第二話 『元魔王のわがまま』
――どす黒い澱のようなものが、空から降り注ぐのが見えた。
粘性を持ったそれは、上を見上げている俺に向かって容赦なく降り注ぐ。
澱――というよりは、泥と呼ぶ方が正しいかもしれない。
黒い泥が体を呑み込み、妙に温かな感触が伝わってくる。
いつの間にか足元も泥に変わり、俺は為す術なく下へ下へと落ちていく。
これが夢だというのは、最初から理解していた。
同じような悪夢を、もう何度も見続けてきたからだ。
俺は……いつからこんな夢を見るようになったんだ?
思い返そうとするが、脳に靄がかかったかのように思考が働かない。
湯船の中で眠るかのような、そんな心地良さが体を包み込んでいく。
この泥に身を委ねても、良いのではないか。
少しずつ、そんな気になってくる。
やがて胴が完全に呑まれ、首まで泥に浸かった時だった。
『――――』
誰かの声を聞いた。
女性の声だった。
すぐ近くで、何かを懸命に叫んでいる。
しかし、その言葉は不明瞭で、意味を理解することができなかった。
本当に――本当に、すぐ近くから聞こえているというのに。
焦燥に体を焼かれそうになる。
このままではいけないと、取り返しのつかないことになると、本能が訴えている。
『――――』
やがて、誰かに引っ張られているかのように、俺は泥から抜け出した。
空から降り注ぐ泥に体を汚しながら、ゆっくりと空に浮かんでいく。
顔を汚す泥を拭おうと、手を持ち上げた瞬間だった。
『■■■■■の■体は冥■■の■』
「――――」
『ですが、■は■■■■■■■■■なんです』
声が聞こえた。
だが、聞こえたその言葉の意味が、理解できない。
声が、何かを伝えようとしている。
待ってくれ。
そう口にしようとして、
『――どうか、お気を付けて』
そんな声を最後に、俺の意識はその空間を後にした。
◆
まるで、長い間息を止めていたかのような息苦しさで、俺は目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返し、激しく鼓動する心臓を落ち着かせる。
俺は切り株に座ったまま、眠っていた。
確か、魔王領へ向かう途中、ベルディアを休ませるために山に降りた。
そして、そのまま一晩野宿するために、準備をしていたはずだ。
周囲はすっかり暗くなっており、それなりの時間眠ってしまっていたらしい。
すぐ目の前で、ぱちぱちと焚き火が音を立てている。
「…………」
ふと視線を感じて顔をあげると、焚き火の向かい側にエルフィが座っていた。
目があった瞬間、紅く染まっていた瞳が金へと色を変えるのが見えた。
「……どうかしたのか?」
「いや、何でもない。気のせいだった。……おはよう、伊織。お前がこの時間に眠るとは珍しいな」
「……? ああ、そうだな。少し気が抜けていた」
俺にはやるべきことがある。
休んでいる暇などない。
「別に無理をしなくても良いのだぞ。この山には、ベルディアちゃんの休憩のためだけに降りたわけではない。疲れているのなら、伊織もしっかりと休んでおけ」
「もう十分に休んださ。それよりも、考えたいことがある」
俺の言葉に、エルフィが何か言いたげに口を開いた時だった。
「あ、伊織君! 目を覚ましたんだね」
「……ゆっくり眠れた?」
木々の隙間から、アイドラーとベルディアが姿を表した。
アイドラーは手に果物を、ベルディアは野兎を何匹か掴んでいる。
どうやら、俺が寝ている間に食料を調達しにいっていたらしい。
「うーん。鳥のさえずりのようなボクの可愛い声で起こしてあげようと思っていたんだけど、残念だなぁ」
「……確かに、お前の声は鳥みたいに耳障り。黙ってて」
「やっぱり君ってばボクにだけめちゃくちゃ辛辣だよねぇ!?」
ギャーギャーと、主にアイドラーが騒ぎながら、二人が焚き火の傍までやってきた。
「……悪い、寝てた。野兎貸してくれ。今から料理する」
「いや、伊織はそのまま座っていろ」
「なに?」
エルフィが立ち上がり、拙い手つきで調理道具を並べていく。
