第十四話 『ルシフィナ・エミリオール』
半壊した迷宮の天蓋を足場に、銀髪の魔王が俺達を見下ろす。
――魔王オルテギア。
禍々しい容貌は、三十年前に見たままだった。
「……ッ」
傷を負ったルシフィナに視線を向けたいが、オルテギアから目を離せない。
視線を外せば、殺されるからだ。
例え心象魔術を発動していたとしても、一瞬でも隙を作れば即座にこちらの首が落ちる。
「ふむ」
小さく呟いて、オルテギアが人差し指を曲げる。
直後、部屋の隅で転がっていた『天理剣』が浮遊し、オルテギアの手に収まった。
選ばれた者以外を拒む神剣は――オルテギアを拒まなかった。
「やはり、手に馴染む。ルシフィナ……この剣は、貴様のような穢らわしい存在が扱って良い剣ではない」
睨み付ける俺達を無視して、オルテギアはルシフィナに吐き捨てるようにそう言った。
金の双眸に浮かぶのは、侮蔑と嫌悪だ。
オルテギアの表情に、俺は何か違和感を覚えた。
「――――ッ」
刹那、エルフィが無言のままオルテギアへ魔眼を撃ち込んだ。
膨大な魔力が込められた灰燼爆。
オルテギアは片手で『天理剣』を振り、当然のようにそれを両断した。
「私を見ろッ!! オルテギア・ヴァン・ザーレフェルドッ!!」
双眸を紅蓮に染め上げ、激情を隠さないままに叫ぶエルフィ。
エルフィから放たれる憤怒に、しかしオルテギアは表情一つ変えない。
興味がないという表情で、オルテギアは静かに言った。
「貴様らのような、取るに足らぬ雑魚を見る必要はない」
「オルテギアぁぁ……!」
エルフィと視線を合わせることすらせず、オルテギアは『天理剣』を掲げた。
「この剣の本当の使い方を見せてやる」
刹那、『天理剣』が眩く輝いた。
ルシフィナやヒルデ・ガルダが使っていた時とは比べ物にならないほどの閃光。
「――『権能・救世創造』。この剣は、世界を塗り替える権能だ。この権能を以て、貴様らを、この世界から消してやる」
オルテギアの周囲に、魔力が渦巻く。
まるで嵐のような魔力の渦に、俺は呼吸を忘れた。
今まで見た『天理剣』の斬撃が、比較対象にすらならない。
アレを撃たせたら、駄目だ。
「オルテギアぁぁ!!」
「――ッ!!」
俺とエルフィは、同時に動いていた。
俺が心象魔術を発動し、エルフィが全力の魔眼を発動する。
鬼剣による斬撃と灰燼爆を、同時にオルテギアに放った。
「――――」
「何だと」
オルテギアに当たる直前、見えない壁に当たったかのように攻撃が潰れた。
連続して攻撃するも、その壁を越えられない。
「どうなってる!?」
「結界だ……! いつの間に、こんな芸当を!」
魔技簒奪を発動するも、見えない結界を崩すことはできなかった。
エルフィが魔腕を叩き付けるも、結界は小揺るぎもしない。
オルテギアは、俺達を警戒するでもなく、悠々と『天理剣』に魔力を集めている。
『――――ッ!!』
ベルディアが空を飛び、オルテギアの頭上からブレスを撃ち込んだ。
しかし、結界によってブレスも弾かれてしまった。
結界は、四方八方からオルテギアを守っている。
――駄目だ。
悟った。
あの結界を破るには、“魔天失墜”を使わなければならない。
だが、ここでこの技を使えば、虚空迷宮を破壊できない。
いや、そもそも。
連戦で消耗した俺達では、オルテギアに勝ち目がない――。
「おのれ、オルテギアぁぁぁッ!!」
エルフィは、攻撃の手を止めない。
だが、結界を越えられる気配はなかった。
どうする?
魔天失墜を撃つか?
駄目だ。
大森林を守れないし、正面から戦って勝てる保証がない。
では逃げるか?
それも駄目だ。
『天理剣』の一撃を躱せるほどの距離が稼げるとは思えない。
では、防御魔術を使ってオルテギアの一撃を受ける?
