第四部 終
いつかの光景の巻き戻し。目の前の男はいつかの青嵐の様に笑う。
「こんな所で何をしているんだい?」
秋津紅は得物を持ち、一人で歩み寄って来る。
「秋津、こ、う?」
ここには来ないと思っていた者が目の前にいる。後ろに下がろうとしても後ろにあるのは楓の樹。背にはもう一振りの愛刀があるがこの体勢で抜き放つのは難しい。背を幹に預け、背筋を伸ばす様にして、紅を見据える。
だが、その瞳には力はなく、崩れる一歩手前であった。
「結界の反応先にいたのが、君でね」
何も求めていないのに、ここに来た理由を話し出す。
「翠石の者かと思って来たけど、間違えたな」
初めからそんな事は思っていない、と言った口調で続ける。
「ま、焚き付けた張本人だからね。一応色々な可能性は考えていたけど、こうも早いとは」
呆れ口調に変わり、笑顔が消える。
紅は青嵐の前にいる。
崩れる一歩手前となるほどに追い詰められ、逃げ出し、全てを消そうとした。
立っている力がなくなったのか、青嵐は樹の皮を滑る様にゆっくりと座り込み、力無く青嵐は紅を見上げた。
立ち止まり、青嵐を見下ろす紅。
不意に紅が屈み、手を伸ばした。青嵐は反射的に身構えるが、
「芝居はもう終わり。元の役に戻ろう」
そう言って青嵐の頭に手を置いた。
「それは」
その台詞を聞いた青嵐は、いつかの夜の事を思い出した。
笑えない男の子。自分の真似をすればいいと言った。
そう、あの時、
『互いの真似を芝居の役みたいに演じ切ろう』
そう青嵐が提案し、男の子は少しずつ笑える様になった。
紅がこの台詞を言う。
つまり、紅があの夜に出会った男の子。
今の彼からは想像も付かない。笑えなかった、あの子が秋津紅。
(なぜだろう)
あの男の子の顔と名前が思い出せなかったのはなぜか。
でも、そんな事はどうでもよかった。
芝居は終わり。
それが意味する事は、
「私に」
顔を伏せてしまう。今更、虫がよすぎる。
藜に対してやって来た事はなかった事にしてもう一度笑え、と紅は言ったのだ。
「あの頃に戻れと言うのか」
それは出来ない。
藜に対して今まで何をして来たか。
自分に今の基礎を教え込んでくれた師匠に。
「・・・・・・」
紅は少し考え、
「そうだ。君が笑えなくなったから青桐藜はそうしたんだろう」
紅は優しくない。
ただの傍観者として、事実を言う。
「出来ない」
全ての元凶は自分にある。
その元凶である自分が都合のいい様に出来るか。
否、それは出来ない。いや、出来る筈がない。
「するしかない」
横に振る。
「出来ない。そんな事」
否定しても、現実は突き付けられる。
「『初めからそう決め付けない事。それが何をするにも肝心』だっけ?」
「それ」
いつかの日に言った格言。それを今ここで返される。
しかし、それでも、
「出来っこない」
否定する。
その姿は駄々をこねる子供に近い。
「何故、出来ないと言い切れる?」
青嵐がこれだけは出来ないと否定する理由。それが気になった。
(言える筈ない、か)
理由は話してくれそうにない。そう思った時、
「私が藜に何をして来たと思う?」
「?」
唐突な質問に紅は首を傾げた。
青嵐は藜に対してやって来た事を全て吐露した。溜まっていた物を全てぶちまける様に。
それが、今までに行って来た事。
懺悔とも言えるそれは、いつの間にか声が震え、途切れ途切れになっていた。
「こんな、こんな事を、して、私にまだ、『笑え』って、言うの?」
事をしたのが青嵐なだけあってその内容は、残酷極まりない。
「そうだ」
でも、肯定する。それが青嵐の為であり、藜の為。それが出来ないと藜は報われない。
「君は相手が望んだ―――『笑う』と言う事が出来ないと償いも出来ない」
だから肯定し、役を返す。
本来の青嵐を。
自分の役は自分で背負う。
「終幕だ。元に戻ろう」
そう告げ青嵐に手を差し伸べた。
差し伸べられた手を掴むべきか――青嵐は迷った。この手を取ってしまえば、自分勝手な事だが、全てを忘れられるかもしれない。
けれども、迷う。
裁き無き罪。償いと謝罪の機はとうの昔に消えている。
虚ろな目付きで、ゆっくりと震える腕を伸ばした。
青桐の里には青嵐はいない。それに気付いたのは数分後の事だった。
(どこに行った?)
