第十二話 『ヒルデ・ガルダ』
――この世で最も大切なものは、娯楽だ。
“聖光神”メルト、“堕光神”ハーディア。
かつてレイテシアには、二柱の神がいた。
二柱の神は協力し、人と亜人、魔族と魔物を生み出した。
ハーディアは魔族達を統率するために、まず一人の強大な魔族を生み出した。
それが初代魔王だ。
そして、初代魔王を補佐するために、さらに四人の魔族が生み出された。
――それが、ワタシ達“死天”だ。
ヒルデ・ガルダという名は、初代魔王によって与えられた。
初代魔王は魔族の繁栄のためにその身を捧げ、ワタシ達はそれに協力した。
魔族の繁栄――それが初代魔王の願いで、そしてワタシの願いでもあった。
だが、そんな願いを踏み躙るように戦争が起こった。
メルトとハーディアの戦いだ。
切っ掛けが何だったのかは分からない。
ただ、説得しようとするメルトに向かって、何かに取り憑かれたようにハーディアが襲い掛かっていたのを覚えている。
神と神の争いは、やがてワタシ達にも飛び火してきた。
ハーディアは言った。
すべての人間、亜人を殺し尽くせと。
そのためならば、お前達がいくら死のうとも構わない。
その言葉通り、ハーディアは魔族を使い捨ての道具のように扱った。
多くの者が死んだ。
初代魔王が彼らの死に涙を流していたのを覚えている。
それから数年後、初代魔王が動いた。
魔族を守るために、秘密裏にメルトと交渉したのだ。
メルトの味方に付く代わりに、魔族を助けて欲しいと。
メルトはそれを受け入れ、魔族を庇護してくれた。
それが切っ掛けとなり、形成は大きく逆転した。
ハーディアは次第に追い詰められていった。
自分が有利になったというのに、メルトはハーディアに呼びかけ続けた。
こんな争いはやめよう、何か勘違いしている、と。
だが、ハーディアは止まらなかった。
事件が起きたのは、すぐだった。
メルトの腹心だった人間の戦士が、メルトを裏切った。
傷を負ったメルトの隙を突き、ハーディアは軍勢を率いて襲い掛かってきた。
そこから先のことを、ワタシは知らない。
戦いが始まってすぐに、ハーディアの攻撃を受けて谷の底へ落下したからだ。
致命傷だった。
魂が欠損し、治癒魔術を使っても回復し切れない。
『……死にたく、ない』
ワタシを襲う、死の恐怖。
地を這い、ワタシは谷の出口を探した。
その最中に、狩りをしていた人狼種に出会えたのは、本当に幸運だった。
理論だけは存在していた憑依魔術。
死の間際に、ワタシはそれを使用した。
成功率の極めて低い出来損ないの魔術――だが、ワタシは奇跡的に成功させることができた。
人狼種の体に憑依し、傷付いた魂を外界から守る。
そうすることで、ワタシは生き長らえた。
(返して……体を返して)
繰り返し聞こえる悲痛な声に、胸に妙な感情が湧き上がる。
ワタシはそれを罪悪感だと思った。
だが妙なことに――近くを流れる水に映ったワタシは、裂けるような笑みを浮かべていた。
◆
それからワタシはこの顛末を知った。
メルトは死に、ハーディアは冥府へ封印された。
封印されたハーディアはともかく、神の体を持つメルトはいずれ蘇るだろう。
初代魔王と、“雨”を除くすべての四天は死んでいるようだった。
今は、二代目の魔王が魔族を統治しているらしい。
協力し合った人間と協力し、平和に暮らしているようだ。
人狼種の体で、ワタシは生きる意味を考えた。
初代魔王は言っていた。
魔族が穏やかに暮らせる世界を作りたいと。
ならば、ワタシもその理想に協力するべきだと思った。
表立っては、生き延びた“雨”が支えている。
だからワタシは、名前の通りに陰から魔王軍を支えることにした。
この平和が、長く続くことを祈って。