駄目だ、それだけはあり得ない。
俺達に、あの攻撃を防ぎ切る力はない。
考えろ。
俺達にとっての最悪は、ここで全滅すること。
ならば、今俺が取り得る手段は、もう。
大森林を見捨てて、魔天失墜を撃つことしか――――。
「――伊織さん」
背後から、声がした。
ルシフィナの声だ。
だが、振り向く余裕がない。
「伊織さんに会えて、本当に嬉しかった」
「ルシ」
その一言ですべてを悟って、振り返る。
瞬間、目の前にルシフィナの顔があった。
「――――」
柔らかい感触。
伝わってくる体温は、熱いくらいで。
思考に生まれた、一瞬の空白。
「さよならです」
ふわり、と。
俺の体が宙に浮き、遅れて迷宮の外へ投げられたことに気付いた。
視線の先で、右手を失ったルシフィナが微笑んでいるのが見えた。
「ベルディアさん! エルフィスザークさん! 早く逃げてください!」
名前を呼ばれた二人が、ルシフィナを見る。
ベルディアは即座に攻撃をやめて、落ちていく俺の方へ向かってきた。
エルフィは一瞬の逡巡の後、
「エルフィスザークさん」
「――――」
「――伊織さんを、どうかよろしくお願いします」
ルシフィナのその言葉を聞いて、人質を抱えて自ら迷宮の外へ跳んだ。
エルフィが落ちていく俺に追いついて、片腕で掴んでくる。
それを、ベルディアが背に乗せた。
「お、おい」
待てよ。
何を、してる。
「ベルディアッ!! 何やってんだッ!? 早く戻れッ!」
『――――』
ベルディアは答えない。
「……ッ。俺だけでも戻る!!」
だが、体が動かなかった。
エルフィが、腕に力を込めているからだ。
振りほどこうとするも、びくともしない。
「エルフィ……何をして」
「お前も、分かっているだろう」
「だから、何を」
「……今の私達では、オルテギアに勝てん」
「ッ」
そんなことは、分かってるんだ。
あの状況で、俺達が助かる方法は一つだけある。
だけど、それは。
「――伊織さん」
声がした。
ルシフィナが、俺を見て笑っていた。
――【誰も傷付かぬ世界で在りますように】。
俺達の体を光が覆っていく。
あらゆる苦痛から、仲間を守り抜く心象魔術。
だけど、誰も傷付かない世界に、ルシフィナの居場所はなく――。
「――愛しています」
ルシフィナのその言葉を聞いた直後、ベルディアが急下降した。
「ルシフィナぁぁぁぁ――ッ!!」
俺が伸ばした手は、届かなかった。
◆
「追い掛ける素振りも見せないんですね」
伊織達がいなくなったのを確認して、ルシフィナは視線をオルテギアへ向けた。
オルテギアは迷宮の外へ視線すら見せず、冷めきった視線をルシフィナに向けている。
その視線に、ルシフィナはどこか違和感を覚えていた。
「追う必要がない。この剣が手に入った時点で、既に私の目的は達成されている」
「伊織さん達は、相手にする価値もないと?」
「価値はある。この場で相手にする意味がないだけだ」
静かに答えながら、オルテギアは目を細める。
「自分以外を守る心象魔術か」
「はい。私がいる限り、誰も傷付けさせはしません」
「大した覚悟だ。まったくもって、くだらない」
「くだらないとしても、これが私の生き方ですから」
「……貴様のような者が、メルトの剣を使っていたなど、考えるだけで怖気が立つ」
そう言って、オルテギアは『天理剣』を握る剣に力を込めた。
ルシフィナは、それを迎え撃つために左手で魔術を発動する。
勝てないとしても、ルシフィナは膝を屈したりはしない。
最後まで戦い抜くと、自分で決めたのだから。
「――さあ。この一撃を以って、彼女への手向けとしよう」
空に向け、『天理剣』が突き上げられる。
その輝きは、ルシフィナが知る『天理剣』のモノではない。
もっと、別の何か。
「……オルテギア。いいえ、貴方は――――」
そこで、ルシフィナは思い至った。
その可能性に。