それに追随して、ベルディアとアイドラーも料理の準備を始めた。
「おい、何してる」
「お前はまだ寝起きだろう。今日くらい、私達で料理する」
「そうそう! ボク達に任せておいてよ! 神様でも引っくり返るくらいの料理を作ってあげるからさ!」
俺は休んでいろ、ということらしい。
別に俺は疲れてなんかいない。
心配される必要なんてない。
余計なお世話だ。
と、口に出しそうになり、思いとどまった。
何を苛立っているんだ、俺は。
「……ああ、分かった。頼むよ」
浮かせた腰を戻し、三人が料理するのを見ていることにした。
……駄目だな。
変な夢を見たせいか、気分が浮ついている。
夢……そういえば、何の夢を見ていたんだったか。
「しかし、貴様が噂に聞いた“死神”とはな。想像していた姿と違い過ぎて、驚いたぞ」
「あはは。よく言われるよ。ボクの名前を聞いて、どうしてか骸骨王みたいなのを想像する人が結構多いらしいしね」
手を動かしながら、エルフィとアイドラーが会話している。
「けど、それは大きな間違いだ。そう、何を隠そう、この世界一可愛い美少女こそが、“死神”と恐れられるアイドラーちゃんなのさ」
「世界一可愛い美少女……? それは私のことではないのか?」
「……うん?」
「……む?」
お互いに首を傾げあいながらも、二人は手を動かしている。
が、果実は全然剥けていないし、野兎の下拵えもまるで駄目だな。
次第には二人してナイフで指を切って大騒ぎし始めた。
そんな中で、ベルディアがだけがテキパキと準備をしている。
拙さはあるが、あの二人よりもよっぽどマシな手つきだ。
意外だな。
「料理、できたんだな」
「……少しだけ。伊織や他の人がやっているのを見て、勉強した」
そう言えば、俺が料理している時にジッと手元を見ていたな。
あれは食材を見ていたんじゃなくて、俺の手つきを見ていたのか。
「……頑張った。偉い?」
「そうだな。騒いでるだけのあいつらと違って、よくやってる」
「……むふふ」
少し嬉しそうにして、ベルディアは料理を進めていく。
いつぶりだろうな。
こうやって、誰かに料理を作ってもらうのは。
エルフィとアイドラーの方に視線を向けると、食材が無残なことになっていた。
二人はそれを気に留めず、何故か果物も兎の肉も鍋の中に放り込んでいる。
あれを食べたら、酷いことになりそうだ。
「…………」
ああ……ルシフィナが作った料理もあんな感じだったな。
レシピがあるのに、何故かそれと違うことをする。
エミリオール家秘伝! なんて言いながら、よく分からない草を鍋に打ち込もうとする。
最初に食べた時は、ドッキリか何かかと疑ったくらいだ。
食べたリューザス達が白目を剥いているのを見て、ルシフィナが本気と気付いて戦慄した覚えがある。
結局、あの薬はなんだったんだろうな。
聞くと料理を作ろうとするから、終ぞ聞けないままだった。
もう、聞くことはできない。
「………………」
それから、完成した料理を食べた。
エルフィとアイドラーは、自分の作ったのを食べて白目を剥いていた。
ベルディアの料理は、美味しかった。
◆
食事をした後、水浴びをして眠ることになった。
俺は眠れず、焚き火を離れて夜風に当たりにいった。
考えることがあったからだ。
エルフィ達とも、散々話し合った話題だ。
――どうやって、オルテギアを殺すか。
あのクズ野郎を、俺はどんな手を使ってでも殺す。
泣き喚くほどの苦痛を、散々刻み込んでから凄惨に殺してやる。
絶対にだ。
だが、あいつを殺すのは容易ではない。
これまでの復讐対象とは比べ物にならないほどに、オルテギアは強い。
全盛期の俺が、ルシフィナ達と協力して戦っても、倒しきれない程に。
あいつの強みはいくつもある。
まず、身体能力がずば抜けている。
機動性が高く、膂力や反射神経も高い。
肉弾戦ならば、全盛期のエルフィにやや劣るくらいだろうか。
だが、あいつは肉弾戦はほぼしない。
オルテギアは剣を使う。
あのずば抜けた身体能力から繰り出される剣技は、鬼剣に匹敵する。