しかし、平和は続かなかった。
何が原因だったのかは、分からない。
だが、再び戦争は起こった。
人、亜人、魔族、入り乱れての戦争だった。
ワタシは必死に戦争を止めようとした。
何度も、休戦協定を結ばせた。
だが、駄目だった。
いつも、あと一歩のところで躓く。
いつも、何かに邪魔された。
それは、自分達が一番であるという人間の驕りだった。
それは、復讐に囚われた亜人の放った一本の矢だった。
それは、闘争を求めて暴走した魔族の狂気だった。
それは、それは、それは、それは、それは――――。
何度試しても、何度助けても、何度挑んでも、何度足掻いても。
無意味だった。
戦争をなくすことはできなかった。
そしてある日、ワタシは戦争に巻き込まれて命を落としかけた。
一命は取り留めたが、憑依していた肉体は死んでしまった。
その時に、ワタシは再び思った。
死にたくない、と。
また、こうも思った。
『こんな愚かな者達のために、ワタシが苦しむ必要があるのか?』と。
自分がやってきたことが無駄だと知って、ワタシは無気力になった。
何をする気も起きなかった。
生きる意味がなかった。
だが、死ぬのは怖かった。
退屈という渇きに侵されながら、死んだように生き続けた。
死にたくない。
だから、ワタシは生きる意味を見つけるために彷徨った。
その頃からだった。
他人の体を乗っ取る罪悪感がなくなったのは。
憑依した相手の、悲痛な叫びに喜びを感じるようになっていったのは。
いや、違う。
ワタシは最初から、誰かの不幸に喜びを感じていた。
ただ、この感情に名前を付けられなかっただけだ。
ある日、気まぐれに憑依した体で人を殺した。
それは、憑依した者の家族だった。
絶叫し、発狂し、泣き叫ぶ体の持ち主に、絶頂にも似た快楽を感じた。
それからだ。
他人を踏み躙って、絶望させることに喜びを覚えるようになったのは。
人間を殺した。
亜人を殺した。
魔族を殺した。
――愉しかった。
苦痛に喘ぐ声が、家族の死への慟哭が、醜く顔を歪めて逃げ惑う者達の悲鳴が、震えた声で発せられる命乞いが、卑怯だと罵倒する負け犬の遠吠えが、期待を打ち砕かれて崩れ落ちた者の嗚咽が。
負の感情を浮かべる者達の、何と滑稽で無様なことか。
醜い末路を晒す連中を見て、天にも昇る快感と、死を逃れ生き続けられる優越感を覚えた。
誰も彼も、愚昧で愚鈍で愚劣。
全員、ワタシが愉しむための玩具に過ぎない。
退屈は人を殺す。
――故に、この世で最も大切なものは、娯楽だ。
渇きを潤す、唯一の手段は娯楽。
人の不幸を見ることこそが、最高の娯楽なのだ。
だが、ただ殺すだけは飽きが来る。
乗っ取るだけでは、つまらない。
いつからか、ワタシは乗っ取った相手の性格を模倣するようになった。
そして、その上でその者が大切にしていた人、物、信条を踏み躙ることにした。
これは、想像していたよりも遥かに愉しかった。
その者が数十年という月日をかけて積み上げてきたすべてを、たった数日で踏み躙る。
こんなに楽しいことはない。
『ヒルダ』という、ワタシに似た名前の魔族は、演じていて楽しかった。
彼女は戦争で暗くなっている仲間を、励ましたいと考えていた。
明るく、道化ぶった喋り方をして、周囲を励ましていたのだ。
だからワタシは、『明るく楽しく、他人を不愉快にした』。
そんな風に過ごしている内に、オルテギアが現れた。
前の魔王を下して成り上がった魔族。
そいつに興味を持ち、ワタシは魔王軍の四天王になった。
近くでオルテギアが何をするのか見たかったからだ。
そしてすぐに、忌々しいあの男が現れた。
英雄アマツ。
正義感を振りかざし、ワタシが用意していた娯楽をいくつも潰した男。
皆が手を取り合える世界を作りたい?