「■■ですか?」
「――――」
オルテギアが、少し驚いた風に目を開く。
やがて、悍ましい邪悪な笑みを浮かべて言った。
「――死して拝せ、不敬者」
そして、『天理剣』が振り下ろされた。
「――“愛すべき星の死に涙を”」
流星の如く、魔力が空から降り注ぐ。
天を穿ち、天を創り変えるほどの閃光。
その一撃を前に、ルシフィナは膝を屈することなく立ち向う。
「――王国騎士、ルシフィナ・エミリオール」
いつか、彼の前でした名乗りを口に。
そして――。
◆
ルシフィナ・エミリオールは、王国の端にある妖精種の村に生まれた。
かつて、その村は排他的で、妖精種以外の種族を受け入れないところだった。
だが、魔王軍の脅威が増していくにつれ、村の力では立ち行かない事態が増えてきた。
他所の種族を受け入れるべきだ。
そんな考えが広まり、やがてその村は外の人間を受け入れるようになった。
妖精種は子を授かりにくい。
人を受け入れて、子供が生まれるのに何年も掛かった。
そんな中で、最初に生まれた子供がルシフィナだった。
ルシフィナが生まれたことで、排他的だった村の空気が急速に鳴りを潜めていく。
だから、ルシフィナが物心付く頃には、村にはそれまでと違った温かい空気が根付きつつあった。
両親は優しく、村ですれ違う人達は皆声を掛けてくれる。
ルシフィナにとって、世界とは優しく温かいものだった。
喧嘩することはあっても、憎んだり、殺し合ったりなんて絶対にしない。
そんな穏やかな幸せが、ルシフィナにとってのすべてだった。
ただ、ルシフィナには少し気になることがあった。
自分の家には、『決して開けてはいけない』と言われる蔵がある。
代々、エミリオール家がこの蔵を守ってきたのだと、母に聞かされた。
代々守られているのだから、凄い宝物が入っている。
その宝物を使えば、皆もっと幸せになれるのではないか?
幼さ故の好奇心と、そんな優しさの下、ある日ルシフィナは蔵の扉をこっそりと開いた。
「これ、は……」
蔵の中にあったのは、一振りの剣だった。
紫色の大剣が、魔法陣の中央に置かれている。
大剣の神々しさに息を呑んで、ルシフィナは魔法陣の中に入った。
そして、中央に刺さっている大剣をゆっくりと手に取った。
「――――」
ルシフィナが触れた瞬間、刀身が眩く光輝いた。
光が天井にまで伸びていく。
何か、自分は不味いことをしてしまったのではないか。
そんな恐怖心に駆られ、ルシフィナはその場から逃げ出した。
きっと怒られる。
そう怯えていたルシフィナだったが、母親に一度「蔵に入らなかったか」と聞かれただけだった。
入っていないと嘘を吐くと、母親は分かったと頷いて、それっきり何も言わなかった。
――そして、村が滅んだのはその三日後だった。
ある日唐突に、村に魔物の大群が流れ込んできた。
魔王軍の四天王、“千変”が率いる軍勢が、王国に攻め入ってきたのだ。
ルシフィナの村は、その通り道にあった。
家から出て、外で遊んでいたルシフィナは見た。
「さぁさ、皆さん!! ジャンジャンバリバリ、皆殺しにして良いッスよー!!」
魔物と魔族に、オレンジ髪の女が指示を出しているのを。
多くの魔物達が、吠え狂いながら村人を食い殺していく。
オレンジ髪の女は、村に興味がないのかすぐに外へ出ていってしまった。
ただ、ルシフィナは覚えている。
オレンジ髪の女が、去り際に言ったのだ。
「しっかし、妙ッスよねえ。こんな王国に侵入しやすい道を、今まで魔王軍の誰も知らなかったなんて。――ワタシも知らなかったとなると、後で調査が必要かな」
それで、ルシフィナは気付いてしまった。
魔王軍がここに攻め込んできたのは、自分が原因だと。
母は言っていた。
この村にはメルト様が作った結界が張ってあって、悪い者には見つからないようになっている。
だから、この村は安全だと。