部屋を見に行った所、青嵐の愛刀が二振りともなくなっていた。
(あれを使っていなければいいけど)
藜は湖の周りを見回った。しかし、いない。
代わりに、楓の葉が落ちていた。
(まさか)
このあたりに楓の樹はない。あるとしたら、
お山三つ離れている秋津の里。
(青嵐!)
藜は走り出した。
目指すは、秋津の里。因縁のあの地へ。
紅は気になっていた事を聞いた。
「これからどうするんだい?」
「帰れない」
力無く答える。
「行く当ては?」
首を横に振る。行く当てはない。でも帰れない。
紅は立ち上がり、青嵐の腕を引いて立たせた。
「来るかい?」
「え?」
最初それが何を意味するのかが分からなかった。
「前に聞いただろう。手を貸してくれないかって」
「あ」
いつかの満月の夜。そんな事があった。
その答えを今―――
「青嵐!」
「!?」「え?」
双方共に、今会いたくない者が来た。
(こっちに集中しすぎで気付かなかったのか? いや、それはない。となると)
紅はそこで考えを中断し、隠し持っていた四本の棒手裏剣を立て続けに打った。
藜はその内の二本を避け、紅が弾き飛ばした青嵐の愛刀を拾い、もう二本を弾き飛ばした。
その間に紅は青嵐の腕を掴んで引き寄せ、彼女を抱え走り出した。
「っあ」
「喋らない方がいい」
小柄とは言え軽過ぎないかと思えるほどの青嵐はただ小さくなる。
「待て!」
紅が走るペースは速かった。
青嵐を抱き抱え、木々の間を縫って走っていると言うのに、その速さは衰えずに速くなる。
それを追う藜もまたそうだった。
しかし、その鬼ごっこはそう長くは続かなかった。
「若!」
どこからともなく現れた、一人の老人が紅と藜の間に割って入り、
「カッ」
[冥]をただの塊を弾すると言う初歩的な術を藜目掛けぶつける。
だが、所詮は初歩中の初歩術。一振りで両断され、消えた。
「止せ。こいつにそんな簡単な物は効かない」
紅は老人の後ろで止まり、老人を止める。藜に背を見せたまま。
藜が攻撃して来ない事が分かっているかのような行動である。
「ですが」
「下がれ」
老人は渋々下がる。
(ち、深く来過ぎた)
藜は紅とのやり取りと、老人がここにいる理由を悟り、内心で舌打ちをする。
青嵐を見る。まだ小さくなったままだ。
(取り敢えず引き離す。その事だけに)
目的は一つ。青嵐の奪還。
紅の後ろから数人の男が走って来た。青嵐をその男達に預けられる。
藜は油断なく構え、何が来るのかを予想する。
紅は藜を見た。こうして向き合うのは初めての事だ。
だが、とある誰かとその像が被る。
(気にするな。今は青嵐を奪還する事だけを考えろ)
紅は青嵐の背にあった打ち刀を抜き、自前で持っていた太刀を抜く。
打ち刀と太刀の組み合わせ。
強度で言えば太刀の方に分がある。
だが、日本刀に部類されるそれは速さと技を持ってものを分断する。
詰まる所、太刀であれ、打ち刀であれ、どちらにしても行う事は同じなのだ。
「こうして向き合うのは今までにはなかった」
紅はそう呟く。
「確かにな」
藜は一言で返す。
「用件は?」
「青嵐をここに連れて来てどうするつもりだ?」
「そんな事か」
『そんな』の一言で片付ける紅。藜は少し反応したが、動くまでには到らなかった。
「翠石の話は聞いているだろう?」
「少しは」
「それでこうなった予想を付けてもらいたいな。ま、無理だろうが」
藜は黙り込み、自分を抑える。
(翠石はどの世界でも青桐と秋津を滅ぼしている。その敗因は、単独で立ち向かったから――待て。まさか)
思い出している途中で藜はある事に気付いた。
単独で立ち向かったから負けている。
なら、単独でなければ勝てる。
(単独)
「青嵐に手を貸せって言ったのか?」
まともな正答が帰って来るとは思えないが、藜は聞いた。
「その考えに辿り着いたなら言う必要はないだろう」
その返し自体が、答えだった。
それに驚いたのは藜だけでなく、後ろにいる老人達と男達もだ。
「若、何を仰いますかっ!? その様な事、前代未聞ですぞ!」
「何事にも始まりはある。それに未聞も何もない」
「ですが!」
老人は下がらない。考え直す様に問い詰める。それをあしらっている最中でも、紅には隙が見られなかった。
思考が一瞬停止した。
しかし、今ここですべき事は今ここで紅を問い質す事ではない。打ち刀を正眼に構え直す。
「悪いが、青嵐を置いて行くつもりはない」
隙がなければ、こちらから作ればいい。藜は踏み込み、強引に攻め込む。
「っと」
男にしてはやや高めの声が気合いとも似つかない声を上げる。
(この強引さ。隙を作りに来たか。なら!)