無理に決っている。
ワタシがあれだけ身を粉にしたのに、不可能だったのだ。
他所の世界からやってきた奴が、できるわけがない。
気に食わない、気に喰わない、きにくわない。
だから、ワタシはアマツを徹底的に踏みにじることにした。
ルシフィナの体を乗っ取って、裏切ってやったのだ。
死の間際のアマツの顔を見て、意識が飛びそうになるほど気持ち良かった。
嘘だ、と否定したい感情。
大切な人に裏切られたという絶望。
目に涙を浮かべ、今にも崩れ落ちてしまいそうなあの表情。
極上の娯楽だった。
どれだけ追い詰めても、諦めずに食い下がってきたあの男が!
仲間に裏切られて、心がへし折れている!
ざまぁみろ。
そう叫びたい気持ちで、ワタシはいっぱいだった。
まあ、リューザスやディオニスの手前、それは控えたが。
アマツを殺した後は、ルシフィナを使って遊んだ。
この女も、アマツに劣らず正義感が強い。
こういう女こそ、踏み躙った時の快感は大きい。
『ルシフィナ』は、『世界の皆を幸せにしたい』『自分の身を粉にしてでも、他人のために働きたい』という想いを持っていた。
だからワタシは『率先して、他人を踏みにじり、世界の皆を不幸せにした』。
ディオニスと一緒に、過去に行ったことのある村を滅ぼしたりもした。
その度に心の中で涙を流すルシフィナの声は、甘露だった。
気丈なルシフィナの心が欠けていくのを感じるのは、得難い快感だった。
『どうして、こんなことをするんですか……?』
尋ねてくるルシフィナの声に、ワタシは答える。
『――愉しいから。君が泣き叫ぶのを感じるのが愉しいんだ。君に殺されて苦しむ人を見るのが愉快なんだよ。他人の不幸ほど、甘いものは存在しない。その甘いものを、ワタシは舐めているだけさ。だからもっと苦しんでくれるかい? 君が不幸になれば不幸になるほど、ワタシは甘い蜜を舐めとることができるからさ』
押し殺したルシフィナの泣き声が、ワタシの内面で響く。
啜り泣くルシフィナが、時折『伊織さん、伊織さん』とあの男の名前を呼ぶ。
『ふ、ふふ。君達は皆同じだな。どうしようもなくなった時には死人にも縋る。あの男はもう死んでるんだ。君が殺したんだよ? なのにあの男に縋るなんて、滑稽極まる。まったくもって無様だね』
拠り所を踏み躙るように言ってやる。
あの気丈なルシフィナの心が崩れていくのは快感だった。
この世はワタシの玩具箱。
ワタシは永遠に、この世界で遊び、生き続ける。
だから――――。
◆
「起きろ」
準備を終えた俺は、意識を失ったヒルデ・ガルダの足を踏み砕いた。
小さな呻きとともに、ヒルデ・ガルダが意識を取り戻す。
「――ッ」
状況を把握したのか、ヒルデ・ガルダは即座に逃走を図った。
無駄だ。
自らを縛る鎖に引っ張られ、ヒルデ・ガルダは地面に倒れ込んだ。
その拍子に、パキパキと音を立ててヒルデ・ガルダの白い肌にヒビが入る。
「う……ぁ。早く……次の体を……」
「その機会が巡ってくると思うのか?」
逃げ出せないように、鎖で縛ってある。
眠っている間に、体内の魔力は奪った。
体に隠し持っていた魔力付与品も回収した。
そして、ヒルデ・ガルダのすぐ目の前には、俺とエルフィが立っている。
「こ、んな……。ワタシは……こんなところで」
白い肌を青褪めさせ、怯えを瞳に映すヒルデ・ガルダ。
だが、それは一瞬だった。
バッと手を翳し、自分に向かって何かを発動しようとする。
だが、何も起きない。
魔術は使えないようにしてある。
「……ふむ。これで自殺できたら、楽だったんだが。流石に無理のようだね」
冷静さを取り戻した声音で、ヒルデ・ガルダはそう言った。
何だ、自殺しようとしたのか。
