第十話 『私を見つけて』
――思い出す。
“千変”ヒルダを倒した後、俺達は拠点に戻った。
負傷したルシフィナは、治癒魔術で完全に傷を癒やした後、部屋で寝かせている。
リューザスとディオニスも、各自の部屋に戻って休んでいるようだ。
俺も自分の部屋に戻っていたが、眠ることができなかった。
心象魔術【誰も傷付かぬ世界で在りますように】。
ルシフィナが抱いた、自罰的な心象魔術。
誰かを守るための魔術なのに、その誰かの中にはルシフィナが入っていない。
それは……あんまりだと思った。
勇者パーティの中で、最も必死に戦ってきたのは、ルシフィナだと俺は思う。
傷付き、苦しみ、それでもルシフィナは自分の身を削って進み続けた。
ただ流されて生きてきた俺とは、対極にある生き方だ。
だからこそ俺は、ルシフィナを綺麗だと思ったんだ。
「……眠れそうにないな」
目が冴えて仕方ない。
部屋を出て、俺はルシフィナの様子を見に行くことにした。
ルシフィナの部屋をノックするも、返事はない。
どうやら、眠っているようだった。
「……流石に、入るわけにはいかないか」
ルシフィナに異常があれば、治癒魔術師がとんでくるようになっている。
心配だが、専門家じゃない俺にできることはない。
そのまま背を向けて、自分の部屋に戻ろうとした時だった。
「……伊織さん」
扉越しに、ルシフィナの声が聞こえた。
「ルシフィナ? 目が覚めたのか?」
振り返り、扉越しに声を掛ける。
俺を呼んだルシフィナは、どこかいつもと様子が違う気がした。
「伊織さんと出会えて、本当に良かった」
「……急にどうしたんだ?」
「こんなことを言うと、伊織さんは怒るかもしれませんけど……勇者として召喚されたのが、伊織さんで良かった。長く辛い旅路でしたが……伊織さんがいてくれたお陰で、私はとても幸せでした」
胸に染み入るようなその声音に、震える息を零す。
ルシフィナの言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
「怒らないさ。……俺も、ルシフィナに会えて、本当に良かったと思ってるから」
「あぁ……嬉しい」
扉越しに聞こえる、ルシフィナの震えた声。
「――好きです、伊織さん。大好き。とっても、愛してます」
熱に浮かされたような声音に、嬉しさと同時に、何故か不安を胸が過ぎった。
繰り返す告白の言葉に、不安が膨れ上がっていく。
「諦め、ませんから」
「……ルシフィナ?」
「絶対に……最後まで、戦って、みせますから」
思わず、俺は扉に手を伸ばしていた。
どうしてか、ルシフィナが遠くへ行ってしまうような、そんな予感があったからだ。
「伊織さん」
噛み締めるように、ルシフィナはもう一度俺の名前を呼んだ。
「貴方を愛しています。だから――」
「――――」
「――私を見つけて」
扉を開けて、部屋の中に踏み込む。
視界に入ってきたのは、ベッドの上で眠るルシフィナの姿だ。
それまでの会話が夢だったかのように、ルシフィナは寝息を立てて眠りについている。
「……おやすみ、ルシフィナ。また明日な」
言い知れぬ不安を拭うように言葉を置いて、俺は自分の部屋に戻った。
翌日、ルシフィナは目を覚ました。
後遺症は何もなく、普段通りのルシフィナだった。
昨日の会話などなかったかのように、
――いつも通りの、ルシフィナだった。
◆
「俺の復讐を……何だって?」
ヒルデ・ガルダが口元を抑え、大袈裟に失笑を浮かべる。
「どうやら、君は状況が理解できていないらしいね」
ヒルデ・ガルダを囲むように、三つの十字架が移動する。
十字架に貼り付けられているのは、三人の亜人だ。
