八、毒の華
衝立の陰で禿の用意した着物に着替ると、紅はむすっと仏頂面で雪藤の向かい側に腰を下ろした。これまた春らしい、紅梅重ねの衣である。
「おやおや。せっかく美しい姿なのに、そうむくれては台無しだよ? 小鳥ちゃん」
「…戯言を。貴殿は一体どういうつもりだ? わしにこんな恰好をさせて…」
紅が不快気に眉をひそめると、雪藤はおやおやと肩をすくめた。
「私のことは雪藤と呼んでおくれ。なに、君の身形では目立つからね。この店を探るならその姿の方が都合が良いと思うよ」
それに良く似合っている、と雪藤が微笑む。紅は「ちっ」と小さく舌打ちした。
似合う似合わないではなく、こういう動きにくい恰好が嫌なのだ。
(…だが、確かに雪藤殿の言うとおりかもしれない…)
この恰好でなら、店の中で目立たず行動できるだろう。紅はしぶしぶ、頷いた。
「もう少ししたら私が店を案内してあげよう。今はまだ人の出入りが多いから、もう少し待っていなさい」
時刻はちょうど客達が店を訪れる時間帯だ。各々がそれぞれの部屋へ散ったり、店の者が肴や酒を運んだりで忙しい。
雪藤は禿に運ばせた酒をすっと杯に注ぐ。そして紅には、肴として饗された鮎の甘露煮をすすめた。
骨まで甘く煮られた鮎の甘露煮は紅の大好物である。が、今はただ首を横に振って断った。囮として人攫いに囚われている浅葱を思えば、とても好物など食していられない。
「雪藤殿は知っているのか? 人攫い共がどこにいるのか。攫われた者達がどこに囚われているのか」
「大体の見当はつくよ。店の間取りは全て頭に入っているしね」
杯の酒を飲み干し、雪藤が言う。
「しかし驚いたね。深窓の姫君と思っていた君が、まさか一人で人攫いを追い、ここまで乗り込んでくるとは」
そしてこんなところで自分と鉢合わせするとは、と微笑む。「これは運命かな」と冗談めかして。
しかしそんな雪藤の戯言は聞き流して、紅は言う。
「一人ではない。協力してくれた者が囮になってくれたのだ。だからこの店に行き着いた」
「囮…?」
それは…、と眉をひそめる雪藤。
「まずいな…」
「なに…?」
それまでのどこかふざけた雰囲気が一転、剣呑さを帯びる。
「…君は何故私がここに居るのかと聞いたね。これがその答えだ…」
雪藤は懐から、小さな紙の包みを取り出す。
「何だそれは…」
包みを開くと、そこには白い粉末が小さく一山。薬のように見えるが…。
「西宮曼珠沙華の根を粉末にしたもの…と言えば君もわかるだろう?」
「っ!? 西宮曼珠沙華だとっ!」
西宮曼珠沙華。それは白虎帝の治める西の国、西の都の内裏にしか咲かない華である。曼珠沙華は元々根に毒を持つ植物だが、西宮曼珠沙華の根は依存性の強い麻薬になる。医療目的で使用されることもあるため内裏の薬草園で栽培されているが、危険性が強いので厳重管理されている代物だ。
「そう。常用すればひと一人簡単に壊せる恐ろしい代物だ。故に厳しく管理していたが…、一人の役人が金欲しさに西宮曼珠沙華を横流ししてね…」
その役人はすぐに捕まったが、薬草園から盗まれた西宮曼珠沙華はどこかへ売り払われていった。その行方を追っている内に、この高級遊郭に辿り着いたのだと言う。
「この店の主人と人攫い達は繋がっている。そして奴らは、不正に手に入れた西宮曼珠沙華の根を精製して薬を作った。その薬を使って、奴らは攫ってきた人間を薬漬けにし、足のつきにくい他国へ売り払おうとしているんだよ」
「っ!!」
(そんな…それでは…浅葱は…)
「浅葱っ!」
紅は部屋を飛び出した。雪藤が何かを言った気がするが、それすら耳に入らない。
制止の言葉なら無意味だ。たとえ何を言われても、紅は足を止めなかったろう。
(薬漬けだと…っ、ふざけるな! くそっ…わしが巻き込んだせいだ。浅葱…ったのむ…っ)
無事でいてくれと、声にならない叫びを上げる。
(たのむから…っ)
「やれやれ…」
禿ならけして立てないような慌ただしい足音で駆けて行った紅を見送って、雪藤がため息を吐く。店の間取りもわからないだろうに、あんなに血相を変えて。
「…恐らく最初は少量の薬をかがされているだけだろうが…」
少量でもしばらく体の自由を奪うのには十分だから、いきなり多量には服用させず、少しずつ慣らしていくだろうと思う。だから今ならまだ解毒薬を飲めば大丈夫なのだが…。
「話は最後まで聞くものだよ、小鳥ちゃん。それに…」
(あれには他に、やっかいな副作用があるからねぇ…)
「仕方ない。どうせ予定は早まってしまったんだ。私も手伝おうか…」
雪藤は残った酒を綺麗に飲み干し、ゆっくりと腰を上げた。
「ちいっ! 無駄に広いなこの店は!! 面倒な!!」
紅は何度迷ったかしれない廊下で立ち止まり、地団太を踏む。
離れから出るまでは良かったのだ。廊下が一本道だったから。
しかしいざ母屋に入ってみると、これが広いやら入り組んでいるやらでとても分かりにくい。
そしてそもそも、浅葱がどこに居るのかもわかっていないのである。簡単に辿り着けるはずもないが、気ばかり急いてじっとしていられない。
とりあえず人気の少ないところを手当たり次第当たるかと再び足を踏み出したところで、前方から数人こちらに向かってくる気配がした。
(っち。見つかったら面倒だな…)
隠れるべきか、昏倒させるべきか。
木刀は二本とも着替えた時に置いてきてしまったままなので、今手元には脇差ししかない。それでも数人を相手取るには十分だと構えた時、紅の頭に何かが被さった。
「っ!?」
頭に被されたのは、見覚えのある藤柄の上衣。
「雪ふっ…」
「しっ。じっとしておいで、小鳥ちゃん」
口元を手で塞がれ、上衣ごと抱き寄せられる。
前方から来る者達、この店の客と案内役の禿は廊下で抱き合う人影に一瞬目を丸くしたが、気にせず通り過ぎて行った。こういったことは此処ではよくあることだからだ。
「…行ったね」
「なら離せ!!」
気配が去っても緩めない雪藤の腕を、紅が苛立たしげに振り払う。
「おやおや。せっかく可愛い小鳥を捕まえたのに…」
「うるさいっ! 戯言を聞いている暇はないんだっ!!」
「ふふっ。わかっているよ」
自分の衣を被った紅の頭を撫で、雪藤が言う。
「君はこれを被っておいで。小鳥ちゃんの眼帯は人目につくからね。大丈夫、私が案内するよ」
君の探し人のいる部屋に。
だから安心しなさいと、雪藤は微笑った。