隙を作りに来るなら、作らせなければいい。
紅はわざと隙を作り攻撃箇所を限定させ、打ち刀の間合いよりも内側に踏み込み、藜の胸を太刀の柄頭で打つ。
「ぐっ」
一瞬息が止まったのか、くぐもった声を上げる。
胸を突く痛みを意思で打ち消し、藜は自分の間合いまで後退する。
紅はそれを追い、間合いが開く事を防ぐ。
二人の戦いはいつしか、格闘戦に持ち込まれていた。
もちろん持ち込んだのは紅である。逆手に持った太刀と打ち刀をトンファーの様に振るい、柄による打撃で藜を追い詰める。
藜はそれを弾き、受け流し、
(・・・・・・ここだ!)
だが、藜もただ追い詰められていた訳ではない。一度あるかないかの機を手繰り寄せ、
「せやぁっ!」
渾身の一撃を叩き込むが、
「何をする気なんだい?」
「なっ!?」
藜が実戦で長く培って来た勘が告げた勝機は、紅に見透かされていた。
(なぜだ? なぜ読まれた?)
紅の猛攻を防ぎ、後ろに大きく後退する。今度は追って来なかった。
「さっきの一撃、どうして俺が分かったのかが知りたい様だね」
「・・・・・・」
沈黙と睨みで返す。その睨みは、睨み付けた相手をその視線で殺せるほどの眼光である。
紅は目を閉じて睨みを受け流す。
それを肯定として受け取ったのか、老人と男達に帰れと手で合図し、その場には二人以外、誰もいない様にしようと言う意図が分かる。
「若」
「心配ない必ず戻る」
「分かりました」
老人は背を向け歩き出し、男達は青嵐を引きずる様に連れて行く。
藜は、青嵐は一度も自分を見ようとしていない事に気付いていた。それでも、ただ一言、伝えたい事があった。
(青嵐)
藜はそれを見送る事しか出来ない。
紅は、周りに誰もいなくなった事を確認してから口を開いた。
「これで何を言っても大丈夫そうだね」
紅が何を言うのか。藜は何かを言うと同時に攻撃が来るのではないかと、油断無く構えるが、
「身構える必要はない。言うと同時に攻撃なんてね」
「・・・・・・」
まただ。また、紅に考えている事を読まれた。
では、なぜ読まれるのか。
その答えを待つ。
「読めるのは今、俺の目の前にいる奴だけ。他人の心は読めない」
「前置きはいい」
「せっかちな」
いいか、と笑顔を崩さずに紅は続ける。
「簡単な事だ。俺とお前――藜に魂の関係があるから」
「は――?」
藜はそれが理解出来なかった。
藜と魂のつながりがあるのは青嵐だけ。だと言うのに、この男は何を言い出すのか。
「こう言えば分かるかな?」
「?」
これから何が来ようともそれは嘘だと思い、耳を傾けた。
「青桐藜。俺はお前が犯した罪の結果だ」
「――」
そして、今度こそ頭の中が真っ白になった。
秋津紅と言う存在が、藜が犯した罪の結果。
それに何の意味があるのか。
藜はそれを聞いただけで理解したが、同時に否定した。
「嘘を吐くな! それはありえない!」
「いや、事実だ。そうでなければ陰陽の様に俺と青桐青嵐の感情表現が入れ替わる事はない」
「・・・・・・っ!」
言われて見ればそうだ。感情表現が変わる事はあっても、入れ替わる事はない。何かしらの繋がりと要因がなければ。
その要因は直ぐに思い当たる。過去に青嵐が夜な夜な屋敷を抜け出していた事があった。その面会相手がこの男だったのだろう。
けれども、それだけでは入れ替わる事はない。
入れ替わったと言う事実は青嵐と紅に何かしらの繋がりがあるという事になる。
不意に、取替えっ子と言う単語が浮かんだ。
西洋では妖精に攫われ、かの世界を見た子供を指す。東洋では神隠しに当たる。
藜はそう言った意味でこの単語を思い浮かべたのではない。
二十年程前――藜が呼び出しに応え、この時代に一人の人間として第二の生を受けてから間もない頃。