あいつが本気になれば、一振りで地形を変えられるだろう。
今の俺では、心象魔術がなければ一撃で消し飛ばされる。
心象魔術を使っていても、直撃すれば即死だ。
そして、オルテギアの最も厄介な点はその防御力だ。
全身に魔力の鎧を纏っており、あいつにはまるで攻撃が通らない。
上級魔術ですら、かすり傷程度にしかならない。
攻撃を当てることがまず困難だというのに、命中しても大してダメージを与えられないのだ。
深手を負わすには、『天理剣』やエルフィの魔眼クラスの攻撃が必要。
三十年前、仲間と協力して“魔天失墜”を叩き込んだが、殺すことはできなかった。
魔族特有の生命力も厄介だ。
それに、奴は三十年前にはなかった力を持っている。
あの謎の結界と、ルシフィナから奪った『天理剣』だ。
奴に勝つには、万全の状態で、俺とエルフィの二人で戦う必要がある。
だが、二対一でも必勝ではない。
オルテギアを殺し切るには、内側から消し飛ばすくらいのことをしなくてはならない。
まず、エルフィと魔眼で魔力の鎧を破壊する。
その隙に、“魔天失墜“を撃ち込む。
その上で間合いに入り、『翡翠の太刀』を突き刺し、体内で“壊魔”を発動する。
これだけやって、ようやく致命傷を与えることができる。
だが、エルフィは、これだけやっても即死は無理かもしれないと言っていた。
致命傷を負わせても、まだ襲い掛かってくる可能性がある。
『翡翠の太刀』を失った俺は、オルテギアの攻撃に対処しきれないかもしれない。
それに、復讐をすることや、オルテギアの部下のことを考えると、ここまで上手くいくわけがない。
エルフィも全盛期の力を取り戻せていない。
オルテギアを殺せない、とは思わない。
だが、こちらが無傷で勝てるとも思えない。
エルフィやオルテギアと違い、俺はあくまで生身の人間だ。
この戦いで、もしかしたら俺は死ぬかもしれない。
だが、それでも。
それでも、俺は、あのクソ魔王を――。
「――伊織」
不意に名前を呼ばれ、我に返った。
振り返ると、エルフィが立っていた。
どうやら、まだ眠っていなかったようだ。
「随分と長い考えごとだな」
「……まあな」
「オルテギアをどう殺すかを考えていたのか?」
「ああ」
「良い策は思いついたか?」
「いいや」
俺と隣までやってきて、エルフィは小さく息を吐く。
それから、しみじみとした口調で言った。
「ここまで、あっという間だったな」
急な話題の転換に戸惑う俺を無視して、エルフィは続ける。
「伊織と出会ったから、長いようで、短かった。立ち止まる暇などない、私の人生の中でも最も慌ただしい時間だった」
「……そうか」
「何人もの敵に復讐して、ようやくここまで辿り着けた。だがまさか本当に、伊織とオルテギアを殺しにいくことになるとはな。そうなるだろう、という予感はあったが、やはり驚きだ」
「……そうかもな」
「残りは、たった一人だ。オルテギアさえ殺せば……やるべきこと、大変なことは多く残るだろうが、それでも、ようやく前に進むことができる」
「……ああ」
そう、相槌をうった時だった。
不意に、エルフィに両頬を手で挟まれた。
そのまま、エルフィの方に引き寄せられる。
「……なぁ、伊織」
「――――」
「私は……お前に、死んで欲しくないのだ」
こちらを見つめるエルフィは、酷く悲しそうな顔をしていた。
「“死神”に言われずとも、分かる。今の伊織は、すぐにも死んでしまいそうな顔をしているぞ。このままではきっと、お前は次の戦いで死んでしまう。……そんなのは、嫌だ」
「――――」
「言っていたではないか。お前は先に進むために、復讐をするのだと。ならば、復讐を終えた時に、お前が生きて立っていなければ、復讐を果たせたとは言えんだろう」
先に進む。
そうだ。
確かに俺は、そのために復讐してきた。
だけど前提をひっくり返されて、ともに歩みたいと思った人を失った。
胸に、穴が空いた気分だった。
ルシフィナの最後の姿が、どうしても忘れられない。