「私の……せいだ」
自分があの剣に触ってから、悪い人達に村が見つかってしまったんだ。
後悔した時には、遅かった。
炎が村のあちこちで上がっている。
あちこちから、叫び声が聞こえた。
村の人達は魔術を使って、大勢の魔物を倒した。
だが、中には村の誰も知らないような強い魔物がいて、次第に殺されていく。
命からがらルシフィナが家に戻ると、険しい顔をした父と母がいた。
ルシフィナを見て、「良かった」と安堵の涙を流す。
それから、家に結界を張って、決して家を出ないようにと言い残し、二人は出ていった。
村を守るために、戦いに言ったのだ。
ルシフィナは、怖くて震えていることしかできなかった。
それから、三十分後。
両親が家に帰ってきた。
死んだ状態で龍種にくわえられて。
「ぁ……ぁぁ、ぁあああッ!!」
そこからの記憶は、あまりない。
覚えているのは、必死にその場から逃げたこと。
吸い寄せられるように蔵に行って、紫色の大剣を握ったこと。
そして触れた瞬間に、この剣の名前と、使い方を理解したこと。
――『天理剣・メルトシュトロム』。
聖光神メルトが自らの権能で創り出した剣。
メルトが持つ『世界を創り変える』という権能の力を増幅するために創られた。
あまりに強大な力を持つため、『エミリオール家』はメルトにこの剣を隠すように託されていたのだ。
「それを……全部、私が台無しにしたんですね」
魔物達が、蔵の扉を破って中に入ってくる。
「それでも……貴方達が、憎い……」
村人を殺した、魔王軍が憎い。
ルシフィナは憎悪のまま、『天理剣』を振り下ろした。
そして気付けば、魔物はいなくなっていた。
その後、ルシフィナは駆け付けた王国騎士に保護された。
そして、ルシフィナのみ扱える『天理剣』の強さを理解した王国によって、騎士団に入るようスカウトされた。
――穏やかで、温かくて、優しい人達が暮らす村だった。
ルシフィナは、それを壊した。
優しくて物知りだった母も、村の人達に慕われていた父も、自分のせいで死んだ。
皆の幸せを、その手で引き裂いたのだ。
私は魔王軍を憎んで、復讐のために殺してしまった。
村の人達ならば、もっと別の解決方法があったかもしれない。
皆の可能性を、自分が摘んでしまった。
だから。
皆の分まで、私は私のできることをしなければならない。
私が不幸にした人々の何千倍も多くの人を、幸せにしなくてはならない。
「――分かりました。私を騎士団に入れてください」
そんな自罰的な思いから、ルシフィナは王国騎士団に入った。
しかし、戦場に出て気づいた。
誰かを幸せにするためには、同じだけ誰かを不幸にしなくてはならない。
王国の人達の幸せを守るために、魔族の人達を殺さなくてはならないということに。
――多くの人が苦しむのを見た。
負傷した魔族が、命乞いをしてくる。
家族がいるんだ、見逃してくれ、と。
見逃すと、涙を流して感謝して、去っていく。
その背を、他の騎士が攻撃して殺した。
間違っている、と思った。
敵も味方も皆が泣いて、苦しんで。
こんな戦い、間違っている。
魔族だって、家族がいるんだ。
魔族だって、感情があるんだ。
それは、人間も、亜人も、皆同じのはずだ。
苦しんで死んだ家族の姿を思い出す。
「魔族は容赦せずに殺せ!!」
だが、上官はそう指示を出した。
同僚達も、迷うことなく魔族を殺していく。
そうする他に王国を救う手立てがないのだから。
「私は……誰にも、傷付いて欲しくない」
その時、だろうか。
いつか、誰も傷付かない世界ができたらいいな、と思うようになったのは。
誰にも、賛同はしてもらえなかったけれど。
◆
ある日のことだった。
国王や大臣など、王国の重鎮が一斉にお告げを受けたと騒いだ。
その内容は、『異界から救世の勇者を召喚せよ』というものだった。
お告げの通りに、王国は勇者の召喚の準備を始めた。
