アフォガード
この季節が来るたびに、いつも鮮明に思い出される記憶がある。あれからどれだけ時間が過ぎようとも、決して忘れることが出来ないそれは、かつてほんのひと時だけ交わされた、彼女との会話の記憶だ。
月並みな言い方だけれど、彼女をはじめて見たとき、僕は夏の暑さに幻覚を見たのだと思った。彼女はそれくらい現実離れしていたのだ。
薄手のワンピースに包まれた真っ白い肌が、夏の日差しに映えて、輝いていた。長い黒髪が風にふわりと揺れていた。
入り組んだ路地に不意に現れた、人気の無い真夏の公園。そのベンチに座っている彼女は、何を思っているのか憂いを帯びた瞳で地面を見つめながら、棒付きのバニラアイスをなめている。その彼女の肌に負けないくらい真っ白なアイスは、太陽をうけてそれ自体でキラキラ光っているみたいで、僕は思わず目を逸らすことが出来なくなった。
と、その視線に気づいたのか、彼女はこちらを見ないままで僕に話しかける。不意に声を掛けられたことに、僕は驚き、戸惑った。
「なに?」
抑揚の無い声で、短く尋ねられる。その声はひどくかすれていて、まるでついさっきまで声の出し方を忘れていたみたいだった。
「……い、いや、なんでもない」
「ふぅん」
君に見とれていた、なんて言うわけにもいかず曖昧に口ごもると、彼女は途端に興味をなくしたみたいで、また視線を落とした。本当ならそのとき、僕はもうその場を離れるべきだったのだろう。きびすを返し、何事も無かったように、元の道に戻るべきだった。
けれどそうできなかったのは、浮世離れした彼女の雰囲気に、魅せられていたからなのかもしれない。
いつまでも自分を見つめている視線に、彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「なに? 暇なの?」
「……あ、うん」
僕は操られたように、力なく頷く。本当はそれほど暇というわけではなかった。と言っても、別段予定があったわけでもないけど。
「ふぅん。ならこっちに来て話し相手になってよ。わたしも暇だから」
心底どうでもよさそうな声色で、そう提案をする。そんな姿さえも絵になると、そう思った。僕はやはり、ゆるゆると頷いた。
一人分のスペースを空けて彼女の隣に座っても、彼女は僕の方を見ようともしない。
「あなた、この辺の人じゃないでしょ?」
彼女は高校生くらいだろうか。だとしたら僕よりも随分年下なのだけれど、言葉遣いは随分砕けている。それを不快に感じなかったのは、多分、彼女の雰囲気が大人びていたからだろう。僕がまた頷くと、彼女は小さく「だろうね」と呟いた。
僕の顔に疑問が浮かんだのが分かったんだろう。彼女は短く説明した。
「この辺の人でわたしに話しかける人はいないから」
けれどそれで、また別な疑問が浮かぶ。今度は、ちゃんと声を出すことができた。
「なぜ?」
「わたしがもうすぐ死ぬから」
「え?」
あまりにも何でもないという風に言われたせいで、言葉の意味が一瞬分からなかった。
「それって……」
「わたしはもうすぐ死ぬのよ。病気で」
彼女はもう一度同じ言葉を繰り返したけれど、やはりそこにはどんな感情も読み取れなかった。にわかには信じがたい話だ。
「……本当に?」
「別に信じなくてもいい。もしかしたら嘘かもね。……けど、ほら、私の肌、あまりにも白すぎると思わない?」
そう言って腕を軽く上げてみせる。それは確かに、透けてしまいそうなほどの白さだった。
「ずっと部屋にいたから、殆ど日光に当たってないのよ。太陽に当たっちゃいけない病気」
「え? じゃあ……」
「今はいいのよ」
彼女は軽い口調で僕の言葉を遮った。
「もう末期だから関係ないのよ。今までずっと閉じ込められていて、最後だけ外に出ていいなんて、まるで蝉みたいね。ねえ、蝉は一週間しか生きられないって言うけれど、本当かしらね?」
どうしてそんなことを、そんなに楽しそうに言えるのだろう。
「こう見えても昔はこんな田舎じゃなくて東京に住んでたんだけど、療養で引っ越してきたの。別に他人にうつるような病気じゃないんだけどね。それでも、やっぱりみんな、死ってものが怖ろしいんでしょうね」
「まるで自分は怖くないみたいな言い方だ」
「そうね。わたしにとって死は、あまりにも身近にあるものだから。もしかしたら、もう慣れきってるだけかもしれないけど」
そんな言葉を、彼女は薄く笑いながら言ってのける。それはずいぶん危ういバランスの上に成り立っているような気がして、
