プロローグ 『狂乱の勇者』
「――ようこそ、異界の勇者殿。どうか、この世界を魔王から救っていただきたい」
不意に耳に入ってきたのは、嗄れた老人の声だった。
その声で我に返り、周囲を見回す。
そして、自分が奇妙な紋様の上に立っていることに気付いた。
「どこだ……ここは」
「ここは“レイテシア”。勇者殿が住んでいた世界とは別の世界といえよう」
口から零れた疑問に、嗄れた声が答えた。
俺は聞こえた方へと視線を上げる。
そこには、ルネサンス時代の貴族のような服装を身に付けた老若男女がズラリと並んでいた。
疑問に答えたのは、その中でも一際目立つ王冠を被った壮年の男だ。
「レイ……テシア」
「そうだ。そして現在、レイテシアは魔王によって滅亡の危機にある」
壮年の男は、呆然と立ち尽くすこちらを無視して言葉を続けていく。
待て、勝手に話を進めるな。
そう口にしたくても、乾ききった喉からは言葉が出てこない。
「そして我が王国は、魔王を殺すために勇者を召喚したのだ」
泡沫の夢を見ているのか。
それとも妄想と現実の区別がつかなくなってしまったのか。
壮年の男が何かを言っているが、混乱した俺の頭には言葉が入ってこない。
しかし――何を言わんとしているかは不思議と理解できた。
「貴殿には、勇者として――」
取り敢えず、落ち着こう。
男の話を聞き流し、混乱する頭を落ち着かせようとする。
そして、数分前の記憶へと手を伸ばした。
その瞬間――鮮明に思い出す。
自分にいったい、何が起きたのかを。
思わず哄笑してしまい、痛む頭を手で抑えた。
「貴様――話を聞いているのか!」
地面に視線を落としていたのが気に触ったのだろう。
壮年の男の周りから叱責が飛んできた。
耳障りなその叫びに顔を上げる。
視線の先には、一人の男が立っていた。
黒いローブを身に纏い、赤い宝石の埋め込まれた杖を手にしている。
その男を見て、すっと引くように混乱が一瞬で収まったのを感じた。
「国王陛下の御前であるぞ! 顔を上げろ!!」
「良いリューザス。勇者殿はまだ混乱しておられるようだ。そう急かすことはない」
リューザス、だと?
壮年の男が、赤髪をリューザスと呼び、嗜める言葉が耳に入ると同時。
雷が走ったかのように、俺の思考は真っ白に染まった。
――てめぇはもう、用済みなんだよ、勇者様。
直前までの記憶が頭が過るのと同時。
砕かんばかりに床を蹴り、俺はリューザスへ向けて走り出していた。
「あァあああああああッ!!」
「なっ!?」
獣のような咆哮に、リューザスは反応する。
だが、遅い。
奴がその杖を掲げる前に、顔面に一発。
憎悪を込めた拳を、リューザスの顔面へ撃ち込んだ。
「がっ、ファ――ッ」
リューザスは勢いのまま吹き飛び、壁に激突する。
そして目を剥いて失神してしまった。
まだだ。
こんなもんじゃ終わらせない。
上へ跨がり、殴る。
拳が頬骨を打つ音が響く。
「待て、勇者殿! 何をしているのだ!?」
「早く取り押さえろ!!」
周りの連中が飛びかかってきた。
数の暴力に、押し潰されそうになる。
「――リューザスッ!」
それでも、俺はリューザスを殴り続けた。
その度に、心に溜まっていた感情が晴れていくのを感じる。
「てめぇは……てめぇだけは!」
リューザスは完全に気を失っている。
しかし、こんな物では済まさない。済ませられない。
――俺がこいつから受けた痛みは、こんな物じゃない
もう一発――拳を振り上げた所で、ついに地面へ組み伏せられた。
とっさに、腕を抑えている連中を振り払おうとする。
しかしどういう訳か、力がまるで出ない。
「俺に何をしたか――忘れたとは言わせねえぞ!」
それでも足掻き、リューザスへと手を伸ばした。
しかしその時、ゴッと鈍い衝撃が後頭部に走る。
視界が点滅して、全身から力が抜けていくのを感じた。
「い、一体何を……」
俺を取り押さえていた連中の誰かが、そんなことを言った。
――一体何を、だと?
薄れゆく意識の中で、耳に入ってきた問い。
そんな分かりきった疑念に、俺は心の中で答えた。
こいつは俺を、殺しやがったんだ。
◆
俺――天月伊織がこの世界に召喚されたのは、初めてではない。
ほんの数分前まで、勇者として召喚されて、世界を守る為に戦っていたのだ。
だというのに。
待ち受けていた結末は、信頼していた仲間からの裏切りだった。
腕を斬り落とされ、胸を貫かれ、呆然とする俺を、ゲラゲラと嘲笑する顔を覚えている。
あの赤髪の男――リューザスもその一人だ。
俺を殺せば、魔王討伐の名誉は自分たちだけの物になる。
戦いが終われば、勇者など邪魔なだけだ。
お前はもう、用済みなんだよ。
そう言って嘲笑う仲間達に、俺は殺されたのだ。
だがどういうことか、俺はまだ生きていた。
理由は分からないが、自身の幸運に感謝しよう。
裏切った奴らに復讐する機会を、与えてくれたのだから。
――後悔させてやる。俺を裏切った事を。
そう嗤って、俺は意識を失った。