途中、魔族が王城に忍び込んで召喚陣を破壊しようとしたが、気付いたルシフィナがそれを止めた。
そんな出来事があってから、数日後。
ついに、勇者が召喚された。
名をアマツというらしかった。
これで、世界が平和になるのだろうか。
少しばかりの期待を抱き、ルシフィナはアマツに挨拶をしに行った。
そこで、期待は打ち砕かれ、そしてそんな期待を抱いた自分を恥じることになる。
「元の世界に、返してくれよ……」
何てことをしてしまったんだろうと思った。
アマツは、ただの少年だったのだ。
勇者だからといって、他所の世界の人間を巻き込んでしまった。
後悔しかなかった。
外の世界の人間に、何て過酷な運命を押し付けようとしたのだろうと、召喚を止めなかった自分を悔いた。
どうにかして、元の世界に返してあげたいと思った。
なのに。
「……お、俺は、魔王軍とか、世界を救うとか、そういうのは分からないけど」
「――――」
「今は……アンタを助けるために、戦うよ」
少年は、ルシフィナを助けるために、戦ってくれた。
魔王軍と戦う恐怖に、血を流し、涙を流し、それでも戦ってくれた。
怯えていた少年の顔は、戦場を経る度に変わっていった。
強くて、だけど優しくて、彼の顔を見ると、自然と心が落ち着いた。
だから、だろうか。
ある日、ルシフィナは少年に夢を語った。
この世界から戦争をなくして、誰も傷付かない世界にしたいと。
「俺も、思ってたんだ。皆が笑える世界になったら良いなって」
少年は、そう言って笑ってくれた。
彼は優しい。
自分に合わせて、そう言ってくれた部分もあっただろう。
それでも、嬉しかった。
この時だったかもしれない。
少年を、好きになったのは。
◆
それから、本当に色々なことがあった。
悲しいことも、辛いことも、苦しいことも、たくさんあった。
それでも、ルシフィナはあの時間を幸せだったと断言できる。
「大丈夫だ、ルシフィナ。俺がいる」
不安を押し殺している時、彼はいつも声をかけてくれた。
「ルシフィナが心象魔術を使わなくて良いように、俺が防御魔術を使えるようになるよ」
身を案じて、新しい魔術で守ってくれた。
「……ルシフィナさん。お願いします、料理は俺に任せて休んでいてください」
頑なに料理をさせてくれなくて、拗ねたこともあった。
「良かったらさ。俺がルシフィナの髪、乾かしても良いか?」
戦いで腕が使えなくなった時、伊織が代わりに乾かしてくれた。
優しく乾かして、髪を梳いてくれる彼の手が好きだった。
腕が使えるようになってからも、色々と理由を付けて髪を乾かして貰ったのを覚えている。
――不器用で、鈍感で、でも、必死に戦ってくれる彼のことが好きだった。
ヒルデ・ガルダに乗っ取られてからは、すべてが闇に覆われてしまった。
伊織を手に掛け、リューザスを嘲笑い、魔王軍として人々を殺す。
そんな日々に、何度も心が砕けそうになった。
――最期まで戦うと、彼には言ったけれど。
立ち上がれたのは、伊織がいたからだ。
温かくて、不器用で、とびっきり優しくて。
そんな彼が生きていてくれたから、ヒルデ・ガルダに打ち勝つことができた。
――戦うことが、争うことが、怖くてたまりませんでした。
それでも、戦い続けることができたのは。
やっぱり、彼がいてくれたからで。
彼と一緒なら、どんな戦場も怖くなかった。
ずっと、彼が支えてくれたから。
――だから、今だって全然怖くないんですよ。
◆
けど、少しだけ心残りなことがあるんです。
エルフィスザークさんのことを、伊織さんはこう言いました。
世界で一番信頼してる奴、って。
きっと彼女が、伊織さんをここまで支えてきたんだと思います。
少しだけ、それが羨ましくて。
それから、最後の言葉に一言付け足しておけば良かったって、思いました。
それだけが、少しだけ心残りです。
ねえ、伊織さん。