「羨ましいな」
そう思っていたら、つい言葉が口をついて出た。一瞬あとに気がついて、自分の言葉に自分で驚いた。それは彼女も同じだったようで、そこで初めて彼女が僕に視線を向けた。
「羨ましいって、死が身近だってことが?」
僕は何も答えられない。夏の熱気でのぼせてしまったみたいに、頭が全く働かなかった。
いつの間に食べ終わったのか、彼女は手に持っていたアイスの棒を道端に軽く放り投げると、言葉を続ける。
「……なら、一緒に死ぬ?」
──それは、なんて甘い誘惑なのだろうか。
その魔力に引き寄せられるように、気がつくと僕はただ、頷いていた。
視界の端にちらと映ったアイスの棒には、大きな文字で「ハズレ」と書いてあった。
「なら、あなたには、これをあげる。飲むときは噛まずにそのまま飲み込んでね」
彼女は優しく微笑みながら、ポケットから鮮やかな青色の錠剤を取り出した。そのうちの一粒を受け取った。
「これって、もしかして?」
「多分、思ってる通りのもの。病院からこっそり持ち出したのよ」
「なんで……」
流石にその続きを言うことははばかられた。けれど、それだけで彼女にはしっかりと伝わっていたようだ。
「末期患者には必要ないんじゃないかって? 分かってないわね。わたしは、病気に殺されるなんてごめんよ。もうすぐわたしは、わたしじゃなくなる。やせ衰えて、歩くことも、喋ることも出来なくなるの。でもこれを飲めば、そうなる前に、……そう、美しいままで死ねるわ」
強がりで言っているわけではないことは、彼女の態度からすぐに分かった。死を前にしても、美しくあれる。やっぱり羨ましいと、思った。
「あなたがどうして死にたがっているのかは聞かない。言いたいことでも無いだろうし、別に興味もないしね。でも、とにかく、わたしは自分の死に方は自分で決めるの。それってとっても素敵なことだと思わない?」
彼女の言葉が、頭の中でガンガンと響いている。
そうだったのだろうか。僕は死にたがっていたのか。
もちろんそうだ、と頭の中で声がした。そうでなければ、どうしてわざわざこんな事をしているのか。僕は死に場所を探していたのだ。
だから僕は、手の中の薬を飲み込むべきだった。
けれど、
「飲まないの?」
「…………」
僕は、動けない。これを飲むことも、飲まずにそのまま彼女に返すことも、どちらも正解では無いような気がしていた。
そんな僕の様子をちらとみて、彼女はふっと小さく息をついた。
「意気地なし」
その言葉に僕は、弾かれたように、すがるように顔を上げた。目が合うと、彼女は僕を見つめながら、手の中の錠剤を一粒口に含む。それから、子供をあやすような、慈しむような微笑を浮かべた。
そして、
唐突に口の中に感じる、甘い味。
そこにはどんな感情もこもっていない、形だけのキス。彼女の舌が、僕の口中に錠剤を押し込もうと、艶かしく動いている。
「……っ!」
それに気がついた瞬間、僕は思わず彼女を突き飛ばしていた。彼女の身体が僕から離れていくと、口の中には、バニラアイスの甘ったるさだけが残された。
彼女はその勢いのままベンチから転げ落ちる。その拍子に膝をすりむいたのだろう。かすれた小さな悲鳴が聞こえた。
「ご、ごめん!」
我に返った僕は、慌てて彼女に駆け寄ろうとした。けれど、足が動かない。彼女の視線が、まっすぐに僕を射抜いていたからだ。
そこに浮かんだ感情は、非難でも批判でもない。単純な疑問だった。
彼女はしばらく不思議そうに僕のことを見つめていたけれど、ほどなくして何かを納得したのか、僕から視線を外すと蔑むように小さく、笑った。
それから何も言わずに立ち上がり、そのまま僕を残して去っていった。
僕は、引き止めることも出来ずに、ただ呆然と、その姿が霞んで見えなくなってしまうまで、彼女の背中を見つめ続けていた。
これが、彼女と僕の間にあった出来事の全てだ。
それ以来彼女には一度も会っていないし、だからもちろん彼女がその後どうなったのかも知らない。彼女が語った言葉が真実だったのかも、今となっては分からない。
けれど、あの日のことは今でも忘れられず僕の中に残っていて、ふとした拍子に、思い出してしまうときがある。
その記憶はいつもバニラアイスの甘ったるい匂いと共にある。そうして僕は、それを想うたびに、切なさと後悔と、ほんの少しの懐かしさに胸が詰まってしまうので、
だから僕は未だに、バニラアイスだけは食べることが出来ない。