九、闇の中の光
カタン、とどこかで響いた微かな物音に、浅葱の意識は覚醒する。
(…熱い…)
体が熱を持っているようで、不快だった。
身動げば、両手と両足が縄で拘束されていることに気付く。
(くそ…っ、口の中が苦い…。まさか、何か飲まされたのか…?)
浅葱は荒い息を吐いて、身を起こした。見渡せば、自分が転がされているのが狭い板張りの部屋と分かる。奥に箱や調度品が積まれているから、おそらく物置だろう。
他に人の気配は無い。ただ小さな格子窓から覗く月灯りだけが、この部屋を照らしていた。
そしておそらくその格子窓から入ってきたのだろうあの蝶が、香料を吹きかけた浅葱の胸元にとまっていた。
(…蝶…が…)
蝶はゆっくりと、浅葱の呼吸に合わせるように翅を羽ばたかせる。
それを見つめていると、何だか無性に眠くなって、浅葱は再び浅い眠りに落ちていった。
これは夢だと、浅葱にはわかっていた。
何故なら自分が、幼い姿をしていたからだ。
『ほら、ごらんになって。あの汚い色を』
『まあ本当に。父君や兄君はとても美しい群青の髪をお持ちなのに、あのお子ときたら…』
『あの女に生き写しのようだわ。卑しい売女』
さやさやと笹が揺れるように、悪意のある声が響く。
どこかで聞いたことのあるこの声は、父に仕える女官達のものだ。
「…ぁ」
幼い自分が耳を塞ぐ。
だが聞きたくない言葉は、絶えず辺りに響いた。
『あら、売女ですって?』
『ご存知ないの? あの女が何をしていたのか』
『本当なら此処に居られるような身分じゃないのよ』
「や…めて…。言わないで…」
母は亡くなった。お前達の心無い言葉の、悪意の、害意のせいで。
『あの女は元は遊女よ。子を孕んだからと身請けされたけれど、それだって…』
「やめて!」
『本当に父君の子かどうかわからないわ』
違う違う違う違う違う!!
僕は父の子だと母は言った。父も認めてくれた!!
父は…っ。
耳を塞ぎ、叫び続ける浅葱の前にひとつの人影が現れた。
ぼんやりと白に輝く衣、星空のような群青の髪の男。父だ。
『氷月…』
父はそう名を呼んで、この上なく愛しげに自分を抱き上げる。
違うのです父上。僕は…。
「…僕は母上じゃない…!」
僕は浅葱です父上。母上じゃない。
母上はもう死んだのです。もうこの世には居られないのです。
『ほぅら見て。あの髪。あの髪の色』
『まるで陰気な冬空のよう。冷たい氷のよう。なんて寒々しい…。きっと、』
『きっとあのお子も氷のような人間なのよ。母親そっくりね』
「僕は…、」
父の幻は消え、幼かった自分は今の年の姿になり。一人、闇の中に立ち竦む。
自分は確かに氷のような人間かもしれない。冷たい人間であるのかもしれない。
いつしか悪意ある囁きに耳を塞ぎ、目を瞑り、何も言わず。
ただ唯々諾々と生きるだけの人形になってしまったから。
怒ることも泣くことも無意味だと悟ってしまったから。だけど、
『冬は嫌いか?』
こんな自分にも、まだ心はちゃんと残っていて。
本当は痛いと苦しいと辛いと寂しいと、思っていた。だから、
『わしは冬が好きだぞ。寒いのはちょっといただけんが、だからこそ温かさに感じ入る。それにな、冬は空気が一番澄んでいるんだ。その、ピンと張りつめた感じが良い。雪遊びも、よう嗜むぞ』
そう言ってくれた、君の言葉に。
『お前の髪は、好きだ。冬の空の何が悪い。それに、そういうことを言う輩はお前がどんな髪の色をしていても、口さがなく言うであろうよ。あまり気にせんことだ。そういう輩の言に、振り回されることはない。言われたことがないのなら、わしがいくらでも言ってやろう』
きっと僕は救われていた。
君と話す、些細なことが楽しかった。
君と過ごした、短い時間は心地よかった。
『綺麗な髪だ』
「…ありが…とう…」
あの時そう言って、自分は確かに微笑んだ。
それは一体、何年ぶりの笑顔だったろう。
「うっ…」
短い夢から覚めて、浅葱は小さく呻いた。
熱がより体を苛んでいる。喉がひどく乾いていた。
「…っぁ…は…っ」
これはただの熱ではないと、もう浅葱にも分かっていた。
ある欲求が、頭に焼き付いて離れない。
(…媚薬…か…っ。くそ…っ)
よりにもよって、と苦痛に表情を歪める。
ただの痺れ薬なら良かったのに。どうして、と。
浅葱はきつく、唇を噛んだ。血が滲むほどに。
痛みでなんとか正気を保ち、一心に、思う。
(…頼む…紅…)
お願いだから、君は来ないで。
傷つけてしまうから。傷つけたくないから。
こんな自分、見られたくない。君にだけは。