――世界で一番、貴方のことを愛しています。
◆
――凄まじい閃光が、世界を呑み込んだ。
轟音とともに、落下する迷宮が光の中へと呑み込まれていく。
下へ降りていく伊織達の元にもその余波が押し寄せるが、彼らを包む心象がそれを遮断した。
天を創造するほどの光を受けても、ルシフィナ・エミリオールの心象魔術は揺らぎもしなかった。
「――――」
光が収まった時、空に浮かんでいた虚空迷宮は跡形もなく消滅していた。
衝撃の余波で大森林を覆う結界にヒビが入ったが、被害と呼べる被害はそれだけ。
迷宮の落下による大森林の危機は、オルテギアの一撃で去ったのだ。
ベルディアが、大森林から少し離れた平地に着陸する。
それと時を同じくして、彼らの体を覆っていたルシフィナの心象魔術が解けるように消滅していった。
「ルシフィナ」
心象魔術の消滅に、伊織が呆然と術者の名前を口にする。
ベルディアとエルフィスザークは、そんな伊織に掛ける言葉を持たず、沈痛な面持ちを浮かべていた。
だが、そんな静寂は頭上に現れた一人の存在に掻き消された。
「『天理剣』の一撃を完全に防ぎ切るとは、よほどの執念だったらしいな」
伊織達を見下ろすようにして、オルテギアが空中に浮遊していた。
上を見上げ、三人は絶句した。
ルシフィナが『天理剣』の刀身に胴を貫かれ、ブラブラと揺れていたからだ。
「ルシ、フィナ……」
揺れる度、地上に向かってポタポタと血が落ちてくる。
ルシフィナは身動ぎすらせず、あらぬ方を向いていた。
「物欲しそうな顔だな、勇者。分けてやっても良いぞ」
ブン、とオルテギアが『天理剣』を振った。
伊織の足元に、ドチャッと音を立てて何かが落ちてくる。
それは、ルシフィナの首だった。
「……あ」
長く綺麗だった金髪が、血と泥で赤黒く汚れてしまっている。
首の断面から血が零れて、地面を赤く染めていた。
呆けたような声を零して、伊織はルシフィナの首に手を伸ばす。
その腕が、ルシフィナに触れる直前だった。
ルシフィナの首が、果実のように弾け飛んだ。
髪が、血が、雨のように落ちてくる。
「 」
直後、オルテギアは剣に突き刺していたルシフィナの胴体を宙に放り投げた。
そして、先ほどと同じように破裂させる。
雨のように、ルシフィナだったものが降り注いだ。
「ルシフィナ――ヒルデ・ガルダは良いコマだった。私の手の上で、随分と働いてくれた。だが、もう用済みだ。この私が目覚めた時点で、必要のない存在となった」
黙り込んだ伊織を見下ろしながら、オルテギアは淡々と言葉を紡ぐ。
「必要がなければ、穢らわしいハーフエルフの皮など、視界に入れるだけで気分を害する」
吐き捨てるようにそう言って、オルテギアは伊織に問う。
「さて、最弱の勇者。三十年前、裏切られてどんな気分だった。あの愚かな魔術師の憎悪は心地よかったか? 特別扱いに気を良くして貴様を裏切った鬼族の嫉妬はどうだった? 乗っ取られて気ままに踊る女騎士の戯言は?」
「――――」
「私の筋書き通りに踊るのは、どんな気分だった?」
「――――」
口を開かない伊織に鼻を鳴らし、オルテギアはエルフィスザークを指差す。
「三十年前、私はそこな道化の相手をしたばかりで、消耗していてな。如何に最弱な勇者と言えど、正面から相手にするのは危険だった。だからこそ、ヒルデ・ガルダを使って、内で潰し合うように仕向けたのだ」
「――――」
黙ったままの伊織に、オルテギアはわざとらしく手を打った。
そしてそのまま、この場の誰も知らなかった事実を、あっさりと口にする。
「ああ、貴様は知らないんだったか。貴様が召喚されたのは、私が原因だと」
「――――……なに?」
「疑問には思わなかったのか? 何故、自分が召喚されたのか。自分以外に、勇者足りうる者はいなかったのか、と」
当然、あった。
何故、自分が勇者として選ばれたのか。