オルテギアを殺せるのならば、自分が死んでもいいと、そんなことすら考えていた。
「……俺は」
コツン、と。
エルフィが、額をあわせてきた。
「それに、伊織が殺されるところなど、私は見たくない。お前がいなくなったら……とんでもなく泣いて、大暴れするぞ、私は」
「……迷惑だな、それは」
「だろう? だからそうならないためにも、死ぬな。生きて、私のために料理を作ったり、髪を乾かしたり、爪を磨いたりしろ」
「わがまま言いやがって」
「ふふん。私は元魔王だからな。このくらいのわがままは、当然だ」
額をあわせたまま、エルフィが背中に手を回してきた。
「だから。二人で生きて、復讐を果たす。コレは絶対条件だ。良いな?」
「…………」
復讐を果たした後のことは、終わってから考えようと思っていた。
だから、考えないようにしていた。
けど……そうだな。
こいつが変なことをしないように、見張るのも悪くないかもしれない。
楽しそうだと、そう思った。
「……分かったよ。二人揃って、復讐を果たすのが、契約だしな」
「うむ! 暇ができたら、全国を行脚して、美味しいモノを食べて回ろう。各国を巡ってきたが、まだすべて食べきれたとは言えんからな!」
「……そうだな。それも、良いかもしれない」
そんな、他愛もない将来の話をして。
少し経ってから、エルフィが言った。
「そういえば、まだ伊織には言っていなかったな。どうして、私が魔王になって、世界を平和にしたいと考えたのかを」
確かに、聞いたことはなかったな。
「いい機会だし、私の華麗なる半生を聞かせてやろう」
「……今じゃなきゃ、駄目か?」
何となく。
不吉な予感がして、そう聞いたが。
エルフィは首を横に振った。
「オルテギアと戦う前に、伊織には知っておいて欲しいのだ」
「…………」
「実のところ、そんなに大した話ではないのだがな」
「……分かった。聞かせてくれ」
それから、エルフィは語りだした。
昔の話を。
◆
「私が選出した三名の魔族で、四天王の穴は塞いでおきました。五大魔将に関しては候補者のリストは作成済みですが、今は保留とし、戦争が終わってから再度選出するという形で進めようと思います」
魔王城の一室で、レフィーゼ・グレゴリアはオルテギア・ヴァン・ザーレフェドラと会話していた。
書類を片手に、レフィーゼは淀みなく報告を進めていく。
「報告書は確認した。お前が選んだ者ならば、問題はないだろう。三十年前と比べれば質は幾分落ちるが、仕方のないことだ。落ちた質は、私とお前で補う他ないだろう。五大魔将に関してはそれで良い。迷宮が落ちた以上、人材を遊ばせておくわけにはいかんからな」
調理された肉を頬張りながら、オルテギアも淀みなく言葉を返す。
オルテギアが腰掛けた椅子の前には、大量の料理が並んでいた。
「門の使用は可能ですが、どうされますか?」
「私が許可を出すまで、一切の使用を禁じる」
オルテギアの言葉に、レフィーゼはやや驚いた表情を浮かべた。
「何故、でしょうか。オルテギア様の魔王紋を通じて、限界近くまで門を開くための魔力は溜まっていますが」
「念のためだ」
「……承知しました」
門はこの戦争において、かなり重要な存在だ。
戦略に盛り込めば、魔王軍はかなりのアドバンテージを得ることができる。
それを封じるということは、何か理由があるということなのだろう。
それ以上、問うことなく、レフィーゼは頷いた。
「それと、戦士以外の者は全員地下に向かわせろ。万が一に備えて、アレの中に入るように指示しておけ」
「はっ」
それから二三言葉を交わし、レフィーゼは部屋を飛び出していった。
◆
それから、六日後。
北部、東部、南部の三方向から、魔王領の防衛網が突破された。
同盟軍が、海を越えて魔王領へ突入する。
レーヴァス砦を始めとする砦によって、同盟軍の動きが止まるも、それも一時。
瞬く間に砦は陥落し、同盟軍は魔王城に向かって突き進んでいく。
それを止めるべく、新しく選出された四天王が率いる軍が動き出す。
――戦争が始まった。