「ワタシに手を出せば、この亜人達が死ぬことになる。それを承知で向かってくるのかい? すべての人を笑顔にしたいと宣った君が、その身を犠牲にしてすべての種族を救おうとしたルシフィナの想いを踏みにじるのかい?」
だがそれも良いだろう、とヒルデ・ガルダは嗤う。
「人質を殺し、君の思うままに復讐を果たすと良い。ワタシは君に憎悪され、凄惨に復讐されても仕方ないことをしたのだからね。人質は命を落とすことになるが……その代わりに、君の復讐をワタシは甘んじて受け入れようじゃないか。――この身体で!!」
「貴様……どこまでッ!!」
「おっと、エルフィスザーク。君もワタシに復讐を望むかい? 確か、アベルと言ったかな。君の部下を一人、ワタシは手に掛けている。伊織君の代わりに、君がこの身体に復讐してみるかい?」
憤怒を剥き出しにして叫ぶエルフィを、ニヤケ笑いのままヒルデ・ガルダが煽る。
グッと息を呑み、エルフィは言葉を失った。
「無理だろう? この亜人達を君達が見捨てたとしても、まだとびっきりの人質が残っている。復讐なんて、出来る立場じゃないのさ!!」
そう叫び、ヒルデ・ガルダが『天理剣』を振るう。
飛来した斬撃が俺の体を後方へ吹き飛ばす。
背中から壁に激突し、衝撃で視界に火花が散った。
「伊織ッ!」
「おおっと、動いたら人質を殺すよ」
「……ッ」
人質を盾にされ、エルフィは動けない。
そこに漬け込み、ヒルデ・ガルダが魔術を発動した。
「“陰よ、呑め”」
ヒルデ・ガルダの足元から黒い触手が生まれ、エルフィの体を縛り付けた。
「それはワタシが編み出した“陰”だ。君でも、そう簡単には動けないだろう?」
そう言いながら、ヒルデ・ガルダが十字架を動かす。
人質の後ろに隠れ、エルフィの魔眼の射程に入らないようにしているのだ。
エルフィの身動きを完全に封じた上で、ヒルデ・ガルダは再び俺に視線を向けた。
「さあ、続けようか」
ヒルデ・ガルダが剣を振るう。
斬撃が、俺の体を切り裂く。
焼けるような痛みとともに、引き裂かれた傷跡からダクダクと血が溢れ出していく。
ヒルデ・ガルダなら、俺を一撃で殺せたはずだ。
それをしないのは、こいつが俺の不幸を愉しんでいるからに他ならない。
「抵抗しても構わないよ? こんな状況なら、人質を見捨てて当然だ。君を責める人間なんて、誰もいない。エルフィスザークだって、仕方ないと言うかもしれない」
「…………」
「まあ、ルシフィナは、絶対に人質を見捨てたりはしないだろうけどね?」
そう言って、ヒルデ・ガルダは剣を振る。
斬撃が俺の右腕を引き裂いた。
手に力を入れられなくなって、剣を地面に取り落とす。
ヒルデ・ガルダが剣を振る度に、俺の体に傷が増えていった。
「…………」
全身を耐え難い痛みが襲っている。
けれど、それを他人事のように眺めている自分がいた。
こんな痛みとは比べ物にならないほどの苦痛を味わった者が、すぐ目の前にいるからだ。
どうして、こんな程度で弱音が吐けるというのか。
「な……あ」
喉に溜まった血を吐き出しながら、俺は語り掛ける。
「な、あ。ルシフィナ」
「……うん?」
剣を振る腕を止め、ヒルデ・ガルダが興味深そうな目で俺を見てくる。
「ごめんな」
ルシフィナに謝罪する。
「俺は、お前を信じられなかった。俺の前で見せた姿は……全部演技で、本心では俺を嘲笑っていたんだって……そう思ってた」
その言葉に、ヒルデ・ガルダが嗜虐の表情を浮かべた。
「ふ、ふふ! ああ、そうだね。ルシフィナは良い子だったよ。君に憎悪を向けられて、とても傷付いただろうね」
「ごめん。ごめんな。ルシフィナは……何も、悪くないのに。お前を、信じられなかった」
死に際の、うわ言とでも思ったのだろうか。
ブルリ、とヒルデ・ガルダが頬を赤らめて体を震わせる。
死にゆく玩具の最期の言葉に、興奮しているようだった。