「人質、逃走、その挙句に自死を選ぼうとするとはな。見下げ果てたぞ」
「はっ、勝手に見下げ果てていると良いさ、元魔王」
吐き捨てるようにそう言うと、ヒルデ・ガルダは黒瞳を俺に向ける。
その双眸に怯えはなく、諦観が浮かんでいた。
「さて、天月伊織。ワタシを殺すのなら早くすると良い。君のことだ。下の亜人達も助けようとするんだろう? もたもたしていると、虚空迷宮が大森林を押し潰してしまうよ」
「……死にたくないと言っていた割には冷静だな」
「この状況からは、どうあっても助からないからね。無駄に足掻くのはやめたんだ」
悟ったような笑みを浮かべ、ヒルデ・ガルダは早口に言葉を続ける。
「さあ、どんな復讐を見せてくれるのかな? 君の口ぶりからすると、裏切った者達には制裁を加えてきたんだろう? 実のところ、彼らがどんな死に方をしてきたのかに興味があってね。ディオニスはどうやって殺したんだい? 彼のことだ、無様に喚き散らしていたんだろう?」
無言のまま、無事な方の足を踏み砕いてやる。
小さく呻き、脂汗を浮かべながらも、ヒルデ・ガルダは笑みを崩さなかった。
「……こうやって相手を痛め付けて、裏切られた溜飲を下げてきたのかな。だとしたら……申し訳ないが、君の期待には応えられないな」
この世の悪意を煮詰めたかのような黒瞳を見開き、裂けるような醜悪な笑みを浮かべながら、ヒルデ・ガルダは言う。
「ワタシはこれまで多くの者を踏み躙って愉しんできた。だから『こうされたら愉しめない』というツボは押さえているつもりだよ」
「…………」
「さあ、好きなようにワタシを痛め付けて殺すと良い。だが君達の期待には応えない。これまで君達が殺してきた者達のような、無様な死に様は晒してやらない。――最期の瞬間まで、君達を存分に嘲笑ってやろうじゃないか!!」
勝ち誇るヒルデ・ガルダを見て、思った。
ああ。この復讐方法を選んで、心底良かったと。
手に入れた迷宮核を速攻で吸収し、力を取り戻したのは正解だった。
「ああ。お望み通り、復讐を始めようか。そろそろ、お前に使った洗脳魔術の効果が出てくる頃だからな」
「何を……」
ヒルデ・ガルダが、ハッとした表情を浮かべる。
鎖に繋がれた腕を頭に伸ばそうとして、ジャラリと音を立てた。
自分の頭の中に魔術の痕跡を感じ取ったんだろうな。
「ワタシに、何を……」
「お前は他人を弄びながら、生き続けたいと言っていたな」
「何をしたと聞いているんだ!」
「だから、お前をしばらくの間、生かしてやろうと思っている」
そう言いながら、俺はヒルデ・ガルダの太ももに刃を突き刺した。
刃を奥へ押し込み、グリグリと動かして中の肉を抉る。
「…………。……あ、くっ」
妙な間を開けた後、ヒルデ・ガルダが遅れてうめき声を上げる。
それを見て、成功を確信した。
「それ……は……ワタシを……拷問し続ける……って……ことかい?」
呂律の回らない声で、ヒルデ・ガルダが尋ねてくる。
まあ、間違ってはいないな。
「お前の頭には、ある魔術を使った。洗脳魔術の応用だ」
ルシフィナを目覚めさせるために、俺は脳に魔力を流した。
ああいった風に、洗脳魔術は応用が効く。
応用して創り出したのが、今回の魔術だ。
「お前の脳には、徐々に徐々に時間の感覚が遅くなっていく魔術を使った」
「………………は?」
「要するに、お前はこれから何十年、何百年も俺の復讐を受けるってことだよ」
「………え、え」
俺の言葉を理解して、ヒルデ・ガルダが目を開く。
顔を蒼白にし、汗で額を濡らし、唇をワナワナと震わせる。
「……嘘だ……そんなこと……できる、はずが」
「信じなくても良い。すぐに分かる」
剣を使って、ヒルデ・ガルダの体を軽く刺していく。