彼女の両親は周囲から奇妙な質問を受けていた。
『男の子じゃなかったの?』
見間違いに過ぎない筈の質問の意味が今、恐ろしい事実をもたらす。
(嘘、だろ)
信じられない事態である。
取替えっ子。過去に事例のない例外。それが今ここで起きている。
「何を。何を根拠にそれが言える?」
「今、全て当てはめただろう。奇妙な事に秋津でも同時期に騒ぎがあった」
その騒ぎの理由がよく分かる。双方の一族にすればあり得ない事だからだ。当時の当主はさぞ、苦労しただろう。
「・・・・・・」
明るみになる真実。そして、藜は確認を取らなければならない。
「で、俺を殺すと言う事は――」
「俺を、殺すと言う事になる」
「そう言う事だ。気付くのが遅いね」
紅は大袈裟に細い肩をすくめる。
紅が老人達を下がらせた理由が分かった。この事を知っている者が秋津の中ではいないのだ。
これを秋津に知られれば紅は先ず追放されるだろう。
最も、そんな事をするのは先の事を考えない者がする事だが。
「分かってくれたら、その刀を置いて下がってくれないか。彼女が待っている」
「・・・・・・っ」
自分には何も出来ないと知らされ、
それでも、何か出来る事があるのでは、と考えてしまう。
事実に打ちのめされ、藜はまともな判断が出来ない。
「置く気がないのなら、腕ごと置いて行ってくれ」
逆手に持ったままの太刀と打ち刀を構える。
考えている事が読まれてしまう状況でこれ以上戦うのは自殺行為である。
青嵐の血がベットリと付いた打ち刀を紅に向かって投げ捨てる。
紅はそれを、身体を右に開いて避ける。打ち刀は紅の頬を掠めて後ろに飛び、樹に突き刺さった。紅の頬から一筋の血が流れる。
それに気付いていないのか頬から首に伝って行く血を拭こうともしない。
紅は太刀を鞘に収め、打ち刀を手放す。背を見せた所を討つ気はないと示す。
藜は振り返らずにその場から去った。
潔く、青桐の里に帰って行く藜。
それを無言で見送る紅。その姿が見えなくなった所で、打ち刀を抜く。
(鞘は、さっきの場所か)
まだ一人で考えたい事がある。鞘を拾って戻る間にまとめるとしよう。
秋津の里から出る。
何も考えられない。
何も出来ない。
『藜』
その声が未だに耳に残っている。
真実を知るまで、
何の疑いも持たずにただ妄信的に戦い続けていた、
あの頃に藜はその者と出逢った。
その者との出逢いが、死ぬ寸前までの、藜の全てを変えた。
出逢いと言うよりは、邂逅。
宿命的とも言え、運命的とも言えた。
その者の死は自分が招いた。
何も出来ずに、助けられずに、ただ、見ているだけしか出来なかった。
近くの樹に寄り掛かり、空を仰ぐ。空は白んでいた。
(また、あれを繰り返すのか、俺は)
守りたい者を守れずにただ見ているしか出来ない。
それが一番嫌だったから、
青嵐に対してあの嘘を吐いたのだ。
『今度は、後悔しないでね』
麻佐に頼み込んで、高等幻術を使用してまで。
全てが終わり、破滅に進む。
それを防ぐ手立ては――
(いや、まだ手はある)
否、元よりそれしかあり得ない。
希望は限りなく皆無に等しい。
だが、一筋の希望でも、
一粒の奇跡でも、
この手で実現させよう。
それが、死して尚、
青桐この血筋に縛られる事を選んだ、藜の決意であり、唯一の願いだから。
鞘を拾いに行った紅が戻ると、老人が声を掛けて来た。
「若っ! その怪我は?」
頬を伝う血を拭かずに帰った紅は、縁側を歩きながら返す。
「問題ない。それよりも、彼女は?」
「一手間使い眠らせましたので、客間にて眠っています」
「そうか」
紅は一度止まり空を仰いだ。
風が吹き、頬を撫でる。
子望月が辺りを照らしていたのに、
空は白み、夜は明け様としていた。
