そこには、二人の魔王が対峙していた。
双方ともに傷を負い、全身から血を流していた。
「遅いぞ、伊織」
「悪い。待たせたな、エルフィ」
ジト目で見てくるエルフィに笑い、俺は正面へと視線を向ける。
「……アマツ」
苦い表情を浮かべ、オルテギアがこちらを睨む。
歩を進め、俺はエルフィの隣に並び、俺は言った。
「――俺達の復讐に、ケリを付けさせてもらうぞ。オルテギア」