致命傷にならないように気を付けて、しかし存分に苦痛を味わえるように配慮して。
「あ……ぎッ」
刺してから数秒の間を開けて、ヒルデ・ガルダは痛みに顔を歪めた。
そして、それで気付いたのだろう。
俺が言った言葉が、正しいことに。
「馬鹿な……それじゃあ、本当に……」
そう口にするヒルデ・ガルダの顔からは、先ほどまでの余裕は消えていた。
「そろそろだな。あと一分程度で、まともに会話できない程度に体感時間が遅くなる」
「………………待ってくれ……!」
「最期の瞬間まで、俺達を嘲笑ってくれるんじゃなかったのか?」
ブンブンと首を振り、唾を飛ばしながらヒルデ・ガルダが叫ぶ。
「頼む……! 殺してくれ!」
「遠慮するなよ」
「こんなの嫌だ! ど、どうか……どうか一思いに殺してくれ!」
「お前、言ってただろ? 死にたくないって」
涙を浮かべ、過呼吸のように荒い息を繰り返して懇願するヒルデ・ガルダに俺は言う。
「だから、さ」
「――――」
「――生かしてやるよ、存分に」
その時の俺はきっと、裂けるような笑みを浮かべているだろうと、思った。
◆
(嫌だ)
視界から変化がなくなっていく。
時間が遅くなっていくのが分かった。
体が思うように動かない。
(ワタシはこの世界で愉しみ続けるんだ。こんな終わり方は嫌だ!)
抉られた傷がジクジクと強い痛みを発している。
痛くてたまらないのに、治癒魔術を使うことすらままならない。
痛いのが、ずっと続いている。
(やめろ! あぁ、痛い、痛い!)
伊織は、ゆっくりとゆっくりと、緩やかに動いている。
何時間も掛けて、伊織は邪悪な笑みを浮かべながら、ワタシの爪を剥がしていく。
メリメリと爪が肉から剥がされていく苦痛。
それが何時間にも引き伸ばされて、ワタシを襲う。
(やめろ……あぐッ、やめてくれ……!)
緩やかに、伊織は爪を一枚ずつ剥がしていく。
両手の爪を剥がし終えるのに、三日近くかかった。
その間、体中の傷は痛み続け、そこに爪が剥がされていく感覚が加わっていく。
(ふざけるな! あああッ!! ワタシは“陰”だぞ!! お前なんかに、こんな……こんな馬鹿なことがあるわけがない!!)
それだけでは終わらない。
骨を折られる。
肉を割かれる。
ゆっくりと、伊織はワタシの体を甚振っていく。
(ひぁ、いっ、ぎ)
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!
吐きそうなほどな激痛に、胃の動きが追いつかない。
(あああああ! 声が出ない! 喋れない!! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!)
同時に、感覚がさらに伸ばされていくのが分かった。
体感時間が、減速し続けている。
(あんまりだ。どうしてワタシがこんな目に合わないといけないんだ!)
(クソ、クソ、クソッ! どうにかして、この状況から抜け出せないのか?)
(……駄目だ、魔術が使えない。体も動かせない!)
(こんな……ワタシが、こんな無様を晒すなんてッ。天月伊織、エルフィスザーク、ルシフィナァ! 許さない、殺してやる。散々甚振ってから、ワタシと同じ目に合わせてやる!)
心の中で、痛みを紛らわすために憎悪を燃やす。
あの連中をどう殺してやろうかを想像して、長い時間に耐える。
そうしている内に、伊織がゆっくりと動き、刃の切っ先をこちらに向けた。
その鋒が、右目に向けられていると気付いたのは、それから数日後のことだった。
(うそ)
ゆっくりとゆっくりと、刃が近付いてくる。
すぐにはこない。
引き伸ばされた時間の中で、目に近付いてくる刃を見つめることしかできない。
(嘘だ、嫌だ。やめろ。来るな!)