「若。周りの者が心配します。せめてその血ぐらいは拭って下さい」
「血――? ああ、そう言えば最後に掠ったんだったな」
老人からハンカチを受け取り、頬に当てる。
触れると痛みが甦る。だが、この痛みが生きていると言う、かつて紅が忘れていた証拠。
『周りは暗く何もなかった。唯一あったのは、冷たさ』
この証拠に気付いたのはいつからか。
思い起こせばあの夜。初めて抜け出す事に成功した、あの晩。
『身体は重く、冷たく、この場に自分をつなぐ物はもっと冷たかった』
全てが変わり、初めての温かなもの役をもらった。
それに優る物はどこにもない。
『この場で許された事はただ、空を見上げる事だけ』
ただ――欲しかった物 は一つ。それすら叶わなかった。
しかし、今は違う。
「少しいいか?」
「何でしょう?」
「次の物を用意して離れに運んでくれ」
「は」
紅が述べた物を聞くと老人は準備の為に下がる。
手駒は全て揃った。
勝利を確信させる剣はこの手にある。
残るは、実行に移すのみ。
風が一際強く吹き、紅の髪を揺らした。
空が白みは始めた頃、ゆっくりとした足取りで藜は屋敷に着いた。麻佐は気付いているのだろうが、いつまで立ってもやって来なかった。
部屋ではなく、青嵐お気に入りの昼寝の場所に向かう。あそこは人気が無く静かなので沈んだ頭を落ち着かせるには丁度いい。
早朝だからか屋敷内には使用人しか動いている者がいないようだ。これ幸いと静かに移動し、目的地に向かう。
青嵐が紅の手に渡り、秋津は翠石への総攻撃を行うだろう。
だが、青桐は動かない。
秋津が動くのであれば共倒れを望み、そうならなくても、戦力はある程度は低下している。そこを狙うのが常套手段である。
(麻佐が青嵐をどうするかだな)
今の秋津には青嵐がいる。彼女をどう扱うかで、これからの状況は変わって来るだろう。
裏切り者として扱うか。
あるいはただ、連れ去られたとするか。
二者択一しかなく、これ以上選択肢を増やす事も出来ないだろう。
(最終手段は俺が独断で動く事か。どう転んでも不利だな)
藜の考えが紅に伝わる以上、どう動いても先手を打たれるだろう。彼が藜を見逃す事は、それこそ秋津に有益な時だけだろう。
(待てよ)
秋津にとって有益ならば見逃す。
これが引っかかった。
(一か八かやってみるか。高確率で失敗しそうだな)
一縷以下の望みに託さねばならない。そう思うと頭が痛くなって来た。
けれども、藜に諦めると言う選択肢だけは無かった。
ぼやけた視界、見慣れぬ天井が自分の置かれている状況を示していた。
(一発喰らったんだっけ)
紅から引き離された直後、腹部に一撃を受けそのまま気を失ってしまった。ただの気絶にしては、頭がぼやける。
薬を嗅がされたか、あるいは投薬を受けたのかもしれない。
起き上がると頭痛が起きた。鋭い痛みに額に手が行くが、頭を振って立ち上がり、
「――あ」
視界が一気に白くなり、そのまま仰向けにぶっ倒れた。派手な音を立てたが、すぐに誰かがやって来る様子がない事から、周囲に誰もいないと推測する。
両手を着いて再び起き上がる。今度は視界が元の色を帯びるまで視線を漂わせ、視界が元に戻っても直ぐには立たず手を着いたまま、這う様に移動して襖を開けた。
「ん――」
明るい陽射しの眩しさに目を細める。腕を目の高さに持ち上げ直射日光を遮る。
陽射し明るさに目を慣らしてから、外を見回した。
手入れが行き届いていないのか、庭は雑草が好き放題に育っており、季節は秋だと言うのにその葉は青々としていた。縁側の柱に捕まりながら立ち上がり、腕を伸ばして何もない空間に弾かれた。
「何だ?」