「……もっと早く、気付くべきだった」
「その通りだ。三十年間、どれほどルシフィナが傷付いたことか。それもこれも、すべて君のせいだ。身勝手な理想を掲げて、ワタシを不快にした罰だよ。存分に後悔すると良い」
ヒルデ・ガルダが剣を振る。
「が、ぶッ……」
胸に斬撃を喰らい、呼吸が止まる。
斬撃は『紅蓮の鎧』を貫通し、俺の体に深い傷を刻んでいた。
血がダクダクと流れる。
そんな俺を見て、ヒルデ・ガルダは何かを思い付いたかのように笑い、
「伊織さん。どうして……どうして、私を助けてくれなかったんですか? 辛かった。怖かった。悲しかった。なのに、貴方は私を助けてくれないどころか、私を責め立てた! 私を、信じてくれなかった!」
ルシフィナの口調で、そう言った。
目に涙を浮かべ、口調に悲しみと怒りを込めて、ヒルデ・ガルダは俺を罵倒する。
それを無視して、俺は言葉を続けた。
「……お前は、泣いていたのにな。俺とリューザスが戦うのを見て」
忌光迷宮で会った時、ルシフィナは泣いていた。
涙を流していたのだ。
それを見て、俺は勘違いしていた。
「涙が出るほどに……お前は俺を嘲笑っていたんだと思った。けど……違ったんだな」
ルシフィナは悲しくて泣いていたのだ。
俺とリューザスが殺し合うのが、涙が出るほどに辛かったのだ。
「……違わないね。君達を見て、あまりにも滑稽が嘲笑っていただけだ。何を勘違いしているか知らないが、ルシフィナはもういない。この三十年で、ルシフィナの精神は摩耗し、完全に消滅したんだ。どれだけ語りかけようと、君の言葉がルシフィナに届くことはない」
「――嘘だろ、それ」
ヒルデ・ガルダの言葉を両断する。
「何が……嘘だって?」
「ヒルデ・ガルダ。お前は忌光迷宮で焦っていたな。不自然なほどに急いで、俺を殺そうとしていた」
「――――」
「グレイシアの砦の前でもそうだ。俺を確実に殺したいのならば、お前はグレイシアと協力すれば良かった。それをせず、手ずから俺を殺そうとしたのはどうしてだ?」
今日もそうだ。
初め、ヒルデ・ガルダは言った。
俺だけは、必ずぶち殺すと。
あの言葉は、明らかにおかしい。
魔王軍に取って、元魔王のエルフィは脅威なはずなのに、どうして俺だけにこだわる?
そんなの、決まってる。
ルシフィナがまだ生きていて、ヒルデ・ガルダの支配に抗っているからだ。
だから、ヒルデ・ガルダは焦って、ルシフィナの心を折るために、俺を殺そうとした。
「……そろそろ、死ぬと良い」
会話を打ち切り、ヒルデ・ガルダが剣を構える。
魔力が柄を通して刀身に流れ、凄まじい勢いで増幅されていく。
「勝手に盛り上がっているところ申し訳ないが、ルシフィナはもう死んだんだ。現実逃避はやめてもらいたいね」
「嘘を吐くなよ、ヒルデ・ガルダ」
思い出したんだ。
三十年前、“千変”を倒した夜にルシフィナが口にした言葉を。
ヒルデ・ガルダに乗っ取られたルシフィナが、最後に言い残したあの言葉を。
「……諦めないって言ったんだよ」
誰かのために、戦い続けたあいつが。
「最後まで、戦うって言ったんだよ」
一度も膝を屈することなく、弱音を口にすることもなく。
口に出すまでもなく、当たり前のように戦い続けてきたあいつが。
「俺に、諦めないで最後まで戦うって言ったんだ……ッ」
「それが、何だと言うんだ! 言葉だけなら何とでも言える! ルシフィナはもう死んでいるんだよ!」
「ルシフィナはいつも戦っていた。自分が傷付くのも構わずに、誰かのために。ハーフエルフだと陰口を叩かれようと、偽善だと馬鹿にされようと、諦めた方が圧倒的に楽な状況でも、あいつは!! 絶対に流されずに、戦い続けてきたんだ!!」
だからこそ、俺は――ルシフィナを好きになったのだから。