その理由を考えたことは、幾度とあった。
「召喚陣は『勇者の証』を扱える者を召喚する。すなわち、世界を救う素質を持ったものをな。『勇者の証』とは、昔メルトが作った魔術の一部だ。彼女の基準で世界を救える者を選別し、その者に神の力を分け与える力を持っている」
召喚陣も『勇者の証』も、メルトが作ったモノだとは伊織も知っていた。
だが、オルテギアが語る情報は初耳だ。
「故に、召喚されるのは、お前ではなくても良かった。引き篭もりの青年でも、嫌われ者の剣士でも、世界を救う素質を持っていればそれで良いのだから。では、何故貴様が召喚されたのだと思う?」
「…………」
「簡単な話だ。私が召喚陣に細工をし、召喚する者に条件を付けたから、貴様が喚ばれたのだ」
金色の双眸を笑みの形に歪め、オルテギアはその条件を告げる。
「私が付け足した条件はこうだ。――呼び出すのは、『勇者の証』を扱える者の中で最も弱い者に限る」
「――――」
「そうしてやってきたのが貴様だ、天月伊織」
オルテギアの告げた事実に、伊織は何も言わなかった。
ただ呆然と、オルテギアを見上げているだけだ。
「分かるか。貴様は確かにメルトに選ばれた存在だ。だが、その中でも貴様は最弱なのだ」
「――――」
「最弱の勇者よ。そのお陰で、随分楽に貴様を潰すことができたぞ」
甚振るように、オルテギアは言葉を重ねていく。
しかし、伊織は何も言わない。
ただ、虚ろな目でオルテギアを見ている。
「……三十年で、安い男に成り下がったな。オルテギア」
喋らない伊織に代わり、口を開いたのはエルフィスザークだった。
「貴様は、そのような無駄口を叩く男ではないと思っていた」
「ふん」
オルテギアは一瞬、不快そうに顔を歪めるが、すぐに笑みを浮かべた。
それは、嘲笑だ。
「エルフィスザーク。そういえば、貴様を潰すのは、それ以上に楽だったな」
「……何だと?」
「グレイシア・レーヴァテインを殺した感想はどうだ?」
「――――」
「部下の手綱も握れず、仲間を皆殺しにされ、自分も封印される。歴代の魔王の中で、これほどまでに滑稽で、無様な負け方をした者は貴様以外にはいないだろうな」
痛烈な侮蔑の言葉に、エルフィスザークは怒りのあまり言葉を失った。
歯を食い縛り、溢れ出る憤怒を口にしようとした時だ。
「――【英雄再現】」
エルフィスザークの隣から、膨大な量の魔力が吹き出した。
「……最弱だろうが何だろうが、知ったことかよ」
「ほう?」
「死ね、オルテギア」
心象魔術を使った状態で、伊織はオルテギアへ手を向ける。
掌の中央に、漆黒の魔力の渦が構成されていった。
「悪いが、貴様ら雑魚に用はない。私にはまだやらねばならぬことが多い。早々に魔王城に戻らねばならんのだ。近々、人間と亜人を一掃する。当然、貴様らもな」
「――“魔天失墜”」
伊織が、持ちうる最大の魔術を放つ。
漆黒の魔力の奔流が、オルテギアを呑み込む直前。
「――せいぜい、怯えて待っていろ。敗北者ども」
そんな言葉を残して、オルテギアが忽然と姿を消した。
魔天失墜はオルテギアを捉えることなく、彼方へ消えていく。
エルフィスザークが魔眼で周囲を探るが、既にオルテギアの気配は消えていた。
「ち、くしょう」
鮮血で全身を赤く濡らしながら、伊織が膝を付く。
血の涙を流して、ガリガリと頭を掻きむしる。
これから、だった。
ルシフィナの人生は、これからやり直せるはずだった。
地獄のような三十年を耐え抜いて、ようやく前に進むはずだったのだ。
「オル、テギア」
だが、その道は途絶えた。
ルシフィナは、死んでしまったのだから。
オルテギアによって、殺されてしまったのだから。
「オルテギアアアアアアアァァァァァァァ――――ッ!!」
血を吐くような絶叫が木霊する。
――遠く、遠く、虚空の彼方まで。
後二話で8章終了です