そこでようやく、両腕に細い鎖で出来たブレスレットを着けている事に気付いた。見覚えの無い銀色の鎖を外そうと試みるが、どう言う訳か、先程と同じ様に弾かれた。座り込んでしばし眺めていると、頭に何かが置かれた。
「無駄だよ。それはそう簡単には外せない」
無音で背後からやって来た紅が、青嵐の頭に手を置いて疑問に答える。
「そして、ここから出る事もね」
「・・・・・・」
「しばらくはここにいてもらう。あまり使っていなかった離れでね。掃除はついさっきやったんだ」
無言で紅の他愛ない説明を聞く。世間話に近いそれを聞いていると、いかに自分が異常な行動を取ったかを知らされる。
「そうそう。剣は俺が預かって置く。使う時に渡す」
武器を持ち歩かせては内乱が起きるかもしれないので、先に危険の芽を摘んで置く腹積もりらしい。紅は言っていないが念の為に自分の装備品を確かめると、護身用に身に着けていた棒手裏剣や飛び出し式のナイフも無くなっていた。
全ての武器を取り上げられても、言葉が浮かんで来ない。不思議な軽さがあっただけだった。
「台所に食材をいくらか置いて置くから自分で作るといい。こちらで作った物を食べる気はないのだろう」
それはいかにも紅らしい気遣いだった。
「――ああ」
その気遣いに短く言葉が漏れた。
自分がどんな表情を浮かべているのか分からなかった。
けれども、何かが抜け落ちた。
意地で守り続けていた何かが。
離れから出る。青嵐の状態を確認するだけなので長居はしない。
(それにしても、都合がいい)
青嵐の予想以上の傷心状態に、紅は落胆しなかった。それどころか、喜んでいた。
コントロールしやすい、と。
彼女自身を支えるものが無い今、それを与えるのが紅の役目となる。それは望んでいた事であり、最も難しい部分でもあった。
(ま、あの状態なら復帰するのに相当な時間を必要とするだろうね)
自信喪失なら、ここまでならなかっただろう。
今の青嵐は自己喪失に近い。故に、傷心以上の状態になっているのだ。
(まずは)
離れに置いて置く食材は使用人に選ばせればいい。その他に用意するものがある。点滴剤だ。
「若」
「何だい? 彼女は傷心している。離れに近づかなければ問題は無い」
音も無く現れた老人に
「いえ。御怪我についてです」
そこで紅はもう一度、頬を拭った。薄っすらと血が着いている。傷口が再び開いたのだろうか。
「手元にあれを置いて置く事には反対いたしませんが、他の者に怪我は見せぬ様にお願いいたします。翠石のおかげで、混乱は続いておりますゆえ」
混乱している時に先頭に立つべき紅が怪我をしていては、全体の士気に関わる。老人の気遣いに紅は素直に笑った。
「唾でも着けて置けばいいかもしれないが、消毒液だけもらおうか」
「只今持って参ります」
登場と同じ様に下がった老人を見送り、自室に戻る。
広々とした部屋には、洋服ダンスと卓袱台しか置かれておらず、質素な部屋と言うよりも空き部屋を思わせる。
服を着替え、老人が来るのを待つ。しばらくするとやって来た。
救急箱を受け取り、老人を下がらせる。慣れた手付きで消毒を行う。
(さて)
とりあえず至急で行わなければならない事はした。
今日の予定はない。
(寝るか)
けれども、いつ翠石との戦いが起きるか分からないので休息だけは取って置く必要がある。
蒲団を敷いて、紅は床に就いた。
翠石をどう追い詰めるか、考えながら。
天原です。意外?でも無い展開になりました。
急転直下な物語大好きです。
ところで皆さん、紅と藜が言っていること食い違わないって思いませんでしたか?意味はきちんとあります。ミスではないです。
プロットなしで思うままに書いていたらこうなっただけです。
次回翠石との決着編。
お読みいただけたらうれしいです。




