三、金平糖と桜の夜
さあっと音を立てて、満開の桜が散っていく。
酒楼の二階、開け放たれた障子窓から夜桜を眺めていた浅葱は、何度目か知れないため息を吐いた。
「…なんだ。シケた顔をして、何を考えている?」
二組み敷かれた布団の上に寝そべっている紅が、寝巻の浴衣からのぞく足をぷらぷらさせながら尋ねる。
「自分の間抜けさ加減に嫌気が差しているんだ」
路銀を全て盗られてしまった浅葱は、飴湯代はもちろんその日の宿泊費すら無くしてしまい、途方に暮れた。酒楼店主の好意でしばらくここに滞在させてもらうことになったが、知らせを送った実家から新たな路銀が届けられるまで、文無しである。
その間の代金をツケとして、金が入り次第払うことを店主が認めてくれたのは、紅の口利きがあってのこと。おまけに紅は、他の部屋に空きがないからと、自分の泊っている部屋に快く浅葱を相部屋させてくれた。まったく、紅には頭が上がらない。
「くっ。確かに、間抜けだな」
小さく笑って、紅は寝転がったまま金平糖をつまむ。枕元に漆塗りの皿を置いて、そこに一盛りのせているのだ。
さらにその隣には、甘酒の入った銚子が二本。どうやら紅は甘い物が殊の外好きらしい。飴湯一杯でもう十分な浅葱にしてみれば、正直金平糖をつまみに甘酒を呑む様には胸焼けを覚える。
「…最初に会った橋でも、やたらため息を吐いていたな。癖か?」
そんな所まで聞かれていたのか…、と浅葱はますます情けない思いである。
「癖…なのかな…。まあ、色々とうまくいかなくて。旅は初めてだし、探し物はなかなか見つからないし…」
「探し物?」
興味を持ったのか、紅がぴょこんっと起き上がる。
浅葱は、まあこれくらいなら話してもいいかと、懐から懐紙に包んだ耳飾りを取り出した。
「この耳飾りの片割れを探しているんだ」
「ふうん」
間近ににじり寄って、まじまじと耳飾りを見つめる紅。
「これは浅葱の大切な物なのか? だから探すのか?」
「大切…? これは一応…母の形見なのだが…。大切、というのとは違う…気がする。つい先日まで、この耳飾りの事は知らなかったし…」
母の形見なら他にもある。
それこそ、ずっと大切にしてきた物が、今も自分の部屋に残されている。
「ならば何故探す? なにか事情があるのか?」
紅の隻眼が真っすぐに浅葱を見つめる。
少女の瞳は、名前と同じ紅の色だ。
「…父に、言われたんだ。この耳飾りの片割れを見つけてきたら、自由にしてやるって」
「…自由?」
「ああ…。俺の母は、元々この都で遊女をしていた。そこを父に見初められ、身請けされて俺を産んだ。だが出自の低さから父の正室や側室達にさんざん目の敵にされて…」
もっとも、出自の低さなどただの口実で。
父の寵愛を一身に受ける美しい母を、妬んでいたのだろう。
「母はいびられ続け、最後には病であっけなく死んでしまった。俺も、母に顔立ちが似ているらしくて余計に風当たりがきつかった。だが父には俺の他に正室の産んだ兄しか子がなく、俺はもしものためにずっと後…いや、家に縛られ続けてきた」
表面上は父の次子として扱い、影では自分を蔑む正室や側室、その女官達。
自分は望まれていない存在なのだと、否応なく思い知らされた冷たい場所。
唯一の庇護者である父でさえ、自分を通して母を、最愛の女を見ているに過ぎないと気付いたのはいつからだっただろう。
いつしか何かを望むことも諦めて、自分はただ流されるままにあの場所で生きていくしかないのだと思っていた。
「……………」
紅は黙って聞いている。その紅い、一つしか見えない瞳に、自分はいったいどんな風に映っているのだろう。
「そんな俺に、最近縁談が持ち上がった。一度も会ったことのない相手だけど、だからと言って断る理由もない。でもそうしたら、父が言ったんだ」
お前はそれでいいのか、と。
「笑っちゃうよね、今更。俺に選択肢なんて存在しなかった。今まで、ずっと…」
でもそうしたら、父はとても悲しそうな顔をして、言ったのだ。
母の残した耳飾り。二つで一対になるそれは、昔母がこの火の都で紛失してしまったらしい。その片割れを見つけてきたら、浅葱の望むように好きに生きていいのだと言った。
「家に残るのも、出て行くのも…。好きに俺が選んで良いんだって、言ったんだ」
正直、この広い都で十数年前に紛失した耳飾りの片割れなど、見つかる可能性は無いに等しい。父が何を思ってこんな交換条件をつけてきたのかはわからないが、これは初めて浅葱に用意された『選択肢』。だから浅葱はこの火の都へ来た。自分の自由を、自分の力で得るために。
「手掛かりは、母が昔居た遊郭の名前だけ。それ以上は何の手掛かりも掴めていないけど、まあ気長に探すことにするよ」
せっかく初めて家の外に出られたんだし。初めての火の都を、楽しむのも悪くないかもしれない。