「――そのルシフィナが、お前みたいなクズに負けるわけがねぇだろうが!!」
俺は気付けなかった。
俺は信じることができなかった。
三十年という月日を、一瞬で飛び越えた俺には、偉そうに語る資格はないかもしれないけど。
それでも。
それでも、あの時の願いを叶えてやることは出来る。
「遅くなってごめんな、ルシフィナ」
「……もう、黙れ!! 天突く――」
ヒルデ・ガルダが『天理剣』を振りかぶる。
それよりも早く俺は、
「――ようやく、お前を見つけられた」
ルシフィナに、そう言った。
「――――」
大きく目を見開き、ヒルデ・ガルダが動きを止めた。
『天理剣』から迸っていた魔力が、溶けるようにして消えていく。
掲げていた大剣をゆっくりと下ろし、銀色の双眸が俺を見つめる。
そして、
「――もう……っ。遅いですよ、伊織さん」
涙を流しながら、ルシフィナがそう言った。
「な……に……!? 馬鹿な、まだ意識を保って……ッ」
「伊織さんが、貴方に抑え込まれていた私を目覚めさせてくれたんです」
驚愕の声を上げるヒルデ・ガルダの声を、ルシフィナの言葉が塗り潰す。
「……ッ! そうか……ワタシを殴った、あの時……ッ」
「……ああ、そうだ」
ヒルデ・ガルダの言葉を肯定する。
ルシフィナが憑依されていると知って、俺はアイドラーと話した。
どうすれば、ルシフィナを解放できるのか、と。
『本当にルシフィナに誰かが憑依しているとして……恐らく、ルシフィナの意識は既に消滅している可能性が高い』
『……いいや。ルシフィナは、まだ意識を保ってる。絶対にだ』
『……だとしても、意識はほとんどないはずだよ。憑依した誰かが、意識を抑え込んでると思うから。その彼女を目覚めさせたいのなら……君の使う、洗脳魔術を応用すれば良い』
だから、ルシフィナの額を殴り付けた時、俺は脳に魔力を流した。
眠っていたエルフィを強制的に起こした時と同じ手法だ。
抑え込まれていたルシフィナを、魔力で強引に目覚めさせた。
……それ以前から、ルシフィナはヒルデ・ガルダに抗い続けていたみたいだがな。
「う……ぐッ。ふざけるな、ハーフエルフ風情が、ワタシの支配から抜け出すなど――」
だが、アイドラーはこうも言った。
洗脳魔術でルシフィナの意識を覚醒させるだけでは、完全に解放することはできない。
憑依という魔術を、何かしらの手段で取り除かなければいけない、と。
俺にはそれができない。
魔技簒奪では、体の内側に入り込んでいるヒルデ・ガルダの憑依魔術を打ち破れない。
だから、
「――頼む、エルフィ。助けてくれ」
「――任せておけ」
エルフィに、頼んだのだ。
「――“魔眼・同調接”」
陰を引き千切り、エルフィがルシフィナの前に踊りだす。
エルフィとルシフィナの視線が交差し、そして――、
「――――ッ」
ルシフィナが、勢い良く地面に倒れる。
それと同時に、弾けるようにして一人の女が、唐突に姿を現した。
「ば……かな」
立ち尽くし、呆然と呟くのは銀髪の女だった。
首に掛かるほどのショートヘアに、動揺に見開かれた黒瞳。
身を包むのは、“歪曲”や“消失”が着ていたものとはデザインの異なる、漆黒の軍服。
――いや、容姿なんてどうでもいい。
「追い出されるなんて……今まで一度も……」
「――よう」
「――ッ」
ヒルデ・ガルダの前に立って、笑いかける。
傷は今の一瞬に治癒魔術で塞いだ。
倒れたルシフィナと、十字架に縛られた人質はエルフィが解放している。
つまりもう、こいつを守る盾は何もなくなったということだ。
「ようやく会えたな、ヒルデ・ガルダ」
唇を震わせ、完全に余裕を失った表情のヒルデ・ガルダに近付く。
俺が言いたいことは、一つだ。
「受けろよ。――復讐を、お前の身体で」