何もできない。
ゆっくりと、ゆっくりと。
刃の鋒が、目の中に入ってくる。
(あ……あぁぁ……)
やがて、刃が眼球に刺さった。
ギチュッとした感覚。
(――――――!!)
激痛に意識が飛びかけるが、気を失うこともできない。
目の中に異物が入り込む激痛。
刃は全然進まなくて、痛いのだけが続いている。
右目が完全に失明したのは、体感時間にして数ヶ月後のことだった。
(ひ、ぁあああ。目が、ぁぁああ!)
視界が半分になる。
狂いそうになるほどの激痛。
気絶もできなくて、眠ることもできなくて、ワタシは痛みを紛らわせるために何かを考えるしかなかった。
そして、気付いた。
もし、左目も潰されたらどうなる?
(なにも、みえなくなる……?)
暗闇。
痛みだけが続いて、いつ死ぬことができるかも分からない暗闇。
(ひ、あ……。わ、あ……あ、わあああああああああ!! いやだ、やだ!! そんなの嫌だ!!)
伊織の動きが、怖くてたまらなかった。
(ワタシは皆のために頑張ったのに、そのご褒美に楽しんでいただけなのに)
(なんでこんな目にあわないといけないんだ! おかしい! こんなのおかしいじゃないか!)
(天月伊織に手を出したから? エルフィスザークに関わったから? ルシフィナに憑依したから?)
(何もしなければワタシはこんな目に合わなかった?)
(分かってたら、こんなことはしなかった! 手なんか出さなかった!!)
(あああ、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!)
(ワタシが悪かった! もう解放してくれ!!)
(こんなのがずっと続くなんて耐えられない! もう娯楽なんてどうでも良いから! 痛くないなら、なんだって良いから!)
(許してください……お願いします、許して!)
(ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい!!)
(暗いのはやだ。何も見えなくなるなんて嫌だ)
(目が痛い。爪が痛い。痛い、痛い痛い痛い痛いッ!!)
(左目はいつ潰される? いつ何も見えなくなる?)
(怖い、痛い痛い、怖い怖い痛い痛い痛い怖い)
(そこはやめて……そんなところは、ああああああッ! 痛い痛い痛い痛い)
痛いのが続く。
いつまでたっても終わらない。
もう何十年経ったかも分からない。
やがて。
(――ぁ)
伊織が左目に刃を向けた。
(あ、あ)
何年もかけて、ゆっくりと刃が近付いてくる。
(やだ……。やだやだやだ)
何十年もかけて、刃が目の前に迫ってきた。
(ひっ。やめて、目をつぶさないで)
(見えなくなるのやだ)
(もうこれ以上、痛くしないで)
(ザンク、サーフィス、ランドルフ、魔王様ぁ……たすけて……)
(わたしがわるかったからぁ! ごめんなさい、ごめんなさい……ゆるしてぇ)
(目はやだぁ……!)
ぶつり、と左目の視界が闇に覆われた。
何も見えなくなった。
痛いのだけが残った。
何も見えない。
いつ地獄が終わるかも分からない。
(やだぁ……こわいよぉ……)
おねがいします。
(――もう、ころして)
何度懇願しても。
地獄は、終わってくれなかった。
◆
「……死んだようだな」
「ああ」
全身を余すことなく甚振ってから、俺はヒルデ・ガルダを殺した。
ヒルデ・ガルダは、恐怖の表情を浮かべて死んでいる。
殺すまでに掛けた時間は十分にも満たないが、こいつは何千倍もの月日を感じているだろう。
今頃、どんな地獄の中にいるのやら。
ヒルデ・ガルダの体にヒビが入り、粉々に砕け散った。
魂の限界が来たのだろう。
「散々、他人に痛みを押し付けてきたんだ」
その残骸を見下ろして、俺は言う。
「――今度は、お前が痛みを受け続けろ」