焦る必要は、無い。紅相手に胸の内を吐露して、何だか不思議とそういう気分になった。
「自分で自由を勝ち取る、か。いいな、それ」
紅はにっと笑った。
「うちも似たようなものだ。これをやらなければいけない。あれをやってはいけない。まったく、口煩い者が多すぎる。クソ親父にも、」
何度女らしくしろと言われたかわからん、と紅は眉をしかめる。
そして紅は、枕元に置かれた脇差しを掴んで、浅葱に見せた。
「これはな、わしの宝物だ。三年前、わしが十になった祝いに父が造らせたものだ。わしは嬉しくて、一生大切にすると誓った。そうしたら父も喜んで、わしが十三の歳になったらこれと揃いの太刀を拵えてくれると言った。にもかかわらず、あのクソ親父はっ」
呼称が父からクソ親父へと変わり、紅の表情がますます不機嫌にしかめられる。
「今年の祝いには、衣やら宝石やら化粧道具やらをわんさか贈ってきおった。約束が違うと文句を言いに言ってやったら…」
「や、やったら…?」
「言うに事欠いて、『お前に縁談がきたぞ。喜べ』と。あのクソ親父っ。『これからはもっと大人しくしろ。女らしくしとやかに振る舞え』と言いおった。おまけに、あの太刀の事もすっかり忘れていたのだ。わしは三年間、それを楽しみにしたくもない稽古事にも励んだというのにっ!!」
フンッと、いらだたしげに紅の拳が床を叩く。
そして、どこか悪そうな不敵な笑みを浮かべた。
「だから、わしは家を出てやったのだ。あのクソ親父に、ひと泡吹かせてやるためにな」
土下座して謝るまで許さん! と紅は言う。
これが彼女なりの、自由の勝ち取り方、なのだろう。
「かっこいいな」
「だろう?」
一転して上機嫌に、紅が笑う。
見ていて飽きない少女だ。そう浅葱が思っていると、紅はまたころんと体を横たえて、浅葱の膝に自分の頭を乗せてきた。膝枕だ。
「お前もな、顔も知らん女との縁談などやめておけ。わしなら絶対に嫌だ」
「…どうして?」
「どうしてって、お前なぁ。そんなもん、ちゃんと相手を好きになれるかわからないだろう」
さも当然と言わんばかりに、紅が言う。
「好きになれるかわからない相手と結婚しても、お互いが不幸になるだけだ。心の通わない結婚は、辛いぞ」
「…………そうかもしれないね」
自分より幼い少女のくせに、ずいぶん大人びたことを言う。
浅葱は苦笑して、その小さな額に手を当てた。
春風に冷えた手が、子供の温かい額を冷やす。それが心地良いのか、紅は猫のように浅葱の体に身を寄せた。
「冷たくて気持ちいいな…」
「それは良かった。末端冷え性なんだ」
冗談めかして言うと、紅は「ははっ」と愉快そうに笑う。
「……紅は、このまま逃げようと……」
「ん?」
「…このまま逃げようとは思わないのか? 女扱いされることも、縁談も嫌なのだろう?」
このまま逃げてしまえば、自由になれる。
それは浅葱も考えていたことだった。それに案外、父も自分が逃げ出すことを望んでいるのかもしれない。暗に、もうお前はいらないのだと。そういうことなのかもしれない。
「………わしは逃げぬよ。うちに帰る」
返ってきたのは、不似合いなほど穏やかな声。
「…わしには守らねばならんもの、守りたいものがある。だからな、わしは帰るよ。腹立たしいことがある。ままならぬことも。その度に暴れて、家を出はするが…」
それでも逃げるわけにはいなかいと、紅は言った。
紅はもう自分の宿命を受け入れている。それは、浅葱のような諦めではなく、覚悟を持ってのことだ。
しかし自分には、はたしてそんな覚悟があったのだろうか。
「なあ浅葱、金平糖をくれ」
くれ、と言うからには自分で動く気はないのだろう。やれやれと皿を引きよせながら、それでも嫌な気がしないのが不思議だ。
紅が女の子なのに男らしくて偉そうなのは、もう自然なことのように感じられる。
相変わらず浅葱の膝を枕に寝転がっている紅の口元に、金平糖を一欠け運ぶと、小さな口がぱくっと咥える。
「…好きなのか? 甘い物が」
見ていればわかることだけれど、そう尋ねると紅はこくこくと頷いた。
「ああ好きだ。み…家に居る時は口煩いヤツがいて、思うように食べられなかった。だから家出中は好きに食うのだ」
「その人だって、紅の身を案じて言うのだろう。甘い物ばかりでは体に悪い」
そう言いながらも、甲斐甲斐しく紅の口に金平糖を運んでやる浅葱。
「…むむ。わかった。次からは加減しよう」
「そうしなさい」
言って、しばらく額を撫でてやると、いつのまにか紅はすうすうと寝息を立て始める。
やれやれとその体を抱き上げて布団に寝かせると、浅葱もまた隣の布団に横になった。
障子窓から、風に揺れて桜が散っていく様が見える。
それをしばらく眺めている内に、浅葱もまた深い眠りに落ちていった。
ナチュラルにいちゃつく二人。しかし紅が男前すぎて…